第五話:報告書を提出するまでが討伐です(前編)
「……主任。この執務室の片隅で、まるで太古の遺跡のように埃をかぶり、天井に届かんばかりに堆積している茶色い書類の山は……一体何ですか?」
朝の澄んだ日差しが差し込むスコグハイム地方行政庁・第七窓口。
出勤早々、几帳面に自分のデスクを拭き清めていた新米書記官のアストリッド・リンドベリは、執務室の壁際を指さして眉を吊り上げた。
そこには、麻紐で縛られた羊皮紙の束が、人間の背丈を超える高さで何列も積み上げられていた。
窓口主任のスヴェンは、机に突っ伏して両手で頭を抱え、今にもこの世の終わりを迎えたかのような細い声で呻いた。
「……見ないでおくれ、アストリッド君……。『討伐完了未報告・保留案件リスト』の山だよ……。今期だけで、実に百二十件……」
「ひ、百二十件……!?」
「そうよ、アストリッドちゃん」
隣の席で、優雅に爪のやすり掛けをしていた先輩書記官のヘルガが、涼しい顔で肩をすくめて見せた。
「冒険者たちってね、魔物を剣でぶった斬ったら、その瞬間に仕事がすべて完了した気になってるのよ。『討伐完了報告書』を窓口に提出して行政の検収印をもらわなきゃ、公金の支出決済が下りないから報酬の銀貨も支払われないのに……『字を書くのが面倒くさい』『ペンの持ち方が分からない』って言って、何ヶ月も放置するの」
「ほ、放置……!? 公金支出が保留されたまま決算期を跨いだら、会計監査で『使途不明の未払繰越金』として庁舎全体が大減点を食らってしまいます!」
「そうなんだよアストリッド君……!」
スヴェン主任が泣きそうな顔でカップの胃薬茶をすすった。
「今朝一番で、本庁舎の税務監察官から真っ赤な督促状が届いてね……。『今週末までに未精算の百二十件をすべて帳簿上で処理せよ。できなければ次期予算の窓口運営費を三割カットする』とさ……! でもね、冒険者たちに『書類を書いてくれ』と頼んでも、睨まれるか逃げられるかで、誰も書いてくれないんだよぉぉ……!」
「当たり前です! 公金管理の基本中の基本ではありませんか!」
アストリッドのこめかみにピシリと青筋が立った。
まさにその時――。
ドカドカドカッ! とロビーの床を揺るがす重い足音とともに、大剣を背負った巨漢・ビョルンを先頭に、朝の任務を終えた冒険者たちが窓口へ雪崩れ込んできた。
「よう役所の連中! 先週受託してた東部街道の害獣駆除、きっちり片づけてやったぜ! 街道を塞いでた凶暴な魔狼どもを、この大剣で綺麗に真っ二つだ! さあ、さっさと討伐報酬の銀貨をくれ!」
ビョルンが太い腕を組み、カウンター越しに仁王立ちになった。
「ビョルンさん、おはようございます」
アストリッドは営業用の微笑みを浮かべ、カウンター越しにすっと右手を出した。
「……で、討伐完了報告書はどこですか?」
その瞬間、ビョルンの顔が露骨に引きつり、大柄な身体を二歩ほど後退らせた。
「あ……? ほ、報告書……? そんな紙切れ、いるのかよ? 俺が口頭で『ぶっ倒した』って言やあ、それで十分証明になってるだろ! 大体な、俺は昔から細かい字を見ると頭痛と蕁麻疹が出る体質なんだよ!」
ビョルンの背後に並んでいた他の冒険者たちも、口々に身勝手な言い訳を叫び始めた。
「そうだそうだ! 俺なんて生まれてこの方、ペンなんて握ったことねえぞ!」「魔物の正式名称の綴りなんて知るか!」「報告書の紙なら、現場で野営の焚き火の焚き付けに使っちまったぞ!」「字が書けねえから報酬が貰えねえなんて、役所の嫌がらせだ!」
身勝手極まる怒号の嵐に、奥でスヴェン主任が「ひいっ……! だから言ったんだ……!」と耳を塞ぐ。
だが――アストリッドは怯むどころか、冷徹なヘーゼルブルーの瞳をカッと見開き、両手をカウンターにドンッと叩きつけた。
「――静粛にぃぃっっっ!!」
新米公務員とは思えぬ凄まじい大音声が、第七窓口の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
怒鳴り散らしていた荒くれ者たちが、ピタリと口を噤んでたじろぐ。
「皆さん、よくお聞きなさい! 剣を振るって魔物を倒すのは、業務全体の【半分】に過ぎません! 所定の様式に必要事項を正確に記載し、行政庁の窓口に提出して帳簿に記載されるまでが討伐です!」
「な、なんだとぉ……!?」
「文字が書けない? 綴りが分からない? 焚き火に使った? そんな幼稚な言い訳が、公金を支出する行政の現場で通用するわけがありません! 報告書という法的な納品実績がなければ、公金は一銀貨、一銅貨たりとも支払えません!」
「そうは言ってもよ嬢ちゃん……書けねえもんは書けねえんだよ!」
ビョルンが頭をボリボリと掻きながら、困り果てたように眉を八の字にした。
「あの役所の書類、見たことあるか? 遭遇時刻、天候、風向き、魔物の体長、使用魔術の系統、採取部位の重量比率……何行も何行も、小難しい文字がビッシリ並んでやがる。あんなもん、王都の学者じゃなきゃ書けねえよ!」
「…………」
アストリッドは棚から従来の『公用討伐実績報告書(甲種様式)』を取り出し、改めて目を通した。
……確かに、ビョルンの言う通りだった。
格式張った古めかしい公用文体で書かれた用紙は、無駄な記入欄が五十項目以上あり、必要以上の詳細さを求めている。文字の読み書きすら怪しい荒くれ冒険者たちにこれを自力で埋めろというのは、物理的に不可能な要求だった。
「……分かりました」
アストリッドは深呼吸をし、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
「冒険者の皆さんに書類作成能力がないのであれば、誰でも一瞬で書ける仕組みを行政側が構築するまでです。……主任、古紙置き場から白紙の用紙と、定規と黒インクをありったけ持ってきてください!」
「えっ……!? アストリッド君、何を始める気だい!?」
「業務改革です! 今週中の百二十件の滞留書類、すべて本日中に片づけます!」
(後編に続く)




