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「主をお連れいたしました」
先ほどのメイドが静かにドアを開け、その後ろから姿を現した妙齢の女性を見て、俺は思わず内心で頭を抱えた。
燃えるような紅の艶やかな髪に、身体のラインを強調するディープネイビーのドレス。仕草の一つ一つに大人の色香が漂う、まさに「テンプレート通り」の妖艶な女主人だった。
「あら、災難だったわね。こんな雪の夜に……。いいわ、今夜は我が家でゆっくりと身体を温めるといいわ」
彼女は実にあっさりと、俺の保護を快諾してくれた。
凍死の危機を救ってくれたのだから、本当に感謝しかない。深々と頭を下げようとした――その時だった。
「……」「……あら?」
なぜか、部屋に入ってきたばかりの女主人が首を傾げ、メイドと一緒になって、俺の目の前の空間をじっと凝視し始めた。
忘れていた。さっきの「胸を躍らせていた」とかいう、恥ずかしすぎる俺の心理描写テキストが、まだ空中にデカデカと浮かんだままだったのだ。
女主人は怪訝な顔をしながら、裏返しの文字をなんとか読もうと歩み寄ってくる。だが、一文字ずつ脳内変換して読むのが早々に面倒くさくなったのだろう。
あろうことか、最終的にはメイドと女主人が俺の左右に回り込み、俺の肩越しに同じ方向を向いて、俺の側から一緒に文章を読み始めた。
美人のメイドと妖艶な女主人が、至近距離で俺を挟んでテキスト欄を熟読している。なんだこのカオスな状況は。
「『……妖艶で、どこか危険な香りをまとった美しい女主人に違いない』……ふふ、まあ。私のことかしら?」
女主人が楽しげに文章を読み上げ、クスクスと妖しく微笑む。
隣のメイドは、相変わらずの無表情のまま、俺と女主人の顔を交互に見比べた。
「お客様。主をお好みの属性に誘導するために、事前にシステムに設定を仕込むのは感心しません」
「仕込んでないですよ! 勝手に出てきたんですよ!」
あまりの恥ずかしさに耐えかねて、俺は消えてくれと願いながら、空中に浮かぶテキストへ、ヤケクソ気味に手を伸ばしてバシッと触れた。
文字がようやく消えてくれた――と思ったのも束の間。すぐさま次の続きの文章が現れた。
『おれは自らの浅ましい妄想を当の麗人に読み上げられ、羞恥のあまり顔を真っ赤に染めていた。その初々しい反応を見た女主人の瞳に、サディスティックな愉悦の光が灯ったことに、哀れなおれはまだ気づいていなかった。』
「……おい、頼むからもうやめてくれ」
顔が真っ赤なのは本当だが、サディスティックな愉悦とか物騒なことを書くのは本当に勘弁してほしい。
俺の横で一緒に新しい文章を読み終えた女主人は、いっそ慈愛すら感じるほどの深みのある笑みを浮かべ、俺の肩をトントンと優しく叩いた。
「ふふ、面白いお客様ね。ねえ、あなた。これから始まる私たちの物語、本当にこういう『シナリオ』で進めていって大丈夫かしら?」
「大丈夫なわけないです。この訳のわからない状況は一体なんですかね?」
俺は頭を抱え、半ば懇願するように言った。
「やっぱり俺は死んでるか、それとも昏睡状態なのか……。でも、失礼な疑問ですが、あなた方は実在ですよね?」
女主人はドレスの裾を揺らしながらソファに腰掛け、メイドはその後ろに静かに控えた。
二人は顔を見合わせると、どこか哀れむような、しかしどこか現実を達観したような視線を俺に向けてきた。
「ええ、私たちは実在しているわ。この世界も、間違いなく現実よ」
彼女の言葉を借りるなら、今起きているのは「現実世界に、概念の世界が干渉して重なり合っている状態」なのだという。
いわば、物理的な法則が支配する現実の地平に、物語やイメージといった『夢の領域』が浸食してきている、とでも表現すべきか。
「現実だけど、夢が侵食している世界……。そう思えばいいんですか?」
「大体合っていますね」
メイドが淡々と補足する。
「ただし、どれだけ世界が奇妙に変質していても、ここは現実です。試しに外で一晩寝てみてください。明日の朝には凍死体になっていることでしょう」
「怖っ……!」
やっぱり命がけなのは変わらないらしい。しかし、そこで新たな疑問が湧く。
「でも、百歩譲って夢の概念が混ざっているとして、なんで『アドベンチャーゲーム』なんですか? 俺にはこの手のゲームへの特別な執着なんて無いはずなんですけど……本当に」
スマホのゲームを嗜む程度で、熱狂的なファンというわけでもない。
すると、女主人は妖艶な笑みを深め、俺の目の前に浮いているテキスト表示の枠を、白く細い指先でツンと突いた。
「執着がない、ねえ?……でも、人間の無意識っていうのは面白いものよ。あなたが気づいていないだけで、あなたの脳のどこかが『こういう窮地をドラマチックに切り抜けたい』だとか『ベタな展開に身を任せてみたい』なんて、ほんの少しでも願ってしまったんじゃないかしら?」
『おれは女主人の鋭い指摘に、核心を突かれたような衝撃を覚えていた。自らの心の奥底に眠る、ひそかな願望。それを引きずり出された恐怖と快感が、冷えた身体を内側から熱くしていく――』
「だから! 勝手なナレーションで俺の心理をガチガチに固定するんじゃない!」
俺が虚空のテキストをバシバシと叩いて消去する横で、女主人はクスクスと愉しそうに肩を揺らし、メイドは相変わらずの無表情で口を開いた。
「お戯れはそれくらいにして、お客様。世界があなたを『主人公』として認識してしまっている以上、この先も選択肢は出続けます。……さて、次は何をなさいますか?」
またしても新たな選択肢が俺の目の前に浮かび上がるかと思いきや、部屋のドアが勢いよく開いた。
「もう、お話し長いですよー! はやくご飯にしましょうよ! 食堂で準備してますよ!」
現れたのは、二人目のメイドさんだった。
最初の一人とは明らかに雰囲気が違う。
明るい茶髪の、少しぴょこぴょこと跳ねた髪を揺らしながら入ってきた。室内の空気が、彼女の一言で一気に弛緩する。
「……あら、もうそんな時間?」
女主人が時計に目をやる。どうやらこの館の主従関係は、思っていたよりも少しアットホームというか、お気楽な部分もあるらしい。
「勝手に部屋に入ってこないでください、サツキ。一応これでも真面目な状況なんですから」
最初のメイドさんが冷ややかに注意するが、茶髪のメイド――サツキと呼ばれた彼女は、へへっと屈託なく笑うだけだ。
「だって、せっかくの温かいスープが冷めちゃうじゃないですか。お客様も、雪の中を歩いてお腹が空いてるはずです!」
確かに、胃袋がグウと小さく音を立てた。緊張の連続で忘れていたが、俺の身体は限界を迎えつつある。
すると、当然のように俺の目の前に新しい文字がポップアップした。
【 「ありがとうございます、お言葉に甘えてご馳走になります」と素直に従う 】
【 「いや、まずはこの状況の謎を解き明かすのが先だ」と飯を拒否する 】
【 茶髪のメイドに「君、可愛いね」と唐突にナンパを仕掛ける 】
「ちょっと、最後の選択肢は何よ。あなた、私の前で他の子に目移りする気?」
女主人が悪戯っぽく身を乗り出して覗き込んでくる。
「ですから、文字を仕込んだのは俺じゃないですって!」
俺は必死に弁明しながら、冷めないうちに温かいスープが飲みたい一心で、一番上の
【 「ありがとうございます、お言葉に甘えてご馳走になります」と素直に従う 】
の枠に指を伸ばした。
・ ・ ・ ・ ・
混沌とした展開に振り回されっぱなしだったが、食堂へ移動する前にようやく互いに自己紹介を交わすことができた。
あまりにも奇妙な状況の連続だったとはいえ、見ず知らずの屋敷に転がり込んでおいて今の今まで名乗りもしていなかったのは、実に礼を失していた。
俺の名前は氷月宗近。
そして、最初に俺を出迎えてくれたクールな黒髪のメイドさんがアヤカさん。
紺のドレスを纏った妖艶な女主人がハルカさん。
ご飯を催促しに来た元気な茶髪のメイドさんがサツキさんだ。
案内された食堂は、これまた高い天井にシャンデリアが輝く立派な部屋だった。少し離れた別室の厨房からは、何人かの賑やかな気配が伝わってくる。他にも人がいるのだろう。
席につく前、俺は一番気になっていたことをハルカさんに尋ねてみた。
「あの、やっぱりこの館に下界とつながる電話の類はないんですよね?」
「ええ、ないわよ。だって、ここであなたが麓に連絡して、明日の朝にレッカー車が来て万事解決しちゃったら、この『物語』がその時点で終わってしまうでしょう?」
ハルカさんは実にあっさりと、しかし確信に満ちた口調で微笑んだ。
なるほど、メタ的だが妙に納得のいく理由だ。この世界を侵食している『ゲームの概念』とやらは、物語が呆気なく強制終了するような便利グッズを絶対に許さないらしい。
とりあえず、スマホも通じない以上は大人しく一夜の宿を借りて、明日の朝に雪が止むのを待って下山するしかない。
……しかし、そうなると心配なのは俺の愛車だ。あのまま山道に放置して、明日の朝には完全に雪に埋もれてしまっているんじゃないだろうか。下手をすれば自力での脱出は不可能で、結局誰かの助けを呼ぶ羽目に――。
そこまで考えを巡らせていた、まさにその瞬間。
俺の目の前の空間に、またしても淡い光の文字が湧き出し、一気にすべてを書き換えていった。
『おれはハルカたちの美貌に気圧されながらも、自らを氷月宗近と名乗った。差し出された温かいもてなしに感謝しつつも、おれの頭を占めていたのは、吹雪の中に残してきた愛車の無残な姿だった。雪の重みに潰されんばかりの鉄の塊を思い浮かべ、おれは言い知れぬ不安に駆られながら、密かにハルカやアヤカ、そしてサツキの誰かが、優しくおれの心を慰めてくれないかと淡い期待を抱いていた――』
「だから! 全部文章化するんじゃねえ! あと最後の一行は完全に余計だろ!」
思わず立ち上がって虚空の文字をバシバシと叩き消す。
妄想から心配事、果ては下心の一歩手前のような心理まで筒抜けで実況されるのは、本当に羞恥プレイ以外の何物でもない。いい加減に止まってくれ。
「ふふ、宗近さんって本当に飽きない方ね。ほら、スープが来たわよ」
ハルカさんが楽しそうに口元へ手を添えて微笑む。
サツキさんが運んできた湯気の立つスープの向こうで、新しい選択肢がまた表示された
【 恥ずかしさを隠すために、一言も喋らずにスープを飲む 】
【 「車が心配で……」とハルカに話を振って、慰めてくれるのを待つ 】
【 厨房の気配が気になるので「向こうには誰がいるの?」と聞いてみる 】
「いや、もう勘弁してほしい。とにかく……スープを頂きます」
俺は心底疲れ果てた息を吐き出しながら、席についた。
目の前には依然として、3つの選択肢が淡い光を放ちながら浮かんでいる。
ふと、天才的なひらめきが頭をよぎった。
(……待てよ。このシステムは、俺が選択肢に『触れる』ことで物語を進めている。ってことは、何も触らなければそこで処理がストップするんじゃないか? 完全無視を決め込めば、恥ずかしいナレーションもこれ以上出てこないんじゃ……!)
我ながら盲点だった。触らなければいいのだ、触らなければ。
俺は目の前の光る文字列を完全に視界からシャットアウトし、手元のスプーンを取った。サツキさんが運んでくれたカボチャのポタージュスープは、濃厚で本当に美味しそうな湯気を立てている。
まずは冷え切った身体を温めるのが先決だ。
スプーンですくい、口に運ぶ。クリーミーな甘さとコクが五臓六腑にしみわたり、自然と息が漏れた。美味い。生き返るようだ。もう一口、とスープに手を付けた――その瞬間だった。
俺が指一本触れていないはずの空間で、一番上の
【 恥ずかしさを隠すために、一言も喋らずにスープを飲む 】
の枠線が明滅し、そのまま光の粒子となって砕け散った。
「嘘だろ!? オート(自動選択)なんかよ!」
思わずスプーンを落としそうになる。
何も選ばずに現実の行動を起こしたら、その行動に一番近い選択肢が自動的にシステム側で「決定」されてしまうらしい。逃げ場なんて最初からなかったのだ。
案の定、すぐさま新しいナレーションが目の前にスクロールを始める。
『おれは自らの赤面を隠すように、貪るように温かいスープを口へと運んだ。耳まで赤くしながら無言でスプーンを動かすおれの姿は、彼女たちの目には、まるで飢えた野獣のようであり、同時にひどく愛らしく映っているようだった。』
「誰が野獣だ! 誰が愛らしいだ!」
「宗近さん、本当に美味しそうに召し上がるわねぇ」
ハルカさんがクスクスと喉を鳴らして笑い、サツキさんは「おかわりもありますからね!」と嬉しそうに微笑んでいる。
アヤカさんに至っては、じっとそのテキストの裏側を覗き込みながら、淡々と呟いた。
「なるほど。このシステムは、お客様の『実行動』をトリガーにして自動的にルートを確定させる仕様のようですね。私たちがこの画面を制御しているわけではない以上、お客様が動く限り、物語は強制的に紡がれていく仕組みのようです。……お気の毒です」
「気の毒だと思うなら、その視線だけでも外してくれ……!」
俺は涙目でポタージュを胃袋に流し込んだ。
この館の住人たちが仕組んでいるわけではないということは、本当にこの世界の「バグ」のような現象なのだろう。
スープの皿が空になると同時に、サツキさんが「はーい、それでは次の料理でーす!」と厨房へ向かう。
次の皿と共に、一体どんな理不尽な選択肢や捏造テキストが飛び出してくるのか。
俺の受難の一夜は、まだ始まったばかりだった。




