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俺は迷いのない足取りで階段を下り、食堂にいたハルカさんたちに声をかけた。
「ハルカさん、皆さん、聞いてください。……俺が泊めさせて頂いている客室の扉が、俺の現世の自室とつながりました。さっき開け放ったままにしてきたんですが、もしあの経路がまだ維持されていれば、俺は……現世へ帰れるかもしれません」
俺の言葉に一瞬驚きつつも、ハルカさんたちは静かに頷き、一緒に二階の客室の前へと移動してくれた。
扉の前に立つ。先ほど開け放ったままにしておいたドアの向こうには、変わらず俺のマンションの部屋が広がっていた。
「あら、本当にあなたの部屋に繋がってしまったのねぇ」
ハルカさんは驚いたように目を少し丸くしたものの、その表情には取り乱す様子もなく、いつも通りの静かな微笑みを湛えていた。
「何らかの接続経路が生成されたのかもしれませんね」
アヤカさんも淡々と扉の向こうを見つめながら、冷静に状況を分析するように呟く。
「ここが宗近さんの家なんだ! なんか新鮮ですね!」
サツキさんは感心したように声を上げ、ドアの向こうの俺の部屋の様子に見入っている。
「へえ、これが宗近さんの側の世界なんすね。案外すっきりした部屋っすね」
ナギサさんも、感心した様子で頷いていた。
「どうやら宗近さんは、これでお帰りになれるようですね。……本当に良かったです」
ユキエさんはどこか安心したような、温かく穏やかな眼差しで俺を見つめてくれた。
「……ここをくぐったら、もう本当にお別れになるような気がします」
震える声を絞り出すように、俺は胸の内の思いを吐露した。
「このドアを閉めてしまったら、きっと接続は切れてしまうんじゃないでしょうか。……後で車を取りにあの大雪の峠を訪れて、どれだけこの館を探したとしても、俺は二度とここへ辿り着くことはできないんじゃないかって……そんな気がするんです」
一瞬の静寂。ハルカさんたちは否定も肯定もせず、ただ変わらぬ温かい眼差しで俺の言葉を受け止めてくれていた。だからこそ、恐らくそれが揺らぎようのない事実なのだろうと胸に迫ってくる。
扉の前でぐるりと振り返り、廊下でハルカさん、アヤカさん、サツキさん、ナギサさん、ユキエさんの皆と向き合う。
「皆さん、本当にお世話になりました。俺を助けてくれて……温かく迎えてくれて、本当にありがとうございました」
頭を下げ、顔を上げた時、それ以上の言葉が喉に引っかかって出てこなくなった。
視界が急激に熱く滲む。
たった数日間の滞在だった。それでも、俺はこの人たちにどれほど救われ、助けられてきただろう。
異界の概念と現世の狭間に存在するこの館が、奇妙なゲームシステムとどういう関係にあるのか、その真相は俺にはわからない。
けれど、この人たちと過ごした時間は決して幻なんかじゃない。ここで受けた温かい心遣いや優しさは、間違いなく本物だったんだ。
もう二度と、会えないかもしれない。そう思った瞬間、涙が溢れそうになり、俺は声を出せなくなった。
その時、視界の隅に、あのシステムのテキスト字幕がふっと立ち上がった。
(やめろ……頼むから今は、俺の内側を勝手に弄くったり茶化したりするな……!)
心の中で必死に突っぱねようとした俺だったが、そこに浮かび上がった言葉は、いつものふざけた文章ではなかった。
『おれは気づけば胸がいっぱいになっていた。短い期間だったがおれを助けてくれた人たち。』
おいやめろ、勝手に人の内面を字幕化するな……
『ハルカさんの優しい微笑み、サツキさんの明るい声、アヤカさんの静かな気配り、ナギサさんのあたたかい料理、ユキエさんの穏やかな温もり……そして、この館で出会ったすべての人たちの優しさが、胸の中でひとつひとつ愛おしく輝いている。』
コラ、恥ずかしいだろうが……
『ことばにできないほどの感謝と、二度と会えないかもしれないという切なさが、おれの胸を締め付ける。だけど、おれはこの温もりを胸に抱いて自分の世界に戻り、前を向いて歩いていかなければならないんだ』
飾り気のない、どこか幼くも真っ直ぐな言葉が、俺の気持ちをそのまま代弁するように流れていく。
……まあ、たとえこの字幕が無かったとしても、俺の感極まった表情や態度のせいで、気持ちなんてみんなに駄々漏れだっただろうけれど。
ハルカさんが、柔らかく深い微笑みを浮かべ、ゆっくりと一歩前に踏み出した。
「ふふ……黙って消えてしまわずに、こうしてお別れを言いに戻ってきてくださったこと、本当に嬉しく思いますよ、宗近さん。どこにおられても、あなたがふと思い出してくださるなら、私たちの心はいつでも共にあります」
続いて、静かに控えていたアヤカさんが胸の前で手を組み、美しい作法で深々と一礼する。
「こうして本来おわすべき場所へお戻りになられること、何よりでございます。どうか……これからもお健やかに」
サツキさんが鼻を少し赤くしながら、必死に破顔してみせた。
「そうですよ! 黙って行っちゃったら泣いちゃうところでしたからね! 宗近さん、あっちへ戻っても元気でいてくださいね! あと、ちゃんとご飯もいっぱい食べてください!」
ナギサさんは少し照れくさそうに、さばさばとした調子で言った。
「自分が作った料理、毎回きれいに平らげてくれて嬉しかったっすよ。向こうに戻っても、ちゃんと温かいもん食べて元気にやってくださいね」
最後にユキエさんが、包み込むような穏やかな笑みで、そっと声をかけてくれた。
「ほんの短い間でしたけれど、宗近さんとここで一緒に過ごせた時間、決して忘れません。どうぞお元気で……行ってらっしゃいませ」
ふと見れば、いつの間にか皆に並んで、あの銀髪の幽霊少女までもがそこに静かに立っていた。
いつの間に現れていたのかと驚きで一瞬目を丸くしたが、彼女は喋らないものの、どこか愛おしそうに澄んだ瞳でじっと俺を見つめている。
言葉は交わせなくとも、その静かな存在感が胸に落ちた。俺は彼女の視線をしっかりと受け止め、静かに会釈をして別れを告げた。
皆の言葉と温かい眼差しが胸にしみわたり、涙を堪えるので精一杯だった俺は、溢れ出る感謝を込めて、目の前の大切な人たちに向かって深く深く頭を下げた。
そして――俺は後ろ髪を引かれる思いで、一歩、また一歩と自分の部屋へと足を踏み入れた。
いつもの自室の床に靴のまま足を踏み入れ、客室の扉越しに、館の皆へと向き直る。
「……皆さん、さようなら。本当に、ありがとうございました」
滲む視界の中で懸命に笑顔をつくり、心からの感謝を込めて別れを告げた。
ゆっくりと、慈しむようにドアノブを掴み、静かに扉を閉める。
カチャリ、とドアのラッチの音が響いた。
静寂。
しんと静まり返ったマンションの自室に、俺の息遣いだけが落ちていく。
……これでもう、館への経路は完全に切れてしまっただろうか。
扉を閉めたのだ。既にこの向こうは、見慣れた普段の洗面所と、トイレと風呂場へ通じる空間へと戻っていることだろう。
ちゃんと皆に感謝を伝え、別れを告げて、無事に向こうの時間を終えることができた。
峠の雪道でスタックしたままの俺の車は、あとでレッカー車を手配して取りに行かなきゃならないけれど……それでも、これは間違いなく、筋を通したまっとうなエンディングだ。
胸がいっぱいになり、俺は時間を忘れて、その場に立ち尽くしていた。
――その時。
コンコン。
ドアの木枠を軽やかに叩く、小気味よい音が部屋に響いた。
「あのー、宗近さん?まだそこにいますかー?」
ドアの向こう側から、サツキさんの声が、あまりにも鮮明に聞こえてきた。
「……へ?」
頬を涙で濡らしたまま、俺の思考は完全に停止した。




