最終話:天下泰平の縁側と「語り継がれた総務道」
慶長十九年(1614年)。
江戸幕府が開かれてから十年余りが経過し、世の中は急速に「戦の時代」から「文治・法令の時代」へと移り変わりつつあった。
江戸近郊 小高い丘に建つ小山田家の屋敷。
庭の枝垂れ桜が美しく舞い散る季節、日当たりの良い縁側で、六十代に差し掛かった信茂はのんびりと柿の種を摘んでいた。
「じぃじー! 刀ごっこしよう!」
「これこれ、無礼ですよ。御隠居様、お邪魔ではありませんか?」
元気よく庭を駆け回る孫の相手をしながら、白髪の増えた小林宮内助が笑みを浮かべてやってくる。
信茂は「構わん、構わん」と目を細め、お茶をすすった。
「宮内助、今日も平和だなあ」
「はい。街も穏やかで、一揆どころかボヤ騒ぎ一つございません」
前世で過労死した58歳の壁をとうに越え、いまや信茂は戦国時代としてはかなりの長寿の域に入りつつあった。
胃潰瘍に怯えることもなく、締め切りに追われることもない。
毎日が「日当たりの良い縁側でのお茶タイム」という、前世の社畜時代に夢見てやまなかった最高の定年退職ライフである。
そこへ、門の方からバタバタと激しい足音が響いてきた。
「ご無礼つかまつる! 小山田左衛門尉殿の屋敷はこちらか!?」
現れたのは、身なりの良い徳川家の若き役人たち数名であった。
息を切らし、額に汗を浮かべた若者たちの先頭に立っているのは、かつて信茂と共に江戸の都市開発で死に物狂いの書類仕事をこなした伊奈忠次の嫡男・忠政であった。
「……おや、伊奈殿の若君ではないか。そんなに慌ててどうされた?」
信茂がのんびりと問いかけると、若い役人はドサッと縁側の前にひざまずき、頭を下げた。
「小山田の御隠居様! どうか……どうか我らに知恵をお貸しください!」
聞けば、現在、江戸幕府では「大坂の陣」に向けた全国規模の兵糧・資材の徴発と、関東全域の検地帳の統合作業が進められているのだという。
しかし、武功派の若い武士たちが書類を作成すると、書式はバラバラ、数字の計算ミスは多発、現場の土豪たちとの利害調整もうまくいかず、奉行所は大パンク状態に陥っていた。
「父(伊奈忠次)が生前、『困ったことがあれば小山田殿を頼れ。あの御方はかつて武田・織田・徳川の三代にわたり、完璧な書類と根回しで組織を支え抜いた伝説の総務官(帳簿の達人)だ』と言い残したのです!」
忠政は涙目になりながら、抱えてきた膨大な書類の山を差し出した。
「今のままでは、大坂へ出陣する前に幕府の事務方が過労で全滅してしまいます!小山田の 御隠居様、どうか……効率的な書類の書き方と、現場を収める極意をご教示ください!」
信茂は差し出された書類をパラパラとめくった。
(……うわぁ、ひどいな。目次もないし、数字の桁も揃ってない。前世で言えば『新入社員がExcelを使わずに手書きで作った散らかった報告書』だ……)
信茂は苦笑いを浮かべた。
一度は完全に退職した「総務・事務」の世界。だが、困り果てた若者たちの姿に、前世で後輩社員に書き方を教えていた頃の血が少しだけ騒いだ。
「ふぅ……仕方がないな。一回しか言わないから、しっかりメモを取るんだぞ」
「はいっ!」
信茂は煙管を置くと、筆を執った。
「まず第一に! 『書類のフォーマット(書式)の統一』だ。提出する者ごとに書き方が違っていたら、確認する側の時間がいくらあっても足りん。日付、品名、数量、責任者の花押の場所をすべて固定しろ」
「は、はいっ!」
「第二に! 『数字のダブルチェック(二重確認)』だ。勘定奉行の計算ミス一つで、現場の兵士が三日間メシを食えなくなると思え。計算が終わったら、必ず別の者に確認させろ」
「なるほど……!」
「そして第三に! これが一番大事だ。現場の土豪や職人たちに無理を頼むときは、『相手のメリット(利害)を提示すること』だ。上から目線で命令するから反発される。『これに協力してくれれば来年の年貢の端数を負ける』といったインセンティブを与える根回し(事前交渉)を怠るな!」
信茂の口から次々と繰り出される、前世のビジネスマナーと戦国を生き抜いた実践的ノウハウ。
忠政たちは「おおお……っ! 目から鱗が落ちるようです!」と猛烈な勢いでメモを取っていく。
「いいか、『総務・実務』とはな……目立つ武功ではない。だが、現場の人間が安全に、無駄なく働き、誰も無駄死にさせないための『命の砦』なのだ」
信茂は温かい目で若者たちを見つめた。
「お前たちが書類を正確に書くことで、戦場で死なずに済む兵士や、飢えずに済む領民が何千人もいる。誇りを持って仕事をしろ」
「……っ!!」
忠政たちは感動のあまり、ボロボロと涙を流しながら深々と平伏した。
「感謝いたします、小山田の御隠居様! この『小山田流・実務心得』、必ずや幕府の礎といたします!」
数日後。
忠政たちが晴れやかな顔で江戸へ戻っていった後、信茂は再び縁側でぽかぽかとした陽気を浴びていた。
「信茂様。教え込まれた若者たち、これで江戸幕府の事務方も安泰でございますね」
宮内助がお茶を注ぎ直しながら言った。
「なあに、俺が教えたのは前世のビジネスマナーと、この時代で学んだ生き残りの知恵を混ぜただけさ」
信茂はふふっと笑った。
(史実の小山田信茂は『裏切り者』『日和見の愚物』として歴史に悪名を残し、三十二歳の若さで命を落とした。……だけど、この世界での俺はどうだ?)
武田勝頼を見捨てず、最後まで組織を整えて織田家と交渉した。
本能寺の変の混乱では、滝川一益を完璧なロジスティクスで安全に撤退させた。
北条と徳川の泥沼の争い(天正壬午の乱)では、徹底した居留守で家臣を誰一人死なせなかった。
徳川家康の下では、江戸の都市開発と行政の土台を作り上げた。
そして何より――自分の身を守り、家臣を守り、満額の退職金をもらって定年退職した。
「なあ、宮内助」
「はっ」
「俺の人生……悪くなかったよな?」
「何を仰いますか」
宮内助は穏やかに、しかし深く深く頷いた。
「信茂様は、武田の世から今日まで、一度として無駄な戦を起こさず、我ら家臣や領民の命を第一に考えてくださった『日本一の殿様』にございます。小山田家の一族郎党、誰一人として信茂様を裏切り者などと思っておりませぬ。皆、心から感謝しております」
「……そうか」
信茂は目頭が熱くなるのを感じた。
前世では、誰にも看取られず、エアコンの壊れたアパートで寂しく命を終えた。
だが、この戦国の世に生まれ変わり、死に物狂いで「リスクヘッジ」と「人間関係の調整」を続けた結果、自分を心から慕ってくれる仲間と、温かい家族に囲まれている。
(ああ……俺の転職活動は、大成功だったんだな)
信茂は菓子を口に運び、深く息を吐いた。
「爺様ー! お茶が冷めちゃうよー!」
「おお、今行くよ」
信茂は重い腰を上げ、愛おしい家族の待つ部屋へと歩き出した。
首を跳ね飛ばされることもなく、病で倒れることもなく。
かつて社畜だった男は、戦国の世を「完全勝利」で走り抜け、暖かな家族の笑顔に包まれながら、穏やかな老後をどこまでも歩んでいくのであった。
【完】




