第四話:その追加注文は契約外です(後編)
「ふざけるな! 勝手に追加料金などを決めてたまるか! 俺は一銅貨も余分に払わんぞ!」
喚き散らすオットーの前に、アストリッドは行政庁の巨大な公文書綴り――『王国標準役務委託約款および討伐契約約款集』をドサリと広げて見せた。
「オットー様。行政庁が仲介する公認契約においては、双方の力関係による不当な搾取を防ぐため、厳格な約款が定められています。約款第十八条『予期せぬ事態における緊急防除措置』をご覧ください」
アストリッドの指先が、流麗な筆致で書かれた条文を追う。
「『受託業務の履行過程において、受託者の責に帰すべからざる事由により生命・身体に危険を及ぼす魔獣等の襲来に遭遇した場合、受託者はこれを防除・排除することができる。その際、委託業務の遂行に不可避として生じた討伐役務については、発注者は行政庁の公定積算基準に基づく適正な追加対価を支払わねばならない』」
「ぐっ……そ、それは……!」
「オットー様、ご自身でお認めになりましたね。『薬草を採るのに邪魔だったから魔狼を片づけさせた』と。つまり、魔狼の排除は薬草採取業務を遂行する上で【不可避な前提作業】であったと、発注者ご自身が証言されたのです」
「う、うぐぐ……!」
オットーの喉から、カエルの潰れたような呻き声が漏れた。
「さらに、冒険者たちが現場から回収してきた物証を確認いたします」
アストリッドはカウンターの小窓から、奥の査定室へ視線を向けた。
小窓が開き、査定官のイーヴァルが、金属トレイに乗せた物品を無言で差し出した。
「……イーヴァルさん、検収結果をお願いします」
「……ん」
イーヴァルは手元の伝票を読み上げた。
「……魔狼の討伐証明部位、右耳五対。個体識別照合完了。……体内から摘出された魔石五点。純度六割五分の中級マナステイン。さらに、裂傷の少ない良質な冬毛の狼皮三枚。……行政庁の公認買い取り市場における現時点での資産評価額、合計【銀貨八枚と銅貨二十枚】」
「ありがとうございます、イーヴァルさん」
アストリッドは頷くと、木製算盤に手をかけた。
パチ、パチパチパチ、ジャララン……!
指先が流れるように珠を弾き、乾いた軽快な音が執務室に響き渡る。
「これより、本件の適正な清算額を算出いたします。まず、魔狼五頭の公定標準討伐基本報酬。一頭につき一銀貨で、計【銀貨五枚】。次に、事前の契約外かつ軽装備状態での戦闘を強いられたことに対する緊急危険手当加算、一頭につき四十銅貨で、計【銀貨二枚】。したがって、正当な追加討伐報酬は【合計銀貨七枚】となります」
「な、七銀貨だとぉっ!? 元の依頼料(五銀貨)より高いではないか! そんな大金、払えるか!」
「お聞きなさい、オットー様。話はまだ終わっていません」
アストリッドは冷静に算盤の珠をリセットし、再び弾いた。
「本来、受託者が危険を冒して討伐した魔物の素材および魔石の所有権は、討伐者である冒険者側に帰属します。しかし、あなたがこの七銀貨の追加報酬を満額支払われるのであれば、素材の優先買い取り権は発注者であるあなたに移転します。先ほどイーヴァルさんが査定した素材の市場価値は【銀貨八枚と二十銅貨】です」
「……え?」
オットーの怒鳴り声がピタリと止まった。
「つまり、あなたが追加報酬として七銀貨を支払っても、手元に残る素材を商工連合の市場で転売すれば、差し引きで【銀貨一枚と二十銅貨の純利益】があなたの懐に残る計算になります」
「な……な、なんだと……?」
オットーがぽかんと口を開け、目を白黒させた。
「冒険者側は命がけの労働に見合う正当な報酬(計十二銀貨)を手にし、あなたも追加の支出を上回る資産を確保して利益を得る。これこそが、帳簿の上で双方が納得しうる最も合理的な『適正取引』です。……ただし」
アストリッドの声の温度が、一気に氷点下へと下がった。
「あなたがこの正当な追加支払いを断固として拒否される場合。素材と魔石の所有権は冒険者側に確定し、彼らはこの場で行政庁へ素材を売却して八銀貨と二十銅貨を現金化します。そして行政庁は、約款第二十四条に基づき――」
アストリッドは赤い表紙の公文書をバンッとカウンターに叩きつけた。
「発注者であるオットー様に対し、『契約外労働の強要および不当な対価支払拒否』による公認調停勧告を発令。これを拒否された場合、あなたの商工連合ライセンスを行政の取引ブラックリストに登録し、今後一切の行政仲介依頼を停止、さらに契約保証金【金貨十枚】の即時没収処分を執行いたします」
「ひ、ひぃぃぃっ!? 金貨十枚の没収……!?」
オットーの顔から完全に血の気が引いた。小太りの身体がガタガタと震え、額から大粒の脂汗が滝のように流れ落ちる。
「ス、スヴェン主任! こんな横暴な処分、いくらなんでもやりすぎだろう!? 何とか言ってくれ!」
すがりつくように主任を見つめる商人。
だが、机の下から恐る恐る顔を出したスヴェン主任は、アストリッドの背後から放たれる絶対零度のオーラに気圧され、コホンと引きつった咳払いをして姿勢を正した。
「……オットー君。彼女の言う通りだよ。行政庁は数字と法律に従って動く組織だ。君が法規に従えないというなら、私は今すぐ領主府と商工連合本部の監察委員会へ、君の不正契約に関する正式な告発状を送らざるを得ないね」
「う……うぐぐぐぐっ……!」
完全に逃げ道を塞がれたオットーは、悔しさに顔を歪めながら、毛皮コートの内ポケットからずっしりと重い革の財布を引っ張り出した。
「わ、分かった! 払えばいいんだろ、払えば! 元の依頼料五銀貨と、追加の七銀貨……計十二銀貨だ! 素材の受領証を寄こせ!」
ジャラランッ! と銀貨がカウンターに叩きつけられた。
「毎度ありがとうございます。では、役務完了確認書および素材譲渡承諾書を作成いたします。双方、受領印をどうぞ」
アストリッドの手際よい羽ペン捌きによって書類が整えられ、冒険者たちには満額の十二銀貨が手渡された。
「すげえ……! おい、満額どころか危険手当まで入ってるぞ!」
「ありがとう、受付のお姉さん! あんた、命の恩人だよ!」
若い冒険者たちが歓声を上げ、アストリッドに何度も頭を下げながらロビーを去っていく。
オットーは魔狼の素材を詰めた麻袋を荒々しく抱え、「くそっ、覚えてろよ田舎役人が……!」と捨て台詞を吐いて逃げるように立ち去っていった。
「ふう……っ」
アストリッドは深く息を吐き出し、乱れた書類を整えた。
壁掛け時計の針は、午後四時五十五分を指している。
窓口の受付終了まで、あと五分。
「……やりました。出納帳の数字、受領証の控え、金庫の残高。すべて完璧に一致しています」
アストリッドの胸に、清々しい達成感が満ち潮のように広がっていった。
悪質な商人の横暴を跳ね除け、駆け出し冒険者の権利を守り、数字の帳尻を完璧に合わせた。
そして――ゴーン、ゴーン、と高らかに午後五時の鐘が鳴り響いた。
「定時です……! 今日こそ、今日こそ何者にも邪魔されない、私の完全勝利です!」
アストリッドは両手を広げ、満面の笑顔で鞄を抱えて立ち上がった。
今夜こそ、肉屋で奮発して買った豚肉と根菜の煮込みをコトコト温め、焼きたての柔らかい白パンを浸して食べるのだ!
「アストリッドちゃん、お疲れ様〜」
ふいに、横から甘く楽しげな声が降ってきた。
ヘルガが、まだインクの乾いていない真っ白な書類の分厚い束を両手に抱えて微笑んでいた。
「……ヘルガ先輩?」
「今の鮮やかな交渉、すごく感銘を受けたわ〜。そこでスヴェン主任と緊急協議したんだけどね?」
ヘルガはドサリと、その書類の束をアストリッドの目の前に置いた。
「今後、商工連合の商人たちによる同様のトラブルを未然に防ぐために、明日からすべての受託契約書に『事前危険度判定チェックシート』と『契約外労働禁止特約条項(全十二項目)』を義務付けることになったの」
「……え?」
「明日朝一番から新書式で窓口を開けるから、現在保管庫にある既存の受託契約書――ざっと二百五十件すべてに、この特約条項の追記と割印を押す作業、今日中に仕上げておいてね〜!」
「に……二百五十件の追記と割印……!?」
「スヴェン主任が横で順番に決裁印を押してくれるから、アストリッドちゃんは書類の照合と追記起案を担当してね! あ、私、今夜は商工連合の友人と観劇の約束があるから〜。じゃ、お先に!」
ヘルガは優雅に手を振り、定時鐘の余韻とともに執務室から風のように去っていった。
「…………」
目の前に聳え立つ、高さ半メートルを超える契約書の山。
奥の机では、スヴェン主任が「す、すまないアストリッド君……明日の朝までにやらないと次長が……」と涙目で判子を握りしめている。
「……主任。明日じゃ、ダメですか?」
「明日の朝八時に商工連合の役員が視察に来るんだよぉぉ……! 本当に頼む……!」
アストリッドは静かに鞄を置き、事務用腕カバーを再び腕に通した。
「……計算を、始めます」
不正を防ぐための正しいルールを作れば作るほど、なぜか現場の書類仕事が倍増していく――。
新米公務員アストリッドの怒りの羽ペンの音が、今夜もスコグハイムの夜更けに延々と鳴り響くのだった。




