11
翌朝。朝食を終えた俺は、食堂の椅子に腰掛けたまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「……手詰まりだな」
あれこれ足掻いてはみたものの、どうしても「下山する」というシナリオルートにだけは進んでくれない。
このシステムは、俺をこの豪雪の館に閉じ込めてラブシナリオへ誘導することだけに全力を注いでいるようだ。
「……部屋に戻ります」
俺は小さくため息をつくと、ハルカさんたちに声をかけて席を立った。
・ ・ ・ ・ ・
もしこのまま、まだしばらくこの館に逗留させてもらうことになるのだとしたら……と、歩きながらぼんやりと考えを巡らせる。
自分のマンションの部屋から、服や日用品など、身の回りのものをもう少し色々と持って来たいなぁ。
そんな現実逃避めいた空想をしながら、自分が泊まっている客室のドアノブに手をかけて扉を開いた。
――そこは、自分のマンションの部屋だった。
「……え?」
ちょうど、洗面台やトイレ、風呂場からメインの居室へと通じる、いつものドアを開けた状態の光景が広がっていた。
見慣れた家具、棚に並んだ本、机の上の雑多な小物。
思考が完全にフリーズする。
なんだこれは。俺の部屋に偽装した、別の異界へ通じる新しい罠か?
俺は慎重に部屋の空気を肌で探った。
部屋独特の匂い、空気の静けさ、そして窓の外から微かに聞こえる現世の街の生活音。
部屋の時計は、先日に俺の車が峠の雪道でスタックして、自分がこの館にたどり着いた時刻をちょうど示している。
直感が告げていた。これは、間違いなく現世での本物の俺の部屋だ。
だが、なぜだ?
「下山する」「脱出する」という直接的な行動はことごとくブロックしてきたシステム。
俺が「館を出ていくわけでも、完全に下山するわけでもない行動」をなんとなく空想したことで、システムのロジックの穴を突いてしまった結果なのだろうか。
それとも、これ自体が最初からシステムに予定されていた選択肢だったのか。
「快適に逗留を継続するための準備」という思考を経由したことにより、ある種の『正解』の分岐を引き当ててしまったのだろうか。
その真相は分からない。
「帰れる……のか?」
部屋に向かって一歩、足を踏み出そうとして――俺は土壇場で踏みとどまった。
激しいためらいが、胸を突き上げてきたからだ。
ここを跨げば、きっと現世の日常に戻れる。あのふざけたナレーションに振り回されることもない、安全で平凡な俺の生活に。
だが、俺はまだ、ハルカさんたちにちゃんとお礼も言っていない。「さよなら」の言葉すら交わしていないのだ。
雪の中で立ち往生し、現世と異界の狭間にあるこの館を訪ねた俺に、ハルカさんたちは庇護を与えてくれた。
このまま自分の部屋に入り、現世へ完全に戻ってしまったら。
もし、俺が足を踏み入れた瞬間に、背後の扉が閉まり、この館へと通じる経路そのものが消えてしまったら……
彼女たちは、異界の概念の世界に生きる女性たちだ。
もしここで何も言わずに去ってしまえば、もう二度と会えないかもしれない。
現世に戻って、車がスタックしたままの雪山へもう一度向かったところで、二度とこのゴシックな館へ辿り着くことはできないのかもしれない。
あの人たちにとって、俺はただの「迷い人」に過ぎない。それでも、何の挨拶もなしに消えるなんて、そんな不誠実な真似が自分に許せるはずもなかった。
「……いやだ」
そんなのは嫌だ。
お世話になったみんなに、ちゃんと感謝と別れを告げられないまま置き去りにするなんて、絶対に嫌だ。
そんなことをしたら、俺はきっと一生、現世で暮らしながら永久に後悔し続けることになる。
でも――ここで部屋に入らずこの扉を離れてしまえば、二度とこの現世へ通じるルートが開かなくなってしまうかもしれない。
二度と帰れなくなるかもしれない。
どうする。ここで大声を出して階下のハルカさんたちを呼ぶべきだろうか。
だが、命の恩人を大声で呼びつけるなど、あまりにも不躾で失礼だ。お礼と別れを告げるのだから、きちんと自分の足で赴き、面と向かって伝えなくてはならない。
それに、下手にこの場で大騒ぎをしてシステムに察知され、せっかく生じたこの「抜け道」を閉ざされてしまっては元も子もない。
しんと静まり返った廊下に立ち尽くし、胸の内で鳴り響く心音を聴いていた。
正直、怖い。
でも、今こうして「抜け道」を作り出すことが出来たんだ。仮にここを離れた一瞬にこの経路がふさがれてしまったとしても、俺の空想とシステムの穴を巧みに突けば、再現の手がかりは掴めるはずだ。
たとえ再びこの経路を引き出すのに苦心することになろうと――さよならを言えなかった後悔を一生背負って生きるよりは、遥かにマシだ。
俺は開いたままの扉越しに、見慣れた自分の部屋をもう一度静かに見つめた。
「ちょっと待っててくれよ。すぐ戻るからさ」
誰に言うでもなく呟くと、俺は扉を開け放ったまま、階下の食堂へと踵を返した。




