最終話
「……へ?」
恐る恐る手を伸ばし、ドアノブを掴む。ゆっくりと扉を開くと――。
はい、みんなそこにまだいました。
扉のすぐ向こうに立っていたサツキさんと、バッチリ目が合ってしまう。
「……は?」
固まる俺。固まるサツキさん。そして後ろで見守っているハルカさんたちの、なんとも言えない表情。
えーと……こういう異界への扉って、一度閉めたら奇跡の接続が切れて二度と会えなくなる、みたいなのがお約束なんじゃないの? 扉を閉じたら接続が切れるなんて思っていたのは、完全に俺の勝手な思い込みだったと?
「……まだ、行き来できるみたいですね」
サツキさんがぽつりとつぶやいたその一言に、俺の全身からブワッと冷や汗が吹き出した。
さっきまでのあの感動的なお別れは一体何だったんだ。涙でぐしゃぐしゃになりながら「もう二度と会えない」だの「筋を通したエンディングだ」だの、一人で悲劇のヒロインばりに感極まっていたのが怒涛の勢いでフラッシュバックしてくる。
そして、この地獄のような空気にとどめを刺すかのように。
空中に、ぬっと光の文字が湧き出た。
『神の悪戯か、それとも愛が起こした奇跡か。引き裂かれたはずのふたつの世界は、おれたちの切ない恋心を哀れむように、ふたたびひとつに重なり合った。涙に濡れた瞳で交わし合う視線。そう、おれたちを繋ぐ絆は、次元の壁すら軽々と越えていくのだ。溢れ出す愛おしさに耐えかね、おれは溢れる涙を拭いもせず、愛しき彼女たちをその腕に包み込もうと――』
俺は無言でクソ字幕の真ん中にストレートを叩き込んで粉砕した。光の文章が弾け飛び、きらめくチリとなって霧散する。
さっきまでの感涙のドラマは何だったのか。目頭どころか顔面全体が熱い。俺は涙を拭った両手で、今度は赤くなった自分の顔を覆い隠した。
お願いだから誰か……この場にいる全員の記憶から、さっきの俺の感動的な決別シーンだけを跡形もなく削除してくれないだろうか。
・ ・ ・ ・ ・
俺は泣き濡れた顔をなんとか拭い、ふたたび館の側へと足を踏み入れた。
いまは食堂のテーブルを囲み、みんなで温かいお茶を飲んでいる。
皆、まだしばらくはこうして交流が続きそうなことを純粋に喜んでくれていた。
それが俺にとって唯一の、そして最大の救いだった。
……だが。ここにきて、ちょっと、いや相当に深刻な問題が発生したのである。
自室のあの扉の向こうは、本来であれば俺のマンションの洗面所と風呂場、そしてトイレへと続く空間だった。
しかし、そこがこの異界の館へと繋がる常時接続ルートに上書きされてしまった結果――俺は、自宅における洗面所・風呂・トイレという生活インフラへのアクセス手段を完全に喪失したのである。
感動の再会(?)の裏で直面した、あまりにも地味で、それでいて人間の尊厳に関わる致命的な事態。
「……あの、すみません。実はかくかくしかじかで……しばらくこちらの風呂とその他施設を使わせてください……」
俺は温かいお茶が注がれたカップを前に、テーブルの向かいに座るハルカさんへ向けて、深々と頭を下げた。
事情を聞いたハルカさんは、「そんな理由なら仕方ないわよねぇ。どうぞ気になさらず、客室の洗面所やお風呂を自由に使ってくださいな」と、少し吹き出しそうになりながら、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
アヤカさんは、クールな瞳の奥に静かな微笑みを湛え、「ええ、どうぞいつでもお好きなときにおいでください。私たちは……いつでもお待ちしておりますから」と、そっと頷いてくれた。
サツキさんは「やったー! 宗近さん、これからもこうやってみんなで楽しくお茶が飲めますね!」と明快に大喜びしている。
「きっと宗近さんは、『ご飯まで頼めない』なんて遠慮するんでしょうね。でも、お腹が空いた時は気兼ねなく声をかけてください。いつでも喜んで作るっすよ!」と嬉しそうに頷くナギサさん。
「ふふっ、こちらの館がお風呂屋さんになってしまいましたね」
ユキエさんもクスクスと楽しそうに微笑みながら、優しくそう言った。
一緒にお茶を飲んでいる銀髪幽霊少女も、俺が当面こちらに通い続けることに特に異論はなさそうである。よくわからんけど、たぶん。
こうして俺は、現世のインフラと引き換えに、異界での居候生活(洗面所・風呂・トイレ利用限定)をしばらく延長することになったのだった。
・ ・ ・ ・
ここから先は、さほど語るような大層な出来事ももうない。
峠で雪にスタックして置き去りになっていた俺の車は、後日ちゃんとレッカーを手配して回収しに行った。その際に分かったのだが、どうやら俺にはこの異界空間へのアクセス能力が正式に付与されたらしい。一度ルートを認識したことで、あの峠からでも問題なく館へと到達できるようになっていた。
自室の扉から繋がるルートといい、もはや俺の日常生活と異界は切り離せないものになりつつある。
もちろん、館の施設利用にタダで甘えるような、不誠実な立ち振る舞いはしたくない。洗面所他を借りている客室スペースは、感謝を込めてちゃんと自分でピカピカに掃除している。サツキさんには、そこまで気を遣わなくてもよいですよー、と言われたりもするが、これくらいは当然の筋というものだ。
当然、掃除をするだけでは対価としてまだ足りない気がして、俺は現世で買ってきた話題のお菓子や、近所の名物和菓子を定期的に「差し入れ」として渡している。ハルカさんたちは「そんなに気を遣わなくていいのに」と少し遠慮がちに言いながらも、いつも嬉しそうにお茶の時間を楽しんでくれていた。
だが、それでも――俺の気持ちとしては、まだ少し物足りない気がしていた。
たとえば、もう少し先の話。
超えるべきハードルはあるけれど、今度は俺がガイド役になって、彼女たちをこちらの街へ連れ出してあげたいという思いがある。
「こちらの世界の日常」を、みんなで買い物がてら散歩して回るのも悪くない。
それに、俺がまだ知らない――あの館が佇む「異界」そのものの姿についても、もっと知っていきたいと思っている。
扉は開いたままだし、俺たちの交流も、そして俺が果たすべきちょっとした「恩返し」の宿題も、まだ始まったばかりである。
視界の端で『――異象の館にまどろむ美しき乙女らと、その身を永久に委ねられし男の、偉大なる愛と契りの叙事詩が今ここに――』などと厳粛な体裁で調子に乗るクソ字幕に拳を叩きこんで粉砕し、俺は静かにここに筆を置くのだった。
ー 完 ー
追記:
なお、洗面所や風呂場を犠牲にして館へと繋がるこの現象が、俺の引っ越し先にもしっかりついてくる便利――いや、極めてはた迷惑な仕様だと知るのは、また後日のことである。




