表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/10

第六話:本能寺の変と「超速リスクヘッジ」

天正十年(1582年)六月二日。

日本史の時空を激震させる大事件が、京都・本能寺で勃発した。

天下人・織田信長、家臣・明智光秀の謀反により自害。嫡男・信忠も二条御所で討ち死に。


この報せが、上野こうずけの国・厩橋まやばし城で関東管領としての政務を執っていた滝川一益、そしてその傍らに配属されていた小山田信茂のもとに届いたのは、事件から数日後のことであった。

「――な、何だと……ッ!?」

報告を受けた一益は、顔面を蒼白にさせ、持っていた盃を床に落とした。盃は甲高い音を立てて砕け散る。

「信長様が……本能寺で……!? 信忠様も……!? 馬鹿な、そんな馬鹿なことがあってたまるかッ!!」

広間は一瞬にしてパニックに陥った。

織田家の家臣たちは右往左往し、叫び、あるいは刀を抜いて叫び散らしている。

天下を統一しかけていた絶対的CEO(社長)と、後継者CEO(副社長)が同時に死亡したのだ。現代で言えば、大企業が倒産どころか最高幹部全員が消滅して株価が即死、明日からの会社の方針すら消え去った状態である。

「終わりだ……我が織田家は終わりだ……! 北条が……北条がこの報せを聞けば、直ちに数万の兵で我らに襲いかかってくるぞ……!」

一益は頭を抱え、ガタガタと震え出した。

実務派として優秀な一益であっても、あまりの巨大すぎる不祥事(トップの死)にパニックを抑えきれない。


だが――その惨状の中で、一人だけ恐ろしいほど冷静な男がいた。

(よし……! ついに来た!!)

信茂である。

信茂の脳内では、前世の総務部時代に訓練された『緊急事態対応マニュアル(BCP:事業継続計画)』が即座に起動していた。

(社長の急死! 敵対的買収(北条の侵攻)の発生! 組織の空中分解! 全て想定内だ! 過去二ヶ月間、この日のために『非常時撤退マニュアル』を準備してきたんだからな!)

信茂はスッと立ち上がると、動転する一益の肩を両手で強く掴んだ。

「滝川様! 落ち着いてください! パニックを起こすのが一番のリスクです!」

「お、小山田……! しかし信長様が……!」

「信長様がお亡くなりになったからこそ、あなたの指揮が必要なのです!」

信茂の力強く、どこか呆れるほど落ち着いた声に、一益はハッと息を飲んだ。

「いいですか、滝川様! 今すぐ実行すべきタスク(業務)は三つです!」


信茂は立て続けに指を立てた。

「情報規制(隠蔽)」:上野の国人衆(地元の土豪)に信長の死が伝わるのを1分でも遅らせる!

「即時撤退(損切り)」:北条軍が全軍で押し寄せる前に、上野を捨てて伊勢(一益の本拠地)へ撤退する!

「安全な退路の確保ロジスティクス」:追撃をかわすため、信濃・甲斐を経由する最短ルートの兵糧と護衛を配置する!

「撤退……!? 上野を捨てるというのか!?」

「当たり前です! 今の上野で北条と戦っても勝率はゼロ! 組織が崩壊した今、無駄な現場(上野)に執着して全滅するのは最悪の経営ミスです! 生きて伊勢へ帰り、次の社長を決める『会議』に参加することこそが、あなたの生き残る唯一の道です!」

一益は目を見開いた。

信茂の言う通りだった。上野にとどまれば、寝返った地元の国人衆と北条軍に挟み撃ちにされて討ち死にする。生きて本国へ戻らなければ、織田家内での自分の立場すら失うのだ。

「小山田……お前は、なぜそこまで冷徹に判断できる……?」

「俺は死にたくないからですよ」

信茂は不敵に笑った。

「さあ滝川様! 我が『織田家甲州総務部』が作成した『上野超速撤退マニュアル』に従って、ただちに退却の指揮を!!」


信茂の予測通り、信長の死を知った北条氏直率いる五万の大軍が、怒涛の勢いで上野へ侵攻してきた(神流川の戦い)。

一益軍は必死に抗戦したものの、多勢に無勢。撤退戦へと追い込まれた。

しかし、史実と大きく異なったのは「撤退の凄まじい手際の良さ」であった。

信茂があらかじめ準備していた「避難ルート」と「各関所への根回し(賄賂と兵糧の配置)」により、滝川軍は壊滅的な打撃を受けることなく、奇跡的なスピードで三国峠・信濃ルートを抜けて退却することに成功したのだ。

「小山田……感謝する! お前がいなければ、わしは上野で討ち死にしていた!」

信濃との国境にて、一益は涙を流しながら信茂の手を握りしめた。

「滝川様、お気をつけて。伊勢へ戻られたら、次の天下人が誰になるか……じっくりと見極めてください(読みを怠らないでください)」

「うむ! お前はどうするのだ?」

「俺は本拠地である甲斐・郡内へ戻ります。これから旧武田領(甲斐・信濃)は、北条・徳川・上杉という巨大企業三社による『泥沼の敵対的買収合戦(天正壬午の乱)』に突入しますからね」

信茂は遠くの山並みを見つめた。

「俺は……誰が勝つか完全に決まるまで、徹底的に動かない(日和見決め込み)のポーズを貫きます」

「ハハハ! お前らしいわ!」

一益は馬に跨り、伊勢を目指して去っていった。

(さて……ここからが本当の修羅場だ)

信茂は一人、岩殿城へと戻る道中で息を吐いた。


信長という巨大な重石が消えた今、旧武田領は無主のブラックマーケットと化した。

北条家、徳川家、上杉家という三つの巨大勢力が、この土地を奪い合って血の雨を降らせようとしている。

そして案の定、岩殿城へ戻った信茂のもとに、怒涛の勢いで「スカウトメール(調略の使者)」が舞い込んできたのである。

岩殿城の広間には、小林宮内助をはじめとする家臣たちが、山のような書状を前に頭を抱えていた。

「信茂様! 大変にございます!」

宮内助が青ざめた顔で報告する。

「相模の北条氏直様より『我が傘下に入れば、甲斐一国の切り取り勝手を認める』との密書が届きました! さらに、越後の上杉景勝様からも『共に織田の残党を追い払い、信濃を分け合おう』との誘いが! そして……」

「そして?」

「旧武田の遺臣たちから『今こそ武田家を再興する時! 小山田殿、我らの盟主となって織田・徳川を追い払いましょう!』との激熱な決起文書が届いております!」

広間に集まった小山田家の若手武将たちが、興奮で目を輝かせた。

「信茂様! 武田再興ですぞ! 織田信長が死んだ今、我らが立ち上がれば、再び甲斐の覇者となれます!」

「北条と組んで徳川を叩くべきです!」

「いや、上杉と結んで独立国を作るのです!」


熱狂する家臣たち。

前世で言えば、「会社が倒産したぞ! 今こそ俺たちでベンチャー企業を立ち上げて一発逆転だ!」と息巻く無鉄砲な社員たちである。

信茂は冷めた目で彼らを見つめると、卓上の書状をすべてゴミ箱(木箱)の中に投げ捨てた。

「……あ」

家臣たちが絶句する。

「信茂様!? 何をなさいますか!」

「アホかお前たちは」

信茂は深く溜め息をつき、文机に頬杖をついた。

「武田再興? 独立? 正気か? 現代……じゃなくて今の我が小山田家の兵力は幾つだ? たかだか千か二千だろ。対する北条は五万、徳川は三万、上杉は二万だ。そんな巨大企業(大名)同士が本気で潰し合おうとしている激戦区に、なんで創業(独立)したての弱小ベンチャーが乗り込んでいかなきゃならないんだよ!」

「し、しかし……今動かねば、勝ち組に乗る機会を失いますぞ!」

「それが一番のトラップ(罠)なんだよ!!」


信茂はバンと机を叩いて立ち上がった。

「いいか! 『誰が勝つか分からない混乱期』に焦ってどちらか陣営に就くのは、ギャンブルだ! もし選んだ方が負けたらどうなる? 我が小山田家は全滅だぞ! 過去の歴史(歴史の知識)を思い出してみろ! 混乱期に真っ先に名乗りを上げた奴から順番に死んでいくんだよ!」

信茂は興奮する家臣たちを指さした。

「北条の『切り取り勝手』? そんなの口約束(内定取り消し可能)に決まってるだろ! 武田再興? 誰が社長やるんだよ! 予算(兵糧)はどこから出るんだよ! 精神論でベンチャー立ち上げる奴は全員破産するんだ!」

「ぐ……っ」

「いいか、我が小山田家の今期の方針は一つ……『徹底的な静観(居留守)』だ!」

「居留守……!?」

宮内助が目を見開く。

「そうだ! 北条から使者が来たら『ただいま先代の喪に服しておりまして、動けません』と言って追い返せ! 徳川から使者が来たら『領内で一揆が起きておりまして、対応に追われております』と言って時間を稼げ! 上杉から使者が来たら『病気で寝込んでおります』で押し通せ!」

信茂の徹底した「事触れ(嘘の言い訳)」作戦に、家臣たちは呆れ果てた。

「そ、そんな子供騙しのような理由で、あの北条や徳川が納得いたしますでしょうか……?」

「納得させるんだよ! こっちから攻撃しない限り、奴らもわざわざ攻め込んではこない! なぜなら、奴らはお互い(北条vs徳川)を倒すことで頭がいっぱいだからな! 巨大企業同士が殴り合っている横で、俺たちは存在感を消して『透明人間』になるんだ!」


信茂の狙いは、見事なまでに的中した。

甲斐・信濃を舞台に始まった『天正壬午の乱』。

北条氏直の五万の大軍と、徳川家康の三万の軍勢が正面から激突し、各地で激しい調略合戦と合戦が繰り広げられた。

真田昌幸のように、北条・徳川・上杉の間をクルクルと寝返りまくって生き残りを図る天才(綱渡り経営者)もいたが、一歩間違えれば即全滅という極限のリスクを背負っていた。


一方、小山田信茂は――。

「あ~、申し訳ありません! 本日は信茂様が酷い頭痛でお会いできませんで! 兵の提出? いやぁ、あいにく村のイノシシ退治で手が離せませんでして……!」

岩殿城の門前で、小林宮内助が申し訳なさそうな顔で北条の使者を追い返していた。

使者たちは「ちっ、使えん山奥の小領主め」と捨て台詞を残して去っていく。

(よしよし……! 『使えない奴』『影が薄い奴』と思われるのが最高のリスクヘッジだ!)

城の奥で、信茂はのんびりと茶をすすりながら笑っていた。

争っている両者(北条と徳川)からすれば、郡内の小山田など「放っておいても実害はない小さすぎる存在」になり下がったのだ。

そして、戦況は次第に泥沼化し、疲弊した北条と徳川は「和睦」の道を模索し始める。


甲斐・信濃の大部分は徳川家康の領地となり、北条は関東へ撤退することが決定したのだ。

「――勝負があったな」

信茂は茶碗を置き、ゆっくりと立ち上がった。

「北条が引き、徳川が甲斐の新たなオーナー(親会社)に決まった。……よし、居留守(静観)終了だ!」

信茂の目が、急激にビジネスマンの光を取り戻した。

「宮内助! 徳川家康様の陣へ送る『お祝いの品』と『完璧に更新された甲斐・郡内の資産台帳』を用意しろ!」

「は、はいっ! ついに動くのですか!」

「そうだ! 誰が勝つか分からない時の投資はギャンブルだが、『勝ちが決まった後のお祝い(ゴマすり)』は100%リターンが得られる最高の投資だからな!」

信茂は不敵に笑った。


次なるターゲットは、慎重派でリスクを好まない実利主義者――徳川家康。

自称・中間管理職のサラリーマン武将・小山田信茂の、新たな「転職活動」が始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ