重石
毎日、夢と現を行き来するような、浅い眠りに微睡んでいた。時折ふと意識が現に戻っては、またとろりと、とぷりと、どす黒い夢の世界に戻っていく。うまく意識が夢の中に溶け込めないこともあるけれど、目立つほど多いわけではない。
その日は、意識が妙にくっきりして、夢の世界には馴染めない日だった。
その方が、私にとっては幸せな夜だった。
右側にある窓にかかるカーテンの隙間から朝日が漏れ出しているのが視界の角に見える。
もう、朝か。
深呼吸をして、ゆっくりと起き上がる。軽く伸びをしてから毛布を捲る。
今日も喫茶店の開店準備が待っているのだ。早く起き上がって支度をして、絶対に寝坊して遅刻してくるであろう店員兼友人たちを迎えなければ。
最近はあまり寒くない。もうこの冬用のスリッパも衣替えしてもいいかもしれない。
微妙に潰れた鳥のような顔が描かれたもこもこのスリッパを履いて、分厚いカーテンを開ける。ついでに換気もしてしまおう。開店する前に閉めればいい。
窓の外はほんの少し肌寒かったが、うららかな朝日で満たされていた。
本格的に春がやってきたのだ。柔らかな風の中に、少し緑の香りが混じり始めている。なんだか落ち着くいい香りだ。いつも通りの目覚めではあったけれど、窓の外の空気を胸いっぱいに吸い込めば、なんだかこころもち気分が晴れやかになった。
さて、顔を洗って、うがいをして、着替えて、髪を梳いて、メイクをして、階下に降りて朝食を作らねば。
顔にかかってきた寝ぐせの付いた少し長い前髪を、右手でかき上げる。
時刻はAM6:30。
喫茶店のいつもの朝が始まる。
朝の仕込みの途中で、窓を閉めるために自室に戻らせてもらった。自室があるのは3階だ。
その階に続く階段の登り口には、関係者以外立ち入り禁止と書かれた鍵のかかった扉がある。そこから先は私の生活空間と、店の重要書類などがあるからだ。首に掛けたチェーンから鍵を引っ張り出し、扉を開けて真っ直ぐに階段を登っていく。
一番奥の部屋に進んで、また鍵を取り出して扉を開ける。
自室は土足厳禁にしてある。扉の外で革のローファーを脱いで、部屋に入ってからスリッパに履き替える。誰にだって汚したくないものの一つや二つあるだろう。
キッチンでの時間が少し慌ただしかったので、一度扉をしっかり閉めて一息つく。
部屋の中は涼しい空気に入れ替わっていた。薄手の白いカーテンが柔らかな風に吹かれて揺れている。
窓は東側と南側にあるので、部屋には朝の日差しが燦々と注ぎ込んでいた。
先にベッド横の南向きの窓を閉める。続いて東向きの窓だ。そちらに向かうとき、どこかに香ばしいパンの香りが混ざっているのを感じ取った。斜向かいのパン屋さんだ。流石朝が早い。
窓の左手に置いてあるキャビネットに目が行く。昔から繰り返し読んでいる本が並んでいるが、最近は忙しくて読み返していなかった。またいつか時間が出来たら読もう。
窓を閉めるついでに、外の様子も見ておいた。そろそろ町の人たちも外に出る時間だ。ちらほらと歩いている人たちが見える。
少し遠くに目をやれば、ずっと真っ直ぐの方角に見える山の木々が少しずつ萌芽し始めているのがわかった。山の斜面を覆う緑が、先日見た時よりも柔らかな色合いに変わっていた。
仕事はいつだって慌ただしい。接客業なら尚更だ。
時計を見ると、AM10:50だった。昼前にやってくるあの常連客は少し早く帰ったようだ。 いつもより早めに休憩時間に入り、普段ならできないような少し手間のかかるメニューを作ることになった。
賄い用の冷蔵庫を覗き込む。この前買ってきて食べていないベビーリーフがあった。それと鶏もも肉。ハーブチキンソテーにしようか。付け合わせはジャガイモにしよう。あと玉ねぎのマリネも欲しい。チキンソテーとの相性が抜群なのだ。
主食はクリームパンだ。デザートにするには重すぎるので主食に格上げだ。デザートが欲しければ朝に仕込んだムースを出そう。このままいくと余ってしまいそうだ。キッチン担当の友人であるソラに昼休憩のメニューを伝えると、喜んでくれた。作るのは友人でも、メニュー考案は私の仕事なのだ。ソラの作業を見ながら、他の友人たちにも声を掛ける。
鶏もも肉3枚の両面に、ミル付きの岩塩と黒コショウをがりがりと削り、ディルの葉を少し刻んで全体に散らしているのが見えた。彼女が手際よく、大きめのフライパンにオリーブオイルにニンニク一欠けを入れて熱していく。ある程度香りが立ったらニンニクは取り出してし、下味を付けた鶏もも肉を皮目を下にして、蓋をして弱めの中火で10分。そのあと裏返してまた3分。最後に皮目をパリッとさせるために蓋を取って強火で1分。それだけで皮はパリパリなのに身はしっとりとジューシーなチキンソテーになる。出来上がったものを想像して口の中に唾液が溢れる。焼きあがるのが楽しみだ。ジャガイモは鶏肉の横に放り込んでおけば勝手に美味しくなる。便利な副菜だ。
チキンソテーは任せ、手が空いていたホール担当の友人、ヒナにマリネの肝である玉ねぎのスライスを任せる。私はその間にデザートと飲み物の支度だ。そうこうしているうちに他の2階にいた友人たちも下りてきた。
友人それぞれに指示を出してから、私はヒナとマリネ作りを交代した。玉ねぎに塩と砂糖と目分量で入れる。玉ねぎ3つ分なので、大体小さじ1ずつくらい入れれば良いだろうか。足りなければあとで足せばいい。軽く揉みこんで水分が出るのを待つ。その間に冷蔵庫にしまっていたクリームパンをオーブンで軽く焼く。表面が焦げないようにアルミホイルを被せておく。斜向かいのパン屋のクリームパンは冷めてももちろん美味しいが、温めた方が香ばしさがついてもっと美味しくなるのだ。
玉ねぎから水分が出てきたので、一旦水気を絞る。そこに酢と追加の砂糖と粗挽きこしょう、そしてほんの少しのレモン汁。ああ、そういえば口を切ったケッパーのピクルスが残っていたはずだ。いい機会だから入れてしまおう。全体をざっくり混ぜ合わせて味を見る。少し塩が足りない。一つまみ入れてみると味が引き締まった。これで完成にしよう。ソラもヒナも他の友人たちも、疲れったのか黙々と作業をこなしていた。賑やかに話しながら一緒に料理をするのも楽しいが、こうして静かだが穏やかに仕事をこなすのも嫌いではない。
マリネを人数分の小鉢に盛り付け、最後にオリーブオイルを掛ける。ヒナもサラダも盛り付けが終わったようだ。ちょうどいい具合にオーブンも鳴った。ホールの片づけに向かわせていた友人を呼び、出来上がった品を持って行ってもらう。皿数が多いのでお昼はカウンターではなくテーブル席だ。
焼きあがったクリームパンを大きめの皿に並べる。飲み物は大体固定だ。コーヒーとカフェオレと紅茶とミルクティーの4種類からしか選びようがないというのが正しいのだが。
お盆にカップを乗せてそのまま配膳をヒナに任せる。最後に自分の飲み物だ。朝と同じ紅茶でいいだろう。カップにティーバッグを入れ、残っていたお湯を注いでそのまま持っていく。ティーバッグは途中で引き抜けばいいだろう。
お昼休憩が終わるまで、あと30分を切っている。
ゆったり食べられるわけではないが、味わって食べるくらいの時間はあるはずだ。
午後になってからは、なんとなく気怠かった。ほんの少し、頭の奥がぼんやりするような、鈍痛がするような感覚があった。カフェインを摂取している日はこういうことには滅多にならないのに、今日に限っては効きが悪かった。普段なら苦もなくできる接客も、時刻が進めば進むほどに億劫になっていった。比較的忙しい日だというのに、どれだけ時計を見ても時間は一向に進まない。
時計の針が夕刻を差す頃には、もう頭が限界だった。簡単な計算すら脳が受け付けなくなり、レジを変わってもらうことになった。文字が読みにくくなり、メニューの案内すら困難になったので、それすらも変わってもらった。あまりにも動きの鈍い私を見て、キッチンに立っていたソラに自室でもうこのまま休むように言い渡された。明日は休業日だ。閉店作業は全て代わってくれるとのことだったので体裁だけは渋々という風に見せながらも、私はそそくさと3階に戻った。
カツカツと足音を立てて、自室に戻る。乱暴に鍵を開けて、強くドアノブを捻り、靴も揃えずに脱ぎ捨ててスリッパに履き替える。電気だけは辛うじて点けた。あまりにも眩しくて嫌になる。
部屋の中はずっと散らかったままだ。いつも仕事が終わると何もできなくなってしまうのだ。掃除なんて以ての外だ。作業机の上は先月、いや先々月だろうか、その頃作業していた状態がそのまま放置してある。サイドテーブルに置いてあるマグカップはずっと使いまわしだ。洗うのも億劫だった。私一人しか使わないのだ。使った後にざっと水で濯ぐだけで十分だろう。その程度で人間は簡単に死にはしない。
制服をベッドの上に脱いで放り出す。スラックスはハンガーに掛けなくとも、酷いシワになることはそうそうない。最近分かったことだ。それに多少のシワならお客さんから見えないだろう。キッチンにほぼ常駐しているうえ、ホールに出るときにじっとしていることはない。動き回っているのだから大して目立っていないだろう。
今日は夕飯を食べるのも、シャワーを浴びるのも、何もかも嫌だった。何もしたくなかった。気温が低く汗をあまりかいていないのをいいことに、今朝脱ぎ捨ててあった部屋着に着替えて、スリッパを足から投げるように脱いでベッドに仰向けに倒れ込む。陽が落ちていくのをぼんやりと眺めていた。
気付けば身体が冷えていた。部屋に戻ってきたときは暑いくらいだったのに。掛け布団と毛布をしっかり被る。寒い。爪先も指も冷え切っていた。右側を下にして横向きになり、ベッドの中で小さく丸くなる。そうやって寒気が引くのを待つのだ。足先を温めるために、交互に足首につま先を当てては暖を取ろうとするが、一向に温まらなかった。
そうして横になっていると、部屋の惨状がずっと目に入った。碌に掃除もしていない部屋の中は悲惨だった。部屋の照明で、床にうっすら積もった埃がよく見えた。髪の毛も落ちているのが見える。キャビネットの上も埃を被っている。作業机の上も同じだ。サイドテーブルも、普段腕時計を置くところを除けば、同じようなものだった。そんなところで使いまわしにしているカップの衛生状態は相当なものなのではないかという気がしてきた。それに、掛け布団の上に放りだした制服も、早くハンガーに掛けなければいけない。くしゃくしゃにしてしまうと、またシワを伸ばす手間が増える。一回カーテンを開けて窓を開けて換気をしなければ。部屋の中の空気が淀んでいる気がしてならない。起き上がらなければ。シャワーも浴びなければいけない。夕飯も作らなくてはいけない。洗い物もして、今日着たブラウスや今着ている部屋着も洗わなければ。制服を片づけて、部屋の掃除もしなければ。ああ、何からやればいいのだろう。起き上がって早く動かないと、どんどん寝る時間が遅くなってしまう。昨日のように日付を回ってから寝るなんてごめんだ。あれでは今日のように日中の動きが悪くなる。早く動かなければ。どれから手を付けなければいけないのだろうか。
それでも、起き上がることができなかった。なんだか頭の中の歯車が、色々しなければいけないという義務感の部品と、身体の機能を担う部品とで上手く噛み合っていないみたいだ。でもそんなことを言っている暇はない。早く起き上がって何かしなければ。店長代理の私が酷い顔色で出勤し続けるわけにはいかない。それに、これ以上他の店員たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。今日は特別に休みを貰っただけなのだ。こんな事態はもう経験したくない。
ただ、それでも、起き上がれない今の状態を何とかするために少し眠ろうかと思っても、眠りたくもなかった。また、夢に溶けきれずに、現を彷徨うままに現実と区別が付かないような嫌な夢を見るのだろうか。また、私は、何もできないのだろうか。いつもの、私のように、何もできないまま、棒立ちのまま、役立たずのまま、それを傍観するしかできないのだろうか。
ああ、早く起き上がらないといけない。お客さんに情けないところは見せられない。友人たちに心配を掛けさせたくはない。常連さんたちに詮索されたくはない。何も知らないでいて欲しい。何も聞いてこないで欲しい。誰も、私に、関わらないで欲しい。ただひたすら、私を一人にさせてほしい。何もしたくないのだ。何も話したくないのだ。何もさせないで欲しい。
掃除をしてシャワーを浴びて洗濯をしなければいけない。身体に上手く力が入らない。身体の向きを変えるのも一仕事だ。先ほどの体勢でいたときにうっすらと眠気が忍び寄ってきていたことが、何よりも恐ろしかった。眠りたくない。うまく眠れない。あの身も心も削られるような夢を見たくはない。天井を穴が開くほど見つめる。いっそ人の顔のように見えたらよかったのにと心底思った。瞬きをしたくはなかった。その一瞬で夢に引き戻されることが、この上なく恐ろしかった。




