第六話:そのポーションは経費ですか?(前編)
スコグハイム地方行政庁・第七窓口。
黄金の日の朝、まだ開庁の鐘が鳴る二十分前。
「……今日こそは。今日こそは何があっても、たとえ庁舎の屋根が崩れ落ちようとも、定時で帰ります……!」
窓口カウンターの最前列で、新米書記官のアストリッド・リンドベリは、両手を握りしめて静かに、だが血を吐くような気迫で誓いを立てていた。
昨夜の全庁舎向け『行政申請書イノベーション手引書』全百二十ページの起案作業により、執務室を出たのは深夜二時。
帰宅途中に冷たい夜風に吹かれながら「私は公務員になったはずなのに、なぜ徹夜の職人のような生活を送っているのだろう」と虚空を見つめたアストリッドの精神は、限界寸前だった。
「おはようアストリッドちゃん。ふふ、昨夜のマニュアル、完璧だったわよ〜。市民課長も税務課長も『これぞ我が庁舎が求めていた革命だ』って涙を流して喜んでたわ」
隣の席では、いつものように艶やかな赤褐色の髪を揺らしながら、ヘルガが焼きたてのアップルパイを優雅にかじっていた。漂うリンゴとシナモンの甘い香りが、空腹のアストリッドの鼻腔をくすぐる。
「……お褒めいただき恐縮です、ヘルガ先輩。おかげで昨夜は夢の中でもチェックボックスの四角い枠に追いかけ回されました。今日こそ……今日こそ定時に退庁し、美味しいご馳走を食べて、八時間きっかり睡眠を取るのが私の至上命題です」
「あらあら、その意気よ。でもねえ、アストリッドちゃん。今日が何曜日か、忘れてないわよね?」
「え……? 黄金の日ですが……」
「そう、『黄金の日の経費精算日』よ」
ヘルガがパイを一口かじり、待合ロビーを指さした。
開庁十分前だというのに、鉄格子の扉の向こう側には、クシャクシャになった紙切れや領収書、請求書を手にした冒険者たちが、殺気立った表情でぎっしりと列を作っていた。
「週末を迎える前に、今週使ったポーション代や宿代、武器の修理代を現金化しようと、血眼になった冒険者たちが殺到するのよ。……おまけに経費精算は、この窓口で一番基準が曖昧な魔境よ」
「ひいっ……! 始まった……また黄金の日が来てしまった……!」
奥の机から、情けない呻き声が上がった。
スヴェン主任が、震える手で薬包紙から粉末の胃薬草を素焼きのカップの水に溶かしている。その顔色は、朝だというのに青ざめた土気色だった。
「主任、おはようございます。今朝の胃の具合はいかがですか?」
「アストリッド君……聞かないでおくれ……。経費精算ほど現場と揉める業務はないんだよ……! 『命がけで戦ったんだから全額経費だ』と言い張る荒くれ者たちと、『無駄な支出を削れ』と目を光らせる監査官の板挟みで、私の胃壁は毎週末ごとに削り取られているんだ……!」
「大丈夫です主任。領収書の妥当性、公金支出規則の条文、そして客観的な相場データに基づいて厳格に精査すれば、いかなる無理難題も論理的に退けられます」
「それが通じたら誰も苦労しないんだよぉぉ……!」
ゴーン、ゴーン――。
無情にも午前八時半の開庁鐘が鳴り響いた。
扉が開いた瞬間、怒涛の勢いでカウンターへ雪崩れ込んできた冒険者たちの先頭に立っていたのは、全身に痛々しい包帯を巻き、煤で黒ずんだ板金鎧を着た巨漢のベテラン戦士だった。
「おい役所! 昨日の討伐で使った緊急必要経費の精算だ! さっさと銀貨を払い戻せ!」
ドスン、とカウンターに叩きつけられたのは、豪奢な金箔押しの印章が捺された一枚の領収書だった。
アストリッドは手際よく領収書を引き寄せ、記載された文字を確認した。
――『特級霊薬・竜血配合超活性回復ポーション一本代金:金貨三枚(銀貨三百枚也)』。
「……金貨三枚、ですか?」
アストリッドは目を細め、包帯だらけの戦士を見上げた。
「そうだ! 昨日の北方山岳における飛龍討伐で、俺は胸を爪で抉られて肺まで達する重傷を負ったんだ! 現場でこの特級ポーションを一気飲みしなきゃ、今頃確実に死んでたぜ! 公務の討伐中に負った致命傷の治療なんだから、当然全額『討伐現場消耗経費』として行政庁が支払うべきだろ!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! それが経費で落ちるというのなら、私の治療魔法代はどうなるのですか!?」
横から鋭い声で割り込んできたのは、白銀の刺繍が施された神官法衣をまとい、肩で息を切らした青年――神殿から派遣された登録治癒神官の冒険者だった。
「昨日、私はパーティー全員の裂傷と火傷を、三回にわたって『奇跡の光』の神聖治癒魔法で完治させました! そのために自腹で購入した高価な魔力回復ポーションを四本も飲み干し、神への祈祷による激しい精神疲労を負ったのです! 薬代が経費で満額落ちて、私の命を救った神聖役務がタダ働きなど、公平性の観点から断じて承服できません! 金貨五枚の経費精算を要求します!」
「なにおぅ!? 神の使いの神官が、人助けで金をせびるのか!?」
「人助けではありません、れっきとした受託業務です! 戦士の筋力だけが討伐の経費として認められ、神官の魔力信仰が蔑ろにされるなど冒涜です!」
カウンター越しに、戦士と神官が額を突き合わせて激しい罵声を浴びせ合い始めた。
その言い争いに呼応するように、待合ロビーを埋め尽くしていた冒険者たちが、我先にと様々な領収書を頭上に掲げてカウンターへ殺到した。
「おい役所! 俺の解毒薬三本分も経費で落とせ!」「討伐現場で刃こぼれした俺の大斧の研ぎ直し代、銀貨四枚も当然経費だろ!」「昨夜、討伐成功を祝って酒場で開いた打ち上げの宴会代――銀貨十枚も、次期任務への士気高揚経費として認めろ!」「野営で使った寝袋の損耗費も出せ!」「破れた下着の買い替え代もだ!」
怒号、要求、怒声、そして無数の領収書の嵐。
第七窓口は、開庁早々にして欲望と不満が渦巻く修羅場と化していた。
「ひいぃぃっ……! や、やめてくれぇぇ……! 下着の買い替え代まで経費で落ちるわけがないだろうぉぉ……!」
執務室の奥で、スヴェン主任が両耳を塞ぎ、机の下に完全に縮こまってガタガタと震えていた。
「アストリッド君……! 消耗品の経費精算は、歴代の担当者が冒険者の剣幕に押されて、『まあ今回だけは……』とその場の空気で認めてきたせいで、無法地帯になっているんだ……!」
「その場の空気、ですか!?」
アストリッドの冷徹な眼光が、机の下の上司を鋭く射抜いた。
「公金を預かる行政官が、支出の適否を空気や暴力的な剣幕で決めるなど、あるまじき職務怠慢です! 基準が曖昧だから、冒険者たちが際限なく無茶な請求を突きつけてくるのです!」
「でもねえ、アストリッドちゃん」
隣の席で優雅に紅茶を啜っていたヘルガが、書類の陰から楽しげに口を挟んだ。
「安い普及用の下級ポーション(五十銅貨)は、現場の応急消耗品として昔から無条件で認められてきたのよ。じゃあ中級ポーションは? 上級は? どこまでが本人の自己負担で、どこからが行政の公金支出なのか……そんな境界線、神様でも引けないわよ」
「いいえ、境界線は引けます。数字と法律と客観的な相場データに基づけば、完璧に論理的な結論を導き出せます!」
アストリッドは愛用の木製算盤を机の上にトンと置くと、カウンターに押し寄せた領収書の山を両腕で抱え込んだ。
「これより、過去三年分の経費支出記録、および王国の薬事制度を徹底調査いたします!」
(後編に続く)




