第六話:本能寺の変と「超速リスクヘッジ」
天正十年(1582年)六月二日。
日本史の時空を激震させる大事件が、京都・本能寺で勃発した。
天下人・織田信長、家臣・明智光秀の謀反により自害。嫡男・信忠も二条御所で討ち死に。
この報せが、上野の国・厩橋城で関東管領としての政務を執っていた滝川一益、そしてその傍らに配属されていた小山田信茂のもとに届いたのは、事件から数日後のことであった。
「――な、何だと……ッ!?」
報告を受けた一益は、顔面を蒼白にさせ、持っていた盃を床に落とした。盃は甲高い音を立てて砕け散る。
「信長様が……本能寺で……!? 信忠様も……!? 馬鹿な、そんな馬鹿なことがあってたまるかッ!!」
広間は一瞬にしてパニックに陥った。
織田家の家臣たちは右往左往し、叫び、あるいは刀を抜いて叫び散らしている。
天下を統一しかけていた絶対的CEO(社長)と、後継者CEO(副社長)が同時に死亡したのだ。現代で言えば、大企業が倒産どころか最高幹部全員が消滅して株価が即死、明日からの会社の方針すら消え去った状態である。
「終わりだ……我が織田家は終わりだ……! 北条が……北条がこの報せを聞けば、直ちに数万の兵で我らに襲いかかってくるぞ……!」
一益は頭を抱え、ガタガタと震え出した。
実務派として優秀な一益であっても、あまりの巨大すぎる不祥事(トップの死)にパニックを抑えきれない。
だが――その惨状の中で、一人だけ恐ろしいほど冷静な男がいた。
(よし……! ついに来た!!)
信茂である。
信茂の脳内では、前世の総務部時代に訓練された『緊急事態対応マニュアル(BCP:事業継続計画)』が即座に起動していた。
(社長の急死! 敵対的買収(北条の侵攻)の発生! 組織の空中分解! 全て想定内だ! 過去二ヶ月間、この日のために『非常時撤退マニュアル』を準備してきたんだからな!)
信茂はスッと立ち上がると、動転する一益の肩を両手で強く掴んだ。
「滝川様! 落ち着いてください! パニックを起こすのが一番のリスクです!」
「お、小山田……! しかし信長様が……!」
「信長様がお亡くなりになったからこそ、あなたの指揮が必要なのです!」
信茂の力強く、どこか呆れるほど落ち着いた声に、一益はハッと息を飲んだ。
「いいですか、滝川様! 今すぐ実行すべきタスク(業務)は三つです!」
信茂は立て続けに指を立てた。
「情報規制(隠蔽)」:上野の国人衆(地元の土豪)に信長の死が伝わるのを1分でも遅らせる!
「即時撤退(損切り)」:北条軍が全軍で押し寄せる前に、上野を捨てて伊勢(一益の本拠地)へ撤退する!
「安全な退路の確保」:追撃をかわすため、信濃・甲斐を経由する最短ルートの兵糧と護衛を配置する!
「撤退……!? 上野を捨てるというのか!?」
「当たり前です! 今の上野で北条と戦っても勝率はゼロ! 組織が崩壊した今、無駄な現場(上野)に執着して全滅するのは最悪の経営ミスです! 生きて伊勢へ帰り、次の社長を決める『会議』に参加することこそが、あなたの生き残る唯一の道です!」
一益は目を見開いた。
信茂の言う通りだった。上野にとどまれば、寝返った地元の国人衆と北条軍に挟み撃ちにされて討ち死にする。生きて本国へ戻らなければ、織田家内での自分の立場すら失うのだ。
「小山田……お前は、なぜそこまで冷徹に判断できる……?」
「俺は死にたくないからですよ」
信茂は不敵に笑った。
「さあ滝川様! 我が『織田家甲州総務部』が作成した『上野超速撤退マニュアル』に従って、ただちに退却の指揮を!!」
信茂の予測通り、信長の死を知った北条氏直率いる五万の大軍が、怒涛の勢いで上野へ侵攻してきた(神流川の戦い)。
一益軍は必死に抗戦したものの、多勢に無勢。撤退戦へと追い込まれた。
しかし、史実と大きく異なったのは「撤退の凄まじい手際の良さ」であった。
信茂があらかじめ準備していた「避難ルート」と「各関所への根回し(賄賂と兵糧の配置)」により、滝川軍は壊滅的な打撃を受けることなく、奇跡的なスピードで三国峠・信濃ルートを抜けて退却することに成功したのだ。
「小山田……感謝する! お前がいなければ、わしは上野で討ち死にしていた!」
信濃との国境にて、一益は涙を流しながら信茂の手を握りしめた。
「滝川様、お気をつけて。伊勢へ戻られたら、次の天下人が誰になるか……じっくりと見極めてください(読みを怠らないでください)」
「うむ! お前はどうするのだ?」
「俺は本拠地である甲斐・郡内へ戻ります。これから旧武田領(甲斐・信濃)は、北条・徳川・上杉という巨大企業三社による『泥沼の敵対的買収合戦(天正壬午の乱)』に突入しますからね」
信茂は遠くの山並みを見つめた。
「俺は……誰が勝つか完全に決まるまで、徹底的に動かない(日和見決め込み)のポーズを貫きます」
「ハハハ! お前らしいわ!」
一益は馬に跨り、伊勢を目指して去っていった。
(さて……ここからが本当の修羅場だ)
信茂は一人、岩殿城へと戻る道中で息を吐いた。
信長という巨大な重石が消えた今、旧武田領は無主の地と化した。
北条家、徳川家、上杉家という三つの巨大勢力が、この土地を奪い合って血の雨を降らせようとしている。
そして案の定、岩殿城へ戻った信茂のもとに、怒涛の勢いで「スカウトメール(調略の使者)」が舞い込んできたのである。
岩殿城の広間には、小林宮内助をはじめとする家臣たちが、山のような書状を前に頭を抱えていた。
「信茂様! 大変にございます!」
宮内助が青ざめた顔で報告する。
「相模の北条氏直様より『我が傘下に入れば、甲斐一国の切り取り勝手を認める』との密書が届きました! さらに、越後の上杉景勝様からも『共に織田の残党を追い払い、信濃を分け合おう』との誘いが! そして……」
「そして?」
「旧武田の遺臣たちから『今こそ武田家を再興する時! 小山田殿、我らの盟主となって織田・徳川を追い払いましょう!』との激熱な決起文書が届いております!」
広間に集まった小山田家の若手武将たちが、興奮で目を輝かせた。
「信茂様! 武田再興ですぞ! 織田信長が死んだ今、我らが立ち上がれば、再び甲斐の覇者となれます!」
「北条と組んで徳川を叩くべきです!」
「いや、上杉と結んで独立国を作るのです!」
熱狂する家臣たち。
前世で言えば、「会社が倒産したぞ! 今こそ俺たちでベンチャー企業を立ち上げて一発逆転だ!」と息巻く無鉄砲な社員たちである。
信茂は冷めた目で彼らを見つめると、卓上の書状をすべてゴミ箱(木箱)の中に投げ捨てた。
「……あ」
家臣たちが絶句する。
「信茂様!? 何をなさいますか!」
「アホかお前たちは」
信茂は深く溜め息をつき、文机に頬杖をついた。
「武田再興? 独立? 正気か? 現代……じゃなくて今の我が小山田家の兵力は幾つだ? たかだか千か二千だろ。対する北条は五万、徳川は三万、上杉は二万だ。そんな巨大企業(大名)同士が本気で潰し合おうとしている激戦区に、なんで創業(独立)したての弱小ベンチャーが乗り込んでいかなきゃならないんだよ!」
「し、しかし……今動かねば、勝ち組に乗る機会を失いますぞ!」
「それが一番のトラップ(罠)なんだよ!!」
信茂はバンと机を叩いて立ち上がった。
「いいか! 『誰が勝つか分からない混乱期』に焦ってどちらか陣営に就くのは、ギャンブルだ! もし選んだ方が負けたらどうなる? 我が小山田家は全滅だぞ! 過去の歴史(歴史の知識)を思い出してみろ! 混乱期に真っ先に名乗りを上げた奴から順番に死んでいくんだよ!」
信茂は興奮する家臣たちを指さした。
「北条の『切り取り勝手』? そんなの口約束(内定取り消し可能)に決まってるだろ! 武田再興? 誰が社長やるんだよ! 予算(兵糧)はどこから出るんだよ! 精神論でベンチャー立ち上げる奴は全員破産するんだ!」
「ぐ……っ」
「いいか、我が小山田家の今期の方針は一つ……『徹底的な静観(居留守)』だ!」
「居留守……!?」
宮内助が目を見開く。
「そうだ! 北条から使者が来たら『ただいま先代の喪に服しておりまして、動けません』と言って追い返せ! 徳川から使者が来たら『領内で一揆が起きておりまして、対応に追われております』と言って時間を稼げ! 上杉から使者が来たら『病気で寝込んでおります』で押し通せ!」
信茂の徹底した「事触れ(嘘の言い訳)」作戦に、家臣たちは呆れ果てた。
「そ、そんな子供騙しのような理由で、あの北条や徳川が納得いたしますでしょうか……?」
「納得させるんだよ! こっちから攻撃しない限り、奴らもわざわざ攻め込んではこない! なぜなら、奴らはお互い(北条vs徳川)を倒すことで頭がいっぱいだからな! 巨大企業同士が殴り合っている横で、俺たちは存在感を消して『透明人間』になるんだ!」
信茂の狙いは、見事なまでに的中した。
甲斐・信濃を舞台に始まった『天正壬午の乱』。
北条氏直の五万の大軍と、徳川家康の三万の軍勢が正面から激突し、各地で激しい調略合戦と合戦が繰り広げられた。
真田昌幸のように、北条・徳川・上杉の間をクルクルと寝返りまくって生き残りを図る天才(綱渡り経営者)もいたが、一歩間違えれば即全滅という極限のリスクを背負っていた。
一方、小山田信茂は――。
「あ~、申し訳ありません! 本日は信茂様が酷い頭痛でお会いできませんで! 兵の提出? いやぁ、あいにく村のイノシシ退治で手が離せませんでして……!」
岩殿城の門前で、小林宮内助が申し訳なさそうな顔で北条の使者を追い返していた。
使者たちは「ちっ、使えん山奥の小領主め」と捨て台詞を残して去っていく。
(よしよし……! 『使えない奴』『影が薄い奴』と思われるのが最高のリスクヘッジだ!)
城の奥で、信茂はのんびりと茶をすすりながら笑っていた。
争っている両者(北条と徳川)からすれば、郡内の小山田など「放っておいても実害はない小さすぎる存在」になり下がったのだ。
そして、戦況は次第に泥沼化し、疲弊した北条と徳川は「和睦」の道を模索し始める。
甲斐・信濃の大部分は徳川家康の領地となり、北条は関東へ撤退することが決定したのだ。
「――勝負があったな」
信茂は茶碗を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「北条が引き、徳川が甲斐の新たなオーナー(親会社)に決まった。……よし、居留守(静観)終了だ!」
信茂の目が、急激にビジネスマンの光を取り戻した。
「宮内助! 徳川家康様の陣へ送る『お祝いの品』と『完璧に更新された甲斐・郡内の資産台帳』を用意しろ!」
「は、はいっ! ついに動くのですか!」
「そうだ! 誰が勝つか分からない時の投資はギャンブルだが、『勝ちが決まった後のお祝い(ゴマすり)』は100%リターンが得られる最高の投資だからな!」
信茂は不敵に笑った。
次なるターゲットは、慎重派でリスクを好まない実利主義者――徳川家康。
自称・中間管理職のサラリーマン武将・小山田信茂の、新たな「転職活動」が始まろうとしていた。




