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視界を埋め尽くす白に、じわじわと焦りが滲み出す。
日常の延長線上にあるはずのドライブが、完全に変質してしまっていた。少しでも早く帰りたいがために、ナビが示した山越えのルートを選んだのが全ての過ちだ。
麓を出発したときは、まだ穏やかな粉雪だった。それがいまや、フロントガラスを激しく叩く暴力的な吹雪へと変わっている。
標高が上がるにつれて路面の積雪は一気に増し、夜の闇も相まって、ヘッドライトの放つ光はすぐ先の白い壁に吸い込まれるように掻き消されていた。
「……頼むぞ」
ステアリングを握る手に自然と力が入る。
愛車は4WDだが、この猛吹雪の中ではその絶対的な安心感すら揺らいでいく。道幅の広い、少し開けた場所に出たと思った瞬間だった。
ズブ、と不穏な感触がタイヤを通じて車体に伝わる。
慌ててアクセルを踏み込んだが、空転音が響くだけで、車はそれ以上前に進まなくなった。
「嘘だろ……」
シフトをバックに入れ、慎重に前後に揺さぶってみるが、空転するタイヤが虚しく唸るばかりで泥沼のように雪に噛みつかれている。完全にスタックした。
嫌な汗が背中を伝う。ポケットからスマートフォンを取り出したが、画面の隅にあるアンテナマークは無情にも「圏外」を示していた。
車外は完全な暗黒と極寒の世界だ。周囲に民家などあるはずもない。エンジンをかけたまま朝を待つにしても、マフラーが雪で埋まれば一酸化炭素中毒の危険がある。
このまま、ここで遭難するのか。
最悪の結末が頭をよぎり、息が荒くなる。息を整えようと、ダッシュボードに突っ伏したあと、もう一度フロントガラスの向こうへ視線を向けた。
激しく渦巻く雪のカーテン。その遥か奥、吹き荒れる白の隙間に、ぽつりと。
本当に微かな、暖色系の灯りのようなものが揺れているのが見えた。
激しく吹き荒れる雪の向こうに、微かな灯りを見つけた――その直後。
現実の物理法則が音を立てて崩壊するような、奇怪極まりない事態が起きた。
フロントガラスの手前、自分の前の虚空に、淡い光を放つ文字が浮かび上がったのだ。
【 車に留まる 】
【 車を降りて光の方向に向かう 】
「……は?」
思わず声が出た。
ご丁寧に、それぞれの選択肢は四角い枠線できれいに囲まれている。手を伸ばせば触れそうな距離で、それは吹雪の闇を背景に、ピタリと空中に固定されていた。
なんだこれは。
いや、知っている。アドベンチャーゲームやノベルゲームで、物語の分岐点に出てくる「選択肢」そのものだ。だが、現実にこんなものが目の前に浮かび上がるわけがない。
「幻覚、か……?」
何度も瞬きをしてみる。頭を左右に振ってみる。しかし、光の文字は網膜に張り付いているわけではなく、確かに車の運転席の空間に「存在」し続けていた。
一気に冷や汗が噴き出す。スタックした恐怖とはまた違う、根源的な恐怖が背筋を駆け上がった。
もしかして、俺はもうすでに手遅れで、凍死しかけているんじゃないか。体温が急激に下がって、脳が見せている最後の走馬灯か何かなのか。
あるいは、山越えの途中でとっくに事故を起こしていて、ここは病院の集中治療室(ICU)のベッドの上で、これは昏睡状態の俺が夢の中で見ている幻なのか。
静まり返った車内で、自分の荒い呼吸音だけがやけに大きく響く。
目の前の光る選択肢は、まるで俺が指先でどちらかを選ぶのを、じっと待っているかのようだった。
「落ち着け、まずは冷静に現状を把握するんだ」
これが極限状態の脳が見せている夢か幻覚なのか、それを確かめるのが先決だ。夢の中なら、感覚――特に味覚や痛覚といったものは、極めて曖昧になるはずだ。
幸い、助手席のレジ袋にはさっきコンビニで買い込んだ物が入っている。
まずは缶コーヒーを取ってプルタブを引き、口に含んだ。焙煎された豆の苦味と、べたついた砂糖の甘みがはっきりと舌の上に広がる。喉を通る風味も本物だ。
次に醤油煎餅の袋を破り、一枚を取り出して噛み砕く。香ばしい醤油の塩気と米の風味が口いっぱいに弾けた。
続いて口に放り込んだチョコレートは、体温でじわりと溶けながらカカオの香りを鼻に抜いていく。
「……普通に味がする」
味覚は完全に正常だ。
仕上げにお約束の方法を試す。自分の頬を思い切り平手打ちした。
「っ……!」
鮮烈な痛みが走る。
感覚はどれもこれもリアルそのものだ。夢特有のあのフワフワした頼りなさや、辻褄の合わない歪みはどこにもない。五感の全てが「ここは現実だ」と主張している。
しかし、視線を正面に戻せば、やはりそこには変わらず光の文字が浮かんでいた。
【 車に留まる 】
【 車を降りて光の方向に向かう 】
冷たい現実の痛みを噛み締めながら、俺は認めざるを得なかった。味覚も痛覚も本物。ということは、この目の前にあるゲームのような選択肢もまた、間違いなく「現実」としてそこに存在しているのだと。
現実がオカルトなのかSFなのかは分からないが、ここで車に留まって凍死するのを待つよりはマシだ。あの吹雪の向こうの灯りが、温かい暖房のある家屋か建物であることを祈るしかない。
俺は腹を括った。後部座席から折りたたみ傘を引っ張り出し、ダウンジャケットのファスナーを上までしっかりと閉める。
ドアを開けると、暴力的な猛吹雪と極寒の空気が車内に雪崩れ込んできた。車外へ一歩を踏み出し、傘を差す。
驚いたことに、車を降りて周囲の景色が変わっても、あの光の選択肢は俺の前の定位置にピタリと張り付いたまま移動してきた。本当に、ゲームの画面そのまま。
「……じゃあ、これを選ぶしかねえよな」
半ばヤケクソ気味に、手袋をはめた指先を突き出し、空中の
【 車を降りて光の方向に向かう 】
という文字の枠内に触れてみた。
感触は何もなかった。ただ空気を突き抜けただけだ。
だがその瞬間、2つの選択肢が消え去った。そして、代わりに新しい文字が現れた。
『おれは車を降りて光の方向に歩き始めた。』
「……なんだよこれ?」
思わず吹雪の中でツッコミを入れてしまった。
ナレーションだ。完全に、俺の行動を客観的に説明するテキストが目の前に表示されている。しかも、主語が「おれ」になっているのが妙に生々しくて不気味だ。
目の前のテキストは数秒間浮かび続けたあと、夜の闇に溶けるようにフッと消えた。
足元はすでに、膝下まで埋まるほど雪が積もっていた。
呆然と立ち尽くしている暇はなかった。俺は携帯ライトで足元を照らしながら、先ほど見えた微かな灯りの方向へと、一歩一歩重い雪を蹴立てて歩き始めた。
激しい吹雪に逆らいながら、一歩一歩、重い雪を踏みしめて進む。
ライトの光が届く範囲はわずか数メートル。それでも、先ほど見えた光を目指して100メートルほど歩いたところで、ようやくその光源の正体に辿り着いた。
見上げて、息を呑む。そこにあったのは、周囲の自然から完全に孤立した、高い石壁に囲まれた広大な敷地だった。
光を放っていたのは、その境界線にそびえ立つ巨大な門の左右に据えられた、クラシカルな常夜灯だ。オレンジ色の温かい光が、激しく舞い散る雪を怪しく照らし出している。
「こんな山の上に、個人の豪邸か……?」
門は、まるで中世の西洋館の敷地入口にあるような、黒い鉄柵で作られた重厚な両開きのものだった。
鉄格子の隙間から奥を覗き込むと、鬱蒼とした木々の合間に、邸宅へと続いているらしき一本の道が白く浮かび上がっている。
周囲を見回してみたが、現代的なインターホンやドアホンの類は見当たらない。
この猛吹雪の中、ここに留まる選択肢はなかった。凍えそうな手で、思い切って鉄の門扉を押し込んでみる。
ギギギ……と、凍りついたヒンジがきしむ重苦しい音を立てて、門はあっさりと内側へ開いた。
頼むから、この先に暖房の効いた、人が住んでいる家であってくれ。
切実な願いを胸に、俺は開いた鉄門をくぐり、未知の邸宅へと続く暗い道へ足を向けた。
その瞬間、またしても視界の真ん中、目の前の空間に光の文字が浮かび上がった。
【 門をしっかりと閉めてから進む 】
【 門はそのままにして急いで奥へ進む 】
また選択肢だ。しかも今度は、背後の門をどうするかという、妙に細かい行動の分岐を求めてきている。
「……開けっ放しは防犯的にも、この吹雪の状況的にもよくないだろ」
誰の敷地かも分からないのだ。不法侵入の一歩手前とはいえ、最低限の礼儀というか、常識的な行動をしておくに越したことはない。もちろん閉める一択だ。
俺は振り返り、重い鉄の門扉を両手で引いて、元の位置へとカチャンと閉じ合わせた。
それから前を向き、目の前に浮かぶ
【 門をしっかりと閉めてから進む 】
の文字に指を伸ばして触れる。
選択肢が光の粒子となって霧散する。そして、暗闇の中に新たなナレーションが紡ぎ出された。
『おれは礼儀正しく背後の門を閉め、冷たい吹雪に晒されながら雪の積もる道を奥へと進んだ。』
「いちいち丁寧なナレーションだな、おい……」
自分の行動が逐一、少しだけ情緒的な文章になって目の前に表示されるのは、なんとも言えず妙な気分だ。
まるで自分が誰かの書いた小説の主人公にでもされてしまったかのような、奇妙な収まりの悪さを感じる。
文字は再び静かに消えていった。
ライトの光で足元を照らしながら、並木道を奥へと歩いていく。風の音は心なしか、門を閉めてから少しだけ和らいだような気がした。
しばらく進むと、並木の切れ間から、ついにその姿が浮かび上がってきた。それは、思わず圧倒されるほど巨大な、石造りの西洋館だった。
現代の建築とは明らかに一線を画す、ゴシック調の重厚な意匠。窓のほとんどは真っ暗だが、一階の正面玄関と思われる大きな扉の脇だけは、明かりが灯っているのが見える。
生きて人のいる場所に辿り着けたのだろうか。
安堵と、この状況そのものへの強い違和感が、胸の中で複雑に渦巻いていた。
「これはもう、ありがちな館系のアドベンチャーゲームの導入部そのものじゃないか……」
嫌な予感しかしない。もしこれが本当にゲームの世界なら、この扉を開けた先には、いったい何が待ち受けているというのか。
血塗られた惨劇か? 怪異や、おぞましい秘密か? ここに足を踏み入れたら、俺の身の安全はどうなってしまうんだ。
だが、振り返ってもそこにあるのは、全てを凍らせる容赦のない猛吹雪だけだ。ここで立ち往生していれば、確実に凍死する。
怪異が先か、凍死が先か。もう、覚悟を決めてこの重厚な扉を叩くしかないのか。
――そう、頭の中で葛藤した、まさにその瞬間のことだった。
目の前の空間に淡い光の文字が、意志を持つかのように次々と紡ぎ出された。
『おれは言い知れぬ不安に胸を締め付けられていた。この重々しい扉の向こうに何が待っているのか、想像するだけで背筋が凍る。しかし、背後の吹雪は容赦なくおれの体温を奪い去っていく。躊躇している時間はないのだ。おれは震える拳を握り締め、意を決して目の前の大きな扉を叩いた。』
「……おい、待てよ。勝手に進めるなよ」
思わず声が漏れる。
今度は選択肢すら出なかった。俺の心の迷いと決断を見透かしたかのように、勝手に文章が目の前に浮かび上がり、物語を進行させていく。
なんなんだよ、これ。俺の自由意志はどこにいったんだ。
呆然とする俺の目の前で、テキストがすうっと闇に溶けて消える。
それと同時に。
まだ叩いてもいないはずの目の前の巨大な木製の扉が、内側から音もなく、ゆっくりと開き始めた。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、温かい光と、微かに上品な香りが溢れ出してきた。
そこに佇んでいたのは、まさに俺のくだらない妄想をそのまま形にしたような存在だった。
黒いロングスカートのクラシカルな制服に、真っ白なエプロン。非の打ち所がないほど整った容姿をした、信じられないほどの美人のメイドさんだ。
彼女は感情の読めない涼しげな目元で、吹雪の中に佇む俺をじっと見つめている。
「……本当に、お約束通りに出てくるのかよ」
あまりのテンポの良さに、恐怖を通り越して呆然とするしかない。
だが、彼女が何かを喋り出すより先に、俺の眼前にはやはり、あの光り輝く選択肢が当然のようにポップアップした。
【 「雪の中で車が立ち往生してしまって。申し訳ございませんが助けて頂けませんか」 と下手に出る】
【 「ここは誰の館だ?」と警戒を露わにして問い詰める 】
【 無言で彼女の顔を凝視し続ける 】
ご丁寧に3つに増えている。
しかも、どれを選んでもこの後の彼女の反応や、俺の「主人公としてのキャラクター性」が固定されてしまいそうな、絶妙に悩ましいラインナップだ。
美人のメイドさんは、まるで時間が止まったかのように微動だにせず、静かに俺を見つめている。
ふと、強烈な違和感を覚えた。
目の前のメイドさんは、俺の顔を見ているのではない。その視線は、俺の鼻先の空間――まさにあの光る3つの選択肢が浮かんでいる位置に、じっと注がれていた。
彼女はわずかに眉を寄せ、視線を文字の行を追うように細かく動かしている。
「……ちょっと待て。もしかして、見えているのか?」
そうだ。彼女の側からすれば、この文字は鏡文字のように左右反転、つまり「裏返し」に見えているはずだ。
彼女がじっと目を凝らし、感情の読めない顔でこちらを凝視しているのは、俺の顔が珍しいからではない。
自分から見て裏返しに浮かんでいる謎の光る文字列を、必死に脳内で反転させて読もうとしているからだ。
ゲームのNPCなら、プレイヤーの画面に表示されるシステムウィンドウなんて認識できるはずがない。
だが、彼女は明らかに「それ」を認識し、読もうと試みている。
裏返しの文字を読み終えたのか、メイドさんはふっと視線を文字の枠から外し、今度こそ真っ直ぐに俺の瞳を捉えた。
その冷徹な双眸の奥に、ほんの一瞬だけ「この男、いったい何を持ち込んできたのか」と言いたげな、深い困惑の色がよぎったのを俺は見逃さなかった。
「いや、困惑してるのはこっちなんだけど……」
喉まで出かかったその言葉を、かろうじて飲み込む。
目の前の現実が、ゲームの枠組みすら超えて歪み始めている。
もし彼女がこの選択肢を認識しているのだとすれば、これはただの『館系アドベンチャーゲーム』などではない。
システムそのものが現実に侵入し、そして登場人物までもがそのルールに縛られている異常事態だ。
どうする。どの選択肢を選べばいい。いや、そもそも選んだらどうなる?
俺が頭を抱え、冷たい吹雪の中で固まっていた、その時だった。
「……あの」
静寂を破り、美人のメイドさんが小さくため息をついた。
彼女は相変わらず端正な、しかし無表情のまま、俺の目の前の選択肢を指差して言った。
「そろそろ、どれか選んでいただけませんか? 扉が開けっ放しで、奥のホールまで冷気が入ってきて寒いのですが」
「喋った!?」
驚きで声が裏返る。NPCが画面での選択を催促してくるなんて、どんなバグだ。
「ええ、喋ります。あなたから見て裏返しの文字を解読するのも骨が折れますし、何より寒いです。……お早めにお願いします」
彼女の冷ややかな視線が、再び俺の眼前で淡く光る三択へと向けられる。
どうやら、俺がどれか一つの枠に触れるまで、この物語の時間は一歩も先へ進まないらしい。俺は観念して、冷え切った指先をどれかの選択肢へと伸ばすことにした。
自分の知覚を信じるなら、この寒さも、痛さも、コーヒーの味も間違いなく本物だ。
そして目の前のメイドさんも、システムに操られる操り人形ではなく、自分の意志で寒いと文句を言う「実在の人間」なのだろう。
それなら、取るべき態度は決まっている。見ず知らずの屋敷に押し入ろうとしているのはこちらなのだから、どこまでも礼儀正しく、常識的にいくべきだ。
俺は目の前に浮かぶ選択肢のうち、一番最初の一行――
【 「雪の中で車が立ち往生してしまって。申し訳ございませんが助けて頂けませんか」と下手に出る 】
その文字の枠へと、意を決して指先を触れさせた。選択肢は光の粒子となって消え去る。
……しかし、いつもならすぐに現れるはずの、俺の行動を示すナレーションの文章が待てど暮らせど出てこない。虚空には何も表示されず、ただ静まり返った暗闇が広がっているだけだ。
メイドさんも、じっとこちらを見たまま動かない。
「……あ、そうか。自分で喋らなきゃいけないのか」
これはゲームのコマンド入力ではなく、あくまで俺自身の行動の「指針」を選んだに過ぎないのだ。
俺はゴクリと唾を飲み込み、冷えた喉を震わせて、今選んだ言葉をそのまま口に出した。
「あの……夜分遅くに突然お訪ねして申し訳ございません。雪の中で車が立ち往生してしまいまして……。スマホも圏外で、困り果てています。不躾なお願いで大変恐縮なのですが……どうか助けていただけませんでしょうか」
冷たい風の音の合間に、俺の丁寧な懇願が響く。
言い終えた瞬間、俺の目の前に、待望の、しかし先ほどまでとは少し違う形式の文字がスウッと浮かび上がった。
『おれは精いっぱいの誠意と礼節を込め、凍える声で助けを求めた。その言葉に、冷徹だったメイドの視線が、わずかに和らいだように見えた。』
俺の言葉を聞き届けたメイドさんは、相変わらず無表情ではあったものの、すっと半身を引いて、扉の奥の広大な空間をこちらに開放してくれた。
「……事情は察しました。主へお取次ぎいたします。中へどうぞ、お客様」
「失礼します……」
外の猛吹雪が嘘のように、一歩足を踏み入れた館の内部は静寂に包まれていた。
床に敷き詰められた深紅の絨毯が、俺の濡れた靴音を完全に吸い込む。通されたのは、正面玄関を入ってすぐの広々としたホールの脇にある、応接間か待合室のような小部屋だった。
「こちらでお待ちください。主に伝えてまいります」
メイドさんはそう言い残し、音もなくドアを閉めて去っていった。
一人残された俺は、部屋の調度品を見回す。
猫脚のソファ、マホガニーの重厚なローテーブル、壁に掛けられたくすんだ油絵……。
どこを見ても実に見事なゴシック調の西洋館だ。現実離れしたこの空間に、自分の場違いなダウンジャケット姿が奇妙に浮いている。
「それにしても……」
思わず独りごちる。
こういうベタな館系ゲームの主といえば、妖艶な女主人か、あるいはプライドの高そうなお嬢様とかだろうか。さて、この奇妙な世界は、一体どんな主を用意しているのか。
そう考えた、まさにその瞬間だった。
またしても俺の視線の先、机の上の空間に、淡い光の文字がヌウッと湧き出してきた。
『おれはまだ見ぬこの館の主へと思いを馳せていた。おそらくは、この重厚なゴシック建築にふさわしい、妖艶で、どこか危険な香りをまとった美しい女主人に違いない。そんな妄想を抱きながら、おれは自らの運命がその麗人の手によって狂わされていく予感に、密かに胸を躍らせていた。』
「おい。誰が胸を躍らせてたって?」
勝手に人の心理描写を捏造するな。
しかも、なんだよ「運命が狂わされていく予感」って。こっちはただ車がスタックして、助けを求めているだけの一般人だぞ。
文句を言いたげにそのテキストを睨みつけていると、部屋の奥に続いているらしき重々しい扉が、カチャリと小さな音を立てた。




