第三話:織田家への「早期・自発的」な降伏交渉
天正十年三月十一日。
武田勝頼は天目山麓の田野の地にて、最後まで従った家臣・一族らと共にその壮絶な生涯を閉じた。
笹子峠で信茂から兵糧と路銀を受け取り、真田を頼ろうと北上を試みた勝頼であったが、織田方の滝川一益軍による執拗な包囲網を突破できず、追い詰められた末の自害であった。
岩殿城でその報せを聞いた信茂は、静かに目を閉じ、線香をあげた。
(勝頼様……。史実より数日、寿命を延ばすことしかできなかった……。だけど、俺はアンタを騙してハメたわけじゃない。俺のできる限界の義理は通したぞ)
だが、哀傷に浸っている暇は一秒たりともなかった。
社畜時代、過労で倒れた同僚のデスクを片付けながら「次は自分の番か」と震えていた記憶が蘇る。戦国の倒産劇は、会社どころか「命」そのものが精算されるのだ。
「信茂様! 織田勘九郎信忠様のご軍勢が、甲府の善光寺に陣を敷かれた模様にございます!」
小林宮内助が、顔を青ざめさせながら広間に駆け込んできた。
「いよいよ……いよいよ織田の本格的な残党狩りが始まります! 穴山梅雪様はすでに徳川家康様を介して織田様に拝謁し、本領安堵を勝ち取ったとか……! 我らも一刻も早く甲府へ向かわねば!」
「焦るな、宮内助」
信茂は机の上に広げた膨大な書類の束――自ら毛筆で書き上げた『甲斐国郡内領 総合資産並びに統治台帳』をトントンと手で揃えた。
「穴山殿と同じやり方(家康などのコネを頼った手ぶらの降伏)をしたところで、俺たちの評価は『武田を捨てて命乞いに来た日和見主義者』にしかならん。それどころか、穴山殿が先手を打っている以上、二番煎じの俺たちは織田からすれば『後からコソコソ出てきた怪しい奴ら』だ」
信茂は不敵な笑みを浮かべた。
「中途採用の面接でな、一番差がつくのは『コネ』じゃない。『前職で何を排出し、入社初日からどんな利益をもたらすか』という即戦力の提示だ!」
「ち、中途採用……?」
首を傾げる宮内助を無視し、信茂は立ち上がった。
「使者には俺自らが行く。宮内助、お前は郡内領の主要なコメの備蓄庫と、金山の採掘情報をすべてこの箱に収めろ。一文字の誤字も許さんぞ!」
甲府・善光寺。
かつて武田信玄が川中島の戦いに際し、信濃から本尊を移して建立したこの大寺院は、今や武田家を滅ぼした織田軍の大本営と化していた。
本陣の熱気と殺気は異常だった。甲冑を血と埃で汚した織田方の武将たちが蠢き、勝頼の首級を確認するための検分が行われている。
その緊迫した善光寺の門前に、信茂はわずか三名の供を連れて現れた。
武装は一切せず、着流しの小袴姿。手には大きな桐の箱を抱えている。
「止まれ! 誰だッ!」
槍を構えた織田の警護兵たちが一斉に信茂を取り囲む。
信茂は慌てず騒がず、前世の「大手企業の受付で顔パスを狙う営業マン」のごとき洗練されたお辞儀(角度四十五度)を繰り出した。
「某は甲斐国郡内領主、小山田左衛門尉信茂にございます。織田信忠様におかれましては、武田家平定の大功、誠にお慶び申し上げます。本日は、織田家による甲斐統治を円滑に進めていただくための『引継ぎ資料』を拝納に上がりました」
「ひ、引継ぎ……? 何を言っているのだ貴様は! 勝頼の家臣・小山田か!?」
騒ぎを聞きつけて、陣幕の中から一人の将が出てきた。
小柄ながら目つきが鋭く、全身から実務派の雰囲気を醸し出している男――織田家の重臣、滝川一益であった。
「何の騒ぎだ」
「はっ! 武田の残党、小山田信茂と名乗る者が降伏を申し出てまいりました! ですが、妙な箱を持って『引継ぎ』などと戯れ言を……」
一益は冷ややかな目で信茂を見下ろした。
「小山田……あの武田の猛将・小山田信茂か。勝頼を見捨てて逃げ延び、今さら命乞いに来たか。信忠様はお忙しい。不忠の残党など、ここで首を刎ねて打ち捨てよ」
周りの兵たちが一斉に刀を抜く。
(来た……! 史実の処刑ルートの入口だ!)
信茂の背中に冷や汗が噴き出した。だが、ここで怯んだら終わりだ。信茂は前世でクレーム対応の現場で何度も修羅場をくぐり抜けてきた「営業スマイル」を顔に貼り付け、朗々とした声で叫んだ。
「滝川様とお見受けいたします! 首を刎ねるのは一向に構いません! しかし、この箱の中身を焼くことになれば、織田家は今後三年にわたり、甲斐・郡内の統治で数万石の損失を出すことになりますぞ!!」
一益の眉がぴくりと動いた。
「……何だと?」
一益は織田家の中でも屈指の「実務派(ロジスティクスと外交のプロ)」だ。単なる脳筋の武将なら「知るか!」と斬り捨てるところだが、「数万石の損失」という言葉が一益の計算高い脳を刺激した。
「……連れてこい。その箱もだ」
一益の指示で、信茂は善光寺の奥深く、信忠の座す広間へと引き立てられた。
上座に座していたのは、弱冠二十六歳の青年将校――織田信忠であった。
父・信長譲りの鋭い眼光と、若さに似合わぬ威厳を持っている。だが同時に、連日の合戦と戦後処理の激務により、その表情には隠しきれない疲労が滲んでいた。
信忠の周りには、森長可や河尻秀隆といった血気盛んな織田の武将たちが立ち並び、信茂を射殺さんばかりの視線で見つめている。
「お前が小山田信茂か」
信忠の声は低く、冷たかった。
「勝頼を笹子峠で遮断し、見捨てて自害に追い込んだと聞いた。主君を売って命を買おうとする不忠者め。我が父は、そういう奴が一番お嫌いなのだ。ここで首を刎ねて父への土産とする」
(知ってる! 史実通りだよ! 史実の信忠様はそう言って俺を殺したんだ!)
信茂は心の底で叫びつつも、床に深々と平伏した。
「信忠様、誤解にございます!」
「誤解だと?」
「某は勝頼様を売ったのではございません! 笹子峠にて勝頼様に兵糧と金子を献上し、『郡内は危険ゆえ、真田を頼って生き延びてください』と平伏してお願い申し上げたのです! 勝頼様も涙を流して了解され、円満に手切れ(契約解除)をいたしました! 決して謀ったのではございません!」
信忠は眉をひそめた。
「ふん、言い訳か。どちらにせよ、武田を見捨てた事実に変わりはない」
「さようでございます! 某は武田家を見捨てました!」
信茂はハッキリと言い切った。広間にどよめきが走る。
「なぜなら、武田家はもはや完全に破綻していたからでございます! 勝ち目のない戦に領民と家臣を巻き込み、共倒れになることこそ最大の大罪! 某は小山田の家と領民を守るため、そして天下を治めるべき真の主君――織田様をお迎えするために、苦渋の決断をしたのです!」
「ほう……口の減らない奴だ」
信忠の目が冷ややかさを増す。
「では、お前が我が織田家に何をもたらすというのだ? 単なる降伏なら、穴山梅雪で十分だ」
「これにございます!」
信茂は抱えていた桐の箱を恭しく掲げ、信忠の前に差し出した。
「これは……?」
「『甲斐国郡内領 総合資産並びに統治台帳』にございます!」
一益が箱を開け、中の和紙の束を取り出した。目を通した一益の目が、徐々に丸くなっていく。
「な……なんだこれは……!?」
一益の声が裏返った。
「信忠様……これをご覧ください! 郡内全域の村ごとの正確な石高、年貢の過去五年の平均徴収率、さらには各村の『水害の可能性』や『道路の補給能力』まで完璧に数値化されております! それだけではございません……『織田軍が明日から郡内に駐屯した場合の兵糧調達手法』と『領民を反乱させないための税率調整案』まで記載されておりますぞ!」
広間がざわついた。
信忠も驚きを隠せず、書類の一枚を手にとった。
そこには、前世の総務部次長が夜鍋をして作り上げた、見やすいグラフ(毛筆の絵図)と、箇条書きで整理された「マニュアル」が並んでいた。
一、郡内の年貢徴収は現行の四分六引きを維持されたし。急な増税は一揆の元なり。
一、関所「笹子」の通行税は免除し、織田家の物流網に組み込むべし。
一、小山田家の旧家臣五百名は、織田家の「補給隊」として無償で労働を提供す。
「……お前が、これを一人で書いたのか?」
信忠が呆然としたように信茂を見た。
「ははっ!」
信茂は胸を張った。
「織田家が甲斐を治めるにあたり、最も時間と手間がかかるのは『現状把握』でございます。新しく代官を派遣し、検地を行い、街道を調べるには少なくとも半年と数千石の費用がかかりましょう。しかし! この資料と、某および小山田家の実務部隊をお使いいただければ、明日からでも郡内の統治が完全自動化(スムーズに移行)いたします!」
信茂は力強く頭を下げた。
「某は『手柄』を売りに来たのではございません! 織田家という巨大な組織における『優秀な総務・実務担当者』としての自分自身を売り込みに参ったのです! 首を刎ねるか、あるいは『即戦力』としてお雇いいただくか……判断は信忠様にお任せいたします!」
沈黙が広間を支配した。
森長可などの血気盛んな武将たちは「何を小賢しい! 斬れ!」と叫びたそうな顔をしている。しかし、織田家の行政を担う滝川一益は、必死の目で信忠に視線を送っていた。
(信忠様……! こいつは使える! こいつを殺したら、甲斐の統治費用が数倍に跳ね上がる!!)
一益の心の叫びが聞こえてくるようだった。
信忠はしばらくの間、じっと信茂を見つめていた。その顔から冷酷さが消え、ふっと苦笑いが漏れた。
「……父上がいつも言っておられる。『戦で強いだけの武士はごまんといるが、政と算盤ができる奴は滅多にいない』とな」
信忠は書類の束を箱に戻すと、パンと音を立てて蓋を閉めた。
「小山田左衛門尉」
「はっ!」
「お前の首は……保留とする」
(よっしゃぁぁぁぁぁッ!!! 命拾いしたぁぁぁぁ!!)
信茂の脳内で歓喜のドラム缶が弾けた。
「ただし!」
信忠の鋭い声が引き締める。
「お前の処分を決めるのは私ではない。間もなく甲斐に入られる、我が父だ」
信茂の笑顔が氷ついた。
「この資料をご覧になり、お前を『使える』と判断されれば召し抱えられよう。だが、『小賢しい真似をしおって』と不快に思われれば……その場で一族もろとも打ち首だ。覚悟しておけ」
(……ラスボス(信長)との最終面接が残ってたぁぁぁぁぁッ!!)
生存率をわずかに引き上げたものの、次に待っているのは戦国時代最大の恐怖の経営者――織田信長との直接対面。信茂の本当の修羅場は、これから始まろうとしていた。




