第五話:織田家総務部としての泥臭い日常
「――だーかーらー! 『馬糧の割り当ては一頭につき一日三升』と、あらかじめ通達を出してあったでしょうがッ! なんで五升も食わせて兵糧庫を空にしてるんですか、森様ぁぁぁッ!?」
甲府・善光寺の境内に建てられた臨時の織田軍補給本部。
紙くずと帳面が山積みになった陣幕の中で、信茂の絶叫が響き渡った。
「知るかッ! わしの愛馬が『腹が減った』と鳴いていたのだから食わせるのが当たり前であろ! 文句があるならその紙切れではなく、わしの槍に言ってみろ小山田ぁ!」
怒鳴り返してきたのは、「鬼武蔵」の異名で恐れられる織田家の若手猛将――森長可だ。
血気盛んな彼は、返り血で汚れた甲冑のまま信茂のデスク(文机)にドカッと足を乗せ、自慢の人間無骨(槍)の柄を叩いて威嚇してくる。
普通の人間の武士なら腰を抜かす場面だ。
しかし、前世で「社内予算を大幅にオーバーして高級接待費を落とそうとする営業部のイケイケエース」と連日バトルを繰り広げていた元総務部次長・佐藤和夫(58歳)にとって、こんなものは日常茶飯事であった。
「槍を出せば帳簿の数字が合うとでも思っていらっしゃるのですか!?」
信茂は文机をバンッと叩いて立ち上がった。
「いいですか森様! 織田家が今展開している甲斐・信濃の占領政策は、広大な領域にわたる『超・大型プロジェクト』です! 兵糧のロジスティクス(物流管理)が数日でも滞れば、後方の兵は餓死し、前線は孤立します! あなたが馬に二升余計に食わせたせいで、明日の川尻(秀隆)隊の偵察馬十頭分の餌が消えたんですよ! 代替案はあるんですか! 現場のワガママで全体のラインを止めるなーーーッ!!」
「ぐ……っ! な、なんだその言葉は……! 難しい言葉で誤魔化すな!」
長可が珍しく気圧されて一歩後退した。
周囲で書類を書いていた小林宮内助や小山田家の家臣たちは、「あの鬼武蔵を怒鳴りつけて論破した……!」と震え上がっている。
「……たく、分かったよ! 次からは三升にする! その代わり、明日の合戦で一番首を取ったら干し肉を余分にくれ!」
長可は捨て台詞を残し、バツが悪そうに陣幕を去っていった。
「……ふぅ。まったく、これだから現場の武闘派(営業部)は困るんだ。全体のコスト感覚というものがまるで欠如している……」
信茂はガクッと肩を落とし、冷めきったぬるい茶をすすった。
目の前には、滝川一益から押し付けられた『甲斐・信濃統治における物資調達ならびに武田遺臣の再配置計画書』の束が、山のように積まれている。
(助かったのはいいけど……マジで超ブラック企業じゃないか織田家!!)
信茂は目元を揉んだ。
信長に命を拾われてからというもの、信茂は「織田家甲州遠征軍・総務補給主任」のようなポジションに勝手に据えられていた。
戦場で槍を振るう必要はないが、その代わり毎日朝から晩まで書類作成、物資の受発注、そして癖の強い織田家の武将たちからの無理難題の処理に追われていたのだ。
「ほう、森のバカ息子を追い返したか。大したものだ」
陣幕の奥から、くすくす笑いながら現れたのは、信茂の直属の上司となった滝川一益であった。
「滝川様……。笑い事ではありません。各武将が好き勝手に兵糧や馬を徴発しようとするため、現場の計算が完全に狂っております。このままでは今月末の締め作業が間に合いません」
「ハハハ、締め作業か。面白い言葉を使うな左衛門尉」
一益は信茂の隣に腰掛け、信茂が書いた帳面を感心そうに眺めた。
「しかしお前が来てくれて本当に助かったぞ。これまでは武功を立てることしか頭にない猪武者どもを抑え込み、兵糧の勘定をするのにわしも胃に穴があく思いだったのだ。お前が来てからというもの、帳本の記載が正確になり、物資の滞りが劇的に減った」
一益の言葉は、本心からの賞賛だった。
織田家は急速に膨張した組織だ。戦に強い武将は腐るほどいるが、占領地の領民を宥め、年貢を正確に徴収し、街道を整備して兵糧を前線に届けるという「事務方(総務・経理)」のスキルを持つ人材が圧倒的に不足していたのだ。
そこへ現れたのが、前世で30年間総務部を支えた佐藤和夫こと小山田信茂である。
「報告・連絡・相談」の徹底
「領民からの徴発は極力避け、適正価格での買い上げ」による治安維持
「武田遺臣たちの愚痴聞き・メンタルケア」による反乱防止
信茂が持ち込んだこれらの「現代ビジネススキル」は、泥臭い戦国の占領現場において、恐ろしいほどの威力を発揮していた。
「滝川様。褒めていただくのは光栄ですが、一つお願いがございます」
信茂は真顔で一益を見た。
「何だ? 恩賞か?」
「いえ、『定時退勤(早めの就寝)』でございます。ここ三日、仮眠しか取っておらず、前世……いや、昔の持病である胸の痛みが再発しそうなのです。死にたくて織田家に降伏したわけではございません」
「ハハハ! 戯れ言を言うな! 信長様からは『小山田を休ませるな』と直々に厳命が出ているのだぞ! ほら、次の書類だ。上野の国人衆からの挨拶状と贈り物の一覧だ。検分して処理しておけ!」
「……鬼! 悪魔! 織田グループ!!」
信茂は叫びながらも、悲しい社畜の習性で筆を握り直し、猛スピードで書類の処理を再開するのだった。
その日の夜遅く。
善光寺の境内を、信茂は一人で歩いていた。
手に灯籠を持ち、見回り(という名の気晴らしの散歩)をするためだ。
すると、暗がりの中で崩れかけたお堂の脇に、数人の男たちが集まっているのが見えた。
身なりからして、かつて武田家に仕えていた旧臣(ローカルな土豪たち)だ。
「……くそっ、織田のやり方はあまりにも強引だ。このままでは我らは領地を奪われ、路頭に迷うぞ……」
「いっそ、武田の誇りを見せ、織田の陣へ夜襲をかけるか……!」
男たちが悲壮感漂う声でヒソヒソと話している。
いわゆる「不満分子」の集まりだ。企業で言えば、買収された子会社の社員たちが給与カットに耐えかねてストライキや内部告発を企んでいる状態である。
(うわぁ……見ちゃったよ。めんどくさ……)
信茂は回れ右をして立ち去ろうとしたが、ハッと気づいた。
(待てよ? ここでこいつらが暴れて織田の陣に夜襲なんてかけたら、管理責任を問われて俺の首が飛ぶじゃないか! リスク管理! リスク管理だ!!)
信茂は意を決し、咳払いをしながらお堂の影から姿を現した。
「コホン! そこの者たち、夜遅くに何をしている」
「な……ッ!? 小山田左衛門尉……!」
男たちが一斉に刀の柄に手をかけた。その目には、主家を見捨てて織田に寝返った「裏切り者」に対する激しい憎悪と蔑みが宿っている。
「裏切り者の小山田か……! 織田の犬となって、我らを売りに来たか!」
「お静かに」
信茂は手に持っていた灯籠を地面に置くと、懐から小さな竹筒を取り出した。中に入っているのは、信茂が極秘に入手していた酒と、塩漬けの魚の切れ端だ。
「寒かろう。酒でも飲むか?」
「……なに?」
男たちが毒気抜かれたような顔をする。
信茂は地面にどっかりと座り込んだ。武士らしい威厳など欠片もない、疲れ切ったオッサンの佇まいだ。
「おい、そこのお前。旧武田領の飯富の配下の者だな? 領地を奪われるのではないかと不安なんだろう?」
「……知ったようなことを言うな! お前のように織田に尻尾を振って本領安堵された奴に、我らの気持ちが分かってたまるか!」
「分からんから聞いてるんだよ」
信茂は溜め息をつき、酒を竹筒から一献注いで男に差し出した。
「いいか。織田家(あの会社)はな、血も涙もない成果主義だ。だがな……『理由のない没収』は絶対にしない。あの信長というCEOはな、合理的な理由とデータがあれば、旧武田の人間だろうが平気で採用する男だ」
「し、CEO……?」
「俺はいま、滝川様の下で甲斐・信濃の『人事・領地再配置データ』を作っている。お前たちの領地がどうなるか、俺のさじ加減……いや、俺が提出する報告書一つで大きく変わるんだ」
男たちがゴクリと生唾を飲み込んだ。
「お前たちが今夜襲をかけて死ねば、お前たちの家族は『罪人の身内』として全員処刑だ。誇りは守れるかもしれんが、家は途絶える。……それで満足か?」
「それは……」
「生きろ」
信茂は男の目を選ばず、まっすぐ見つめた。その声には、前世で孤独死し、生への未練を抱えて死んでいった男の、凄まじい実感がこもっていた。
「死んだら終わりだ。意地なんて捨てて、格好悪くても生き残れ。織田家が求める『書類』や『役割』を提出すれば、俺が責任を持って滝川様に『こいつらは使える奴らです』と推薦してやる。だから……バカな真似はやめろ」
男たちは、差し出された酒の竹筒を見つめたまま、静かに涙を流した。
「……小山田様。あなたは……我らのために……」
「違う。俺が怒られたくないからだ!」
信茂は立ち上がり、着物の泥を払った。
「明日、俺の陣幕に来い。お前たちの領地の『適正評価シート』を書いてやる。その代わり、織田軍の街道整備の作業を手伝え。いいな!」
翌日。
織田軍の補給本陣には、奇妙な光景が広がっていた。
昨日まで反乱寸前だった旧武田の土豪たちが、自発的に木材を担ぎ、笑顔で街道の整備や兵糧の搬入を手伝っているのだ。
「おい左衛門尉、何だあれは?」
滝川一益が目を丸くして尋ねてきた。
「ああ、彼らですか。我が『織田家甲州総務部』のボランティアスタッフ(契約社員)になってもらいました。彼らの領地の評価を少し見直す代わりに、労働力を提供してもらっています」
「はぁ……? お前は一体どんな魔法を使ったのだ……」
一益は呆れ果てたように首を振ったが、その顔には深い感心の笑みが浮かんでいた。
「織田家の武将どもは『斬る』か『従わせる』かしか知らん。だがお前は……『抱き込んで働かせる』な。信長様がお前を生かした理由が、ようやく分かった気がするぞ」
「勘弁してください。俺はただ、トラブルの芽を未然に摘んでいるだけです(リスクマネジメントです)」
信茂は疲れた顔で書類に判(花押)を押した。
その時、信茂の脳内で、歴史の時計がカチリと音を立てて進んだ。
(……待てよ? 今は天正十年四月……。あとふた月もすれば……あの『本能寺の変』が起きるんじゃないか……!?)
信茂の手がピタリと止まった。
織田家という大企業に就職して安泰……と思いきや、わずか二ヶ月後に「社長(信長)が暗殺されて会社が空中分解する」という超絶怒涛の倒産劇が迫っているのだ!
(冗談じゃない! 織田家が崩壊したら、この甲斐・信濃は旧武田領を巡る大混乱(天正壬午の乱)に突入する! 織田の将たちも、旧武田の人間も、巻き込まれて死にまくるぞ!)
「小山田? どうした、急に顔色を変えて」
一益が心配そうに覗き込んでくる。
「た、滝川様……! 今すぐ……今すぐ関東(上野国)へお入りになった際、万が一のための『非常時避難マニュアル』を作成しておきませんか!?」
「は? 非常時……? 天下は平定されたのだぞ? 何を言っているのだお前は」
「いいから作らせてください! 危機管理は早ければ早いほどいいんです!!」
迫り来る「本能寺の変」という巨大な歴史の津波。
信茂のサラリーマン生存サバイバルは、さらなる狂乱の領域へと突入しようとしていた。




