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仄暗い短編集  作者: 鈴生
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岐路

 その別れは、唐突だった。

 そう、思いたかっただけかもしれないけれど。


 もう何年も隣で見つめ続けていた、彼女のふっくらとした唇が、そのコーラルオレンジのリップの塗られた唇が、最善で最悪の言葉を紡ぎ出すのを、私は止めることができなかった。


 二人で選んだ座り心地の良いソファーで、彼女の好きなハーブティーを揃いのマグカップに淹れて、眠たくなりそうな午後の時間を過ごしていたときのことだった。

 ベージュのロングスカートの上で上品に組まれた手が、解かれてはまた組み直される。彼女が何か言おうとしているのが見て取れた。心を落ち着かせる言葉を、ゆっくりと選んで話す彼女のその仕草が、私はどうしようもなく好きだった。

 こちらから水を向けるのはいけない。彼女の周りには彼女の時間が流れている。そこには私でも入ることのできないほどの分厚い障壁があって、何人たりともそこに立ち入ることは許されなかった。彼女以外の人間が、彼女の特有のそのゆったりとしてある種混沌とした時間を見ることができるのは、彼女がそれを開示してくれたときだけだ。

 細い黒縁の眼鏡の奥で、鋭く聡明な瞳が瞼に隠された。一呼吸置くと、その瞳の淵が部屋に射し込む太陽の光にきらりと反射した。瞼が少しずつ持ち上がっていくのを、息を止めて見つめる。流麗な柳眉と、真っ直ぐ通った鼻梁に、柔らかな産毛がうっすらと煌めく頬。何年も焦がれて、何年も見つめ続けてきた彼女の横顔に、私はいつでも見惚れてしまっていた。

 丁寧に切り揃えられた指先の爪が、細かく光を跳ね返す。普段は好まないマニキュアを、私と会うときだけ塗ってくれていることを、私は知っていた。初めはそれを隠されていたけれど、以前街中で偶然会って食事をしたときに、彼女から聞いたのだ。

 そのときの彼女には、飾り気というものがなかった。色付きのリップは塗られていない。化粧もほとんどといっていいほどしていないように見えた。その姿も美しくて可愛らしくて堪らなかったが、彼女はそれを私に見られたことが恥ずかしくてならないと言っていた。私の前ではせめて着飾っていたいというのが、彼女の本心だった。

 彼女はそのままでもこれ以上なく愛らしいのに。そう言っても、彼女はあまり納得してくれないようだった。自分が在りたいように生きたいのだ、と彼女は口にしていた。


 私と彼女の間には、愛情だけでは埋めきれない溝があった。

 彼女も私もその溝を埋めようと必死だったけれど、その溝はどれだけ手を尽くしても深く広くなるばかりだった。まるで、反対側にいる恋焦がれる相手に手を伸ばしても、辛うじて触れそうなところであと数センチ足りなくなるような、性格の悪い何かだった。

 彼女には、彼女だけが持ちうる不思議な時間と、どれだけ求めても止めることのできない夢があった。

 私には、彼女の全てを理解できるだけの技量も能力もなかった。彼女の夢を応援する気持ちも時間も金銭も持ち合わせていたけれど、彼女の隣に並び立つことはできなかった。


 彼女は自由だった。口数は決して多くないけれど、意志は誰よりも強固で、しなやかなしたたかさと、卑劣な非難にも折れることのない自信を持っていた。

 私の目には彼女の姿が何よりも尊いものとして映った。私にはないものを、彼女は持っている。そう信じて疑わなかった。

 彼女は私も同じものを持っていると何度も言ってくれたけれど、どうしても信じられなかった。私は、自分が彼女と同じ立場に立ったとしたら、どう足掻いても彼女のようには振る舞えないと思った。


 愛していた。

 愛されていた。

 愛し合っていた。

 すべて、覆しようのない事実だった。

 でもその気持ちが埋めるよりも早く、私と彼女の間にあった溝は深く広くなってしまった。


 ソファーの右隣の座面の凹みは、とっくに無くなっていた。そこに手を伸ばしても、もう温もりは残っていなかった。カップに注がれたハーブティーから立ち上っていた湯気も、とっくに霧散して冷え切ってしまっていた。

 西側のブラインドの隙間から、網膜を焼くような夕焼けの光が入り込んできた。その光から逃げだすようにソファーから立ち上がる。何も持たずに家から飛び出す。行く当てなんて決まっていなかった。


 当てもなく彷徨って、辿り着いたのは家から少し歩いたところにある公園だった。

 真っ直ぐに公園の真ん中まで歩いて、池のほとりに置かれている、木製の古びたベンチに腰かける。吹き付けてくる風が冷たい。思わず上着の前を閉めて、身体を震わせる。腰かけたところから、じわじわと自分の体温が奪われていくのはわかっていたが、どうしても見たいものがあったのだ。

 白く曇る息を吐き出しながら、手を温める。手袋は持って来ていなかった。手がかじかんでいくのが分かる。ポケットに入れておくことにした。

 ただひたすらに前だけを見つめる。池には、赤い紅葉がひらりひらりと舞い降りていた。そのなかで、ときおりどこかから紛れ込んだくすんだ黄色の銀杏の葉が混じる。池の水は澄み切って、中で揺れる水草の様子すら見て取れた。白地に赤と黒が煌びやかな錦鯉が悠々と泳いで、遠ざかって行った。

 池に葉が舞い降りるたびに、水面は小さく波紋を広げた。それが、先に落ちていた葉に当たって、すう、滑るように動く。風が一度強く吹き付けて、たくさんの紅葉を解放していった。次々に赤い葉が舞い降りて、池の水面には毛氈ができていた。

 その下に向かって、あの煌びやかな錦鯉が潜っていく。途中で何かあったのか、毛氈を下から押し上げて、また潜っていた。毛氈は散り散りになって、池の縁に向かって流されていく。

 近くまで紅葉がやって来たのを見て、ベンチから立ち上がる。池の縁にしゃがみこんで、指先に冷たい水がついた。水面を撫でるように、一番近くにいた一枚を手に取る。そのまま夕陽に翳して見ると、陽の光を反射して、葉が纏う水がきらきらと輝いた。

 紅い、とは、これのことなのだろう。

 紅葉はオレンジ色に染まった夕陽を受けて、自身の色を上品に、それでいて確かに主張していた。


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