第五話:報告書を提出するまでが討伐です(後編)
それからわずか二時間後。
アストリッドのデスクの上で、一枚の画期的な新様式が完成した。
表題には、分かりやすい大きな文字でこう書かれている。
――『新・簡易討伐完了実績届(選択式チェックシート)』。
「……な、何だいこれは?」
スヴェン主任がおずおずと眼鏡越しに用紙を覗き込んだ。
「見ての通り、文字の記述を極限まで排除し、【該当する項目に丸をつけるだけ】で完成する新様式です」
アストリッドは胸を張って解説を始めた。
「まず討伐対象欄。文字ではなく、街の周辺に出現する代表的な魔物のシンボルマーク――小鬼の角マーク、大鬼の棍棒マーク、魔狼の牙マーク、大猪の鼻マークなどを絵柄で並べました。倒した魔物の絵柄に丸をつけるだけです」
「あ、あら……! これ、すごく直感的で分かりやすいじゃない!」
ヘルガが目を丸くして感嘆の声を上げた。
「次に討伐場所欄。これも地図の簡略図を載せ、『北の山・東の街道・南の森・西の廃坑』のチェックボックスに印をつけるだけ。そして討伐頭数欄は、一から二十までの数字が並んでいるので、該当する数字に丸をつけるだけです。本人が手書きで記入しなければならないのは、一番下の『受取人署名』――名前の一箇所のみです!」
「す、素晴らしい……! これなら文字が苦手な冒険者でも、一分もかからずに書けるよ!」
スヴェン主任の手が歓喜に震えた。
「さあ、実践です!」
アストリッドは新様式を束にして抱え、待合ロビーのカウンターに並べた。
「冒険者の皆さん、注目してください! 本日より討伐報告書を新様式に移行いたします! 文字を書く必要はありません! 倒した魔物の絵柄と、場所と、数に丸をつけて、お名前を書くだけで結構です!」
ロビーにいた冒険者たちが、半信半疑で用紙を受け取った。
「な……なんだこれ? 文字を書かなくていいのか?」
ビョルンが太い指で用紙をつまみ上げ、恐る恐る羽ペンを走らせた。
「ええと……魔狼だから、この牙のマークに丸……場所は東の街道だから、ここに丸……倒したのは三頭だから、『3』に丸……で、最後に俺の名前を……できた! おい、本当に三十秒で終わったぞ!」
「俺もできた! 小鬼のマークに丸して、西の廃坑に丸して、名前を書くだけだ!」
「すげえ! これなら俺でも書けるぞ!」
ロビーのあちこちから、割れんばかりの歓声とどよめきが沸き起こった。
今まで何ヶ月も放置され、滞留していた未報告案件の書類が、まるでダムの放流のように次々とカウンターへと提出され始めたのである。
「はい、検収いたします! 魔狼三頭、確認いたしました。受領印をどうぞ、銀貨三枚です!」
「次の方どうぞ! 大鬼一頭、素材確認完了です。はい、銀貨十枚になります!」
パチパチパチパチッ!
アストリッドの算盤が目にも留まらぬ速さで弾かれ、受領証が切られ、硬貨が手渡されていく。
長年滞留していた未払い金の山が、信じられないスピードで解消されていった。
「アストリッド君、君は行政の救世主だよ……! 税務課の監査を乗り切れる……!」
スヴェン主任が感涙にむせんでいた。
――だが。行政実務の改革には、必ず予期せぬ落とし穴が待ち受けているのが世の常である。
「……あの、お客さま?」
午後の窓口で、アストリッドは提出された一枚の用紙を見て、ピタリと手を止めた。
カウンターの向こうには、革鎧を着た若い新米冒険者が、得意満面の笑みで立っている。
だが、その提出されたチェックシートを見ると――。
「……お客さま。討伐対象欄の【小鬼十頭】、【大鬼五頭】、【飛龍二頭】、そして一番下の【巨竜一頭】にまで、力強い丸がつけられていますが」
「へへっ! 丸をつけるだけでいいって言うからさ! 全部に丸をつけた方が、強そうでかっこいいだろ!」
「かっこつけないでください!!」
アストリッドの雷が落ちた。
「あなた、今日持ち込んできた討伐部位は裏山で捕まえた野兎の毛皮一枚だけですよね!? 虚偽記載は王国刑法における『公文書偽造および同行使罪』に該当します! 今すぐ正しい項目に丸をつけ直してください!」
「ひ、ひいっ、すみません!」
簡略化しすぎた結果、強そうな魔物に手当たり次第に丸をつける見栄っ張りの若手や、数字の桁を間違えて丸をつける者が続出。結局、アストリッドが一人ひとり「本当にこの魔物を倒したんですね?」と口頭で突き合わせ確認を行う羽目になった。
それでも――。
夕方の受付終了鐘が鳴る頃には、長年溜まりに溜まっていた百二十件の滞留書類は、一枚の例外もなく全て処理を完了していた。
「ふう……っ、終わりました……!」
アストリッドは整理された分厚いファイルをトントンと机で揃え、保管庫の棚に収めた。
だが、その作業の最中――。
「……ん?」
アストリッドの指先が、ファイルの中の一枚の書類で止まった。
他の冒険者たちが提出した粗野な筆跡の用紙とは異なり、流麗な文字で代筆された『受任代理委任状』が添付された報告書だった。
受任者:登録冒険者、ハンス。
討伐内容:山岳部における危険魔獣の駆除。
だが、添付された魔力照合用のライセンス鑑札印の刻印番号と、冒険者名簿に登録されているハンスの魔力パターンが、わずかにズレていたのだ。
「……どうしたの、アストリッドちゃん?」
ヘルガが淹れたてのハーブティーを片手に覗き込んできた。
「先輩、この委任状……形式上は整っているのですが、委任元の冒険者ハンスさんの活動履歴が、過去三ヶ月間完全に途絶えているんです。それなのに、代理人を名乗る人物が毎月のように高額な討伐報酬を受け取っています」
「……ああ」
ヘルガはカップを口元から離し、声を潜めて耳打ちした。
「それ、裏社会で噂されている『ライセンスの名義貸し』ね」
「名義貸し……?」
「街の外から流れてきた、身元の明かせない『無登録の潜り冒険者』たち。彼らに正規冒険者のライセンスを貸し出して報酬を窓口で代理受領し、法外なピンハネをして私腹を肥やしている斡旋屋がいるのよ。……あまり深入りしない方がいいわよ。その斡旋屋の元締め、大体は商工連合の息のかかった危険な連中だから」
「商工連合……またですか」
アストリッドは手帳を開き、その不審な代理人の名前とライセンス番号を几帳面にメモした。
無登録の潜り冒険者。消えた特級魔石。契約外労働の強要。そして、名義貸しの不正受給。
スコグハイムの平穏の裏で進行する暗雲の輪郭が、少しずつ、だが確実にその姿を現し始めていた。
――だが!
壁掛け時計の針は、午後四時五十五分。
「……不穏な事件の調査は、警察や監察官の仕事です。私の今日の使命は――定時退社です!」
アストリッドは素早く出納帳を閉じ、手提げ金庫の硬貨残高と照合した。
百二十件に及ぶ怒涛の大量精算を経てもなお、残高の狂いは一銅貨たりとも生じていない。
ゴーン、ゴーン――。
午後五時を告げる終業鐘が、静まり返った庁舎に響き渡った。
「定時です……! 今日こそ、ついに成し遂げました! 私の完全なる定時退社です!」
アストリッドは歓喜の叫びを上げ、私物の鞄を抱きしめた。
今夜こそ、カリカリに焼いた塩漬け豚肉とキャベツの蒸し煮を、ホクホクの焼きジャガイモと一緒に心ゆくまで味わうのだ!
「アストリッド君!」
その瞬間、執務室の奥からスヴェン主任が、両手に抱えきれないほどの巨大な書類の束を抱えて飛び出してきた。
「……主任? その巨大な紙の束は何ですか?」
「いやあ、素晴らしいよアストリッド君! 君が考案した『選択式チェックシート』の噂を聞きつけた税務課長と市民課長がね! 『我が課の各種申請書もすべてチェックシート化したい! 全庁舎共通の申請書簡素化マニュアルを大至急作成してくれ!』と、大絶賛の要請が来たんだよ!」
「…………」
「明朝八時半からの全課長連絡会議で配布したいんだ! 全百二十ページの『行政申請書イノベーション手引書』の起案、今夜中に頼めるかい……?」
「……主任。明日じゃ、ダメですか?」
「全課長会議なんだよぉぉ……! 君の特命昇進のチャンスなんだ、頼むぅぅ……!」
アストリッドは静かに天を仰ぎ、深いため息をついた。
「……業務を効率化して時間を生み出したら、その浮いた時間に別の仕事が三倍詰め込まれるって……公務員組織って、一体どういう構造なんですか……!?」
定時鐘の余韻とともに、「アストリッドちゃん、出世街道まっしぐらね〜! お先に!」と風のように去っていくヘルガ。
「……計算を、始めます」
新米公務員の怒りと絶望の羽ペンの音が、今夜もスコグハイムの深夜の執務室に、乾いた音を立てて響き続けるのだった。




