第五話《偽りの『平穏』》
朝の冷たい空気が頬を撫でる。
カイは重たい瞼をこすり、泊まっている宿を出る。
日差しが心地よく、足取りも自然と軽くなる。
市場へと近づいていくと、あちらこちらで威勢の良い掛け声が飛び交っている。
「おう、カイ! 『英雄』様は金持ちだろう? また買っていってくれ!」
「また今度な」
国中の元気が集まった、そんな場所。
非日常的な感覚を味わえる日常的な場所。
「よお! 早いな、カイ。鮮度抜群なリンゴが、今朝届いたんだが、エルにどうだ?」
カイの姿を見つけると声をかけてくれるような、馴染みの店主もできた。
「そうだな、三つもらおうか」
「まいど!」
店主は手際良く、良いリンゴを選ぶ。
「荷馬車が多いが、何かあったのか?」
往来のど真ん中を譲りながら、多くの荷馬車がアルディア中央道を通っている。
「あー! 国を離れてた奴らが戻ってくるって話だ。本人達はまだ来てねえみたいだが、荷物でも運んでんじゃねえか? ほらよ」
「ありがとう」
リンゴ三つにしては重い袋を受け取る。
軍人達の家族は国内に留まっていたが、一般市民の多くは、隣国へ避難していた。避難民が多く、国が空っぽになるかと思われたほどだ。
「そうか。戻ってくるのか」
毎日のように警報が鳴り響き、「明日の命さえも」と震えていた日々は終わりを告げたのだ。澄み渡った空に戦闘機の姿は見えない。空には、自由に旋回する鳥達だけ。
カイは震える息を吐き出した。
『終戦』
ようやく、その事実を確信することができた。
庭のウッドデッキでお茶を飲みながら語る、そんな日がカイにやってくるのかもしれない。
「戻って、くるのか」
姿の見えない友よ。
__________
「お帰りなさい、カイさん。先程、エルくんにお水を持って行きましたよ。この子が」
宿の女将と、彼女の愛らしい娘が迎えてくれた。
「今、エルにリンゴをやってきたところだ。ありがとう、おチビさん」
「チビじゃないもん! エルくんのお友達の、エルナだもん」
「ふふふ。たまに、エルくんと二人でおしゃべりしてるものね」
カイはエルナの目線に合わせて、しゃがみ込む。
「エルと友達か。お礼に、女将さんの許可が取れたら今度、遠乗りに行くか?」
「ほんとっ? いいの! ママー!」
エルナは輝かしい笑顔で、女将さんに突撃した。
エルはエルナを拒んでいない。少し気難しいエルでも、エルナのことは受け入れるだろう。
「カイさん! 良いって、ママが」
「良かったな。予定を立てようか。いつが良い?」
エルナはまた、女将さんの元へと走っていく。
その走り方は、とても軽やかだった。
退役して、数週間が経った。
訓練もない。朝礼もない。敬礼もしない。
それは、己が望んでいた“普通の生活”と似ていた。
残るは、家。
カイはキッチンにいる、女将の父に声をかけた。
「おやっさん。いい不動産屋を紹介してくれないか?」
「おう」
無愛想な親父さんは、知り合いを紹介してくれた。
__________
「だから、ないですって。カイさん。妥協案を持ってきてください」
カイは、親父さんが紹介してくれた不動産をはじめ、あちこちを渡り歩いた。だが、どこへ行っても言われることは同じ。
「人通りが少なく、大きな庭があり、子供の声が聞こえる家」
カイの出した条件は、この三つのみ。
条件に合う家はアルディア国内にないと言われた。
「国外に出るのはどうです?」
「だめだ。俺の居場所がわからなくなるだろ」
職員は首を振るだけだった。
それと共に、「出禁にする」とまで言われてしまった。
項垂れながら、宿に帰る日々を送っていた。
「あ! カイさん。早く早く。お客様だよ!」
エルナに手を引かれ、宿の一階、奥へのテーブルへと連れていかれる。
そこにいたのは、軍服に身を包んだ女性。
「どうされたんですか? リサ中佐」
「とりあえず座れ。エルナちゃん。お水二つ」
「はい!!」
カイは仕方なく、リサ中佐の前に座った。
「リサ中佐?」
「まあ、待て」
「はい! お水二つです。ごゆっくり!」
エルナがテーブルを離れたのを確認して、リサ中佐は口を開いた。
「本当は、軍に呼び出すべきなんだが……」
歯切れが悪い言葉が、宙を漂う。
「私に、こういうのは向いていない……本当に」
宿へ入ってから、一度も合わなかった目線がぶつかる。
「テオ中尉の、遺体が見つかった」
その音は鼓膜を震わせることなく、体内へねじ込まれた。
周りの喧騒が遠のく。
「テオの遺体? リサ中佐でも冗談をおっしゃるんですね」
カイは笑った。
頬の筋肉が吊り上がり、笑みが不自然。
「カイ?」
「なんでテオの遺体があるんです? あいつはちょっと旅行をしてるだけですよ」
次から次へと言葉が流れ出る。
話を続けなければならない。
止まってしまったら――
「カイ!」
グラスが床に転がり、水がカイにかかる。
「テオとミロと俺と三人で暮らすんです。家だって! 今の所、見つかってないですけど!」
「もういい」
リサが、カイの肩を抱きしめる。
リサ中佐の息があがる。
「テオが出した条件って簡単そうで難しいんですよ。不動産屋に出禁にするまで言われちゃって」
「もういい。もういいのカイ。ごめんなさい」
「なんで? あいつは――
あいつは、生きて、ますよね?」
己の肩を抱く、リサの手を掴む。
目線が合わせられない。
リサ中佐の手の力が大きくなる。
「カイ、よく聞け。テオ中尉は戦死した」
「嘘だ」
「事実だ」
「だって、あいつは、何がなんでも帰ってくるヤツですよ? あなたもよく知ってる」
「ああ。知っている」
「だったらなんで!」
「帰ってきたじゃないか。お前達の元に」
カイの指先から、急速に熱が奪われる。
「テオが言い出したんですよ。俺たち三人で暮らそうって」
「そうか」
「一緒に旅行もしようって」
「そうだな」
カイの声が、乾いた砂がこぼれ落ちるような、音へ変わる。
「どこにいるんですか。テオは」




