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第三話:経費を三割削減せよ(後編)

 パチパチパチパチパチパチッ!

 執務室の奥で、アストリッドの指先が木製算盤の上を電光石火の勢いで跳梁していた。

 その計算速度と打鍵音は、もはや職人の域を遥かに超え、嵐の夜の雨あられのようだった。

 机の上には、過去三年分の消耗品購入伝票、討伐受付時間の統計記録、公務災害補償金の支払い実績、そしてロルフ次長が意気揚々と発行した『全庁経費三割削減基本計画書』が、整然と並べられている。

「アストリッドちゃん、目が据わってるわよ〜。お茶でも淹れましょうか?」

「結構です、ヘルガ先輩。お茶を飲んでいる時間はありません。……出ました」

 アストリッドは羽ペンをインク壺に突き刺し、巨大な羊皮紙をバッと持ち上げた。

 そこには、精緻極まる数式、項目別の対比グラフ、そして赤インクで太く囲まれた衝撃的な試算結果が記されていた。

「な、何が出たんだい、アストリッド君……?」

 恐る恐る近づいてきたスヴェン主任の鼻先に、アストリッドはその書類を突きつけた。

「題して、『経費三割削減がもたらす行政財政破綻の試算報告書』です」

「は、破綻……!?」

「主任、よく目を開いてこの数字を見てください!」

 アストリッドは鋭い指先で、試算表の最初の項目を叩いた。

「まず第一に、公用紙の品質を落としたことによる影響です。紙が破れることによる再発行率の上昇、インクの滲みによる書き直しにより、紙の消費量は従来の【一・六倍】に跳ね上がっています。単価を三割下げても、消費量が六割増えれば、用紙購入費は差し引き【一二%の増加】――つまり、紙代すら一銅貨も削れていません!」

「えっ……!? ふ、増えてるのかい!?」

「さらに酷いのは人件費と行政効率の損失です! 紙の破れ、インクの乾燥待ち、文字判読不能による再確認により、冒険者一人あたりの受付時間が従来の平均三分から【平均九分】へと三倍に延びています。これにより、窓口職員が残業を余儀なくされ、発生する残業手当の予測総額は、削減した消耗品費の【約四倍】に達します!」

「よ、四倍の残業代……!?」

「そして極めつけは、先ほどの常備解毒薬の削減です!」

 アストリッドの瞳が、怒りと冷徹な論理で燃え上がった。

「王国地方自治法第百七条『公的害獣駆除業務における受託者の安全配慮義務』に基づき、行政庁が依頼した討伐任務中に発生した負傷について、行政側の重過失(応急手当義務の不履行)によって後遺障害が生じた場合、行政庁は被害者に対し最高【金貨三十枚(銀貨三千枚)】の公務災害見舞金および賠償金を支払う義務を負います」

「金貨……三十枚……!?」

「一本あたりわずか【五十銅貨】の解毒ポーションの購入を惜しんだ結果、行政庁が負う法的賠償リスクは、実に【六千倍】に膨れ上がっているのです! 主任、これを世間では何と呼ぶかご存知ですか?」

「な、何と呼ぶんだい……?」

「『愚行』。あるいは『数字の読めない無能による行政妨害』と呼びます!」

 アストリッドの容赦のない断罪に、スヴェン主任の顎がガクガクと外れそうになった。

「削るべきでない安全コストと業務インフラを削り、結果として数倍から数千倍の財政損失と業務麻痺を引き起こす。こんなデタラメな削減計画、経理と行政実務に対する冒涜です!」

 アストリッドは試算表を丸めて小脇に抱え、迷いのない足取りで執務室の扉へと向かった。

「行きますよ、主任」

「えっ……!? ど、どこへ!?」

「決まっているでしょう。ロルフ次長室です」

「ひいぃぃぃっ!? じ、次長に直談判!? 無理だよ、次長は本庁舎の実力者で、逆らったら左遷どころか免職に……!」

「主任、窓口責任者はあなたです! 現場の職員と市民の命、そして適正な予算執行を守るのが中間管理職の責務ではありませんか! 私とヘルガ先輩が完璧な数字の弾幕で援護射撃しますから、堂々と胸を張ってください!」

「そ、そうよ主任〜。たまには男らしいところを見せてくれないと、お給料分の働きになりませんよ〜」

 ヘルガが背中をドンと押し、スヴェン主任は涙目で連行されていった。


 ――本庁舎二階、重厚な絨毯が敷き詰められた次長室。

「……何だね、スヴェン主任。現場の業務を放り出して、全員揃って私に何の用だね?」

 上等な白樺のデスクの向こうで、撫で付けた黒髪に口髭をたくわえた男――ロルフ次長が、不機嫌そうに眼鏡の奥の目を細めた。

「じ、次長……その、今朝の経費三割削減通達について、現場からの具申書を……」

 怯えるスヴェン主任を押しのけるように、アストリッドが一歩前に出た。

「失礼いたします、ロルフ次長。第七窓口書記官のアストリッド・リンドベリです。ただいま、今回の削減計画が施行された初日午前中における『行政効率損失および財政リスクの精算評価表』を作成いたしました。ご覧ください」

 アストリッドは一切の躊躇なく、次長の机の上に巨大な試算表を広げた。

「……何だね、この下品な紙は。私は『経費を削減せよ』と命じたはずだ。小娘の落書きを見る暇など――」

「落書きではありません。貴方様が署名された削減通達によって、本日午前中だけで発生した【用紙損耗率一六〇%】、【窓口処理能力六七%低下】、そして【潜在的賠償債務リスク金貨三十枚】の客観的証拠です」

 アストリッドは流れるような口調で、先ほどの数式と法的根拠を、機関銃のような勢いで叩きつけた。

「……さらに申し上げるならば、王国監査局の財務指針第二十二条において『業務遂行上不可欠なインフラ費用の削減により著しい業務遅延を招いた場合、主管責任者の背任行為とみなす』との規定がございます。次長、このまま本計画を強行された場合、四半期末の監査において、貴方様のお名前で『意図的な行政機能の毀損』として監査局へ報告書が上がることになりますが、よろしいでしょうか?」

「な……な、な……っ!?」

 ロルフ次長の顔が、みるみるうちに赤から青、青から土気色へと変色していった。

「ば、背任だと……!? 無礼な! 私は庁舎全体の財政健全化を思ってだな……!」

「財政の健全化とは、無駄な支出を削ることであって、必要な支出を削って将来の負債を増やすことではありません。商人見習いでも知っている初歩の初歩です」

 アストリッドの冷徹な一刀両断に、ロルフ次長は言葉を失い、机の上で震える手を握りしめた。

 そのとき、アストリッドの視線が、次長の机の片隅に置かれた別の書類の束に留まった。

 ――『ノルデン商工連合による魔獣害対策課の包括的民間委託契約草案』。

 表紙には、多額の賛助金受け入れに関する密約書らしき覚書が添えられている。

(……やはり。経費削減で第七窓口を機能不全に追い込み、『ほら見ろ、直営では回らないから民間に外注すべきだ』と既成事実を作る気だったんだわ……!)

 次長はアストリッドの鋭い視線に気づいたのか、慌ててその書類を手元の引き出しへと隠した。

「……え、ええい! 分かった、分かった! 現場の実情を考慮し、第七窓口の消耗品費および救急常備薬の削減命令は……【一時凍結】とする! これで満足か!? さっさと窓口に戻りたまえ!」

「賢明なご判断に感謝申し上げます。では、撤回決裁の署名と捺印をこちらに」

 アストリッドは用意していた撤回申請書を差し出し、逃げ場を塞ぐようにサインを迫った。

 カリカリ……と屈辱に満ちた音を立ててペンが走り、決裁印が押された。


「……か、勝った……! 我々は、次長に勝ったんだ……!」

 次長室を出て廊下に出た瞬間、スヴェン主任はその場にヘナヘナと座り込み、涙を流した。

「見事だったわよ、アストリッドちゃん。あんなに痛快な次長への尋問、開庁以来初めて見たわ」

 ヘルガが面白そうに拍手を送る。

 だが、安堵の余韻に浸る間もなく――。

 ゴーン、ゴーン、ゴーン――。

 本庁舎の鐘楼から、重々しい鐘の音が響き渡った。

 壁掛け時計の針は、きっかり午後五時を指している。

「あっ……!」

 アストリッドはハッと我に返った。

「ご、午後五時……。 業務終了の鐘! やりました……ついに定時です! 急いで私物をまとめて帰れば、今日こそ、今日こそ定時退社です!」

 アストリッドの顔が、今日一番の歓喜に輝いた。

 今夜こそ、じっくり炒めた甘い玉ねぎと干し肉のスープに、焼きたてのパンを浸して食べるのだ!

「あ、アストリッド君……」

 だが、背後からスヴェン主任の弱々しい声が響いた。

 立ち上がった主任の手には、次長室から退室する間際に渡された、もう一枚の公文書が握られていた。

「……主任? その紙は何ですか?」

「いやね……ロルフ次長が『命令を撤回する代償として、今回の試算根拠を全庁舎向けにマニュアル化し、明朝八時の緊急幹部会議までに提出せよ』って……」

「…………」

「全五十ページの『適正経費執行ガイドラインおよび財務リスク予防マニュアル』の起案……今夜中に仕上げておいてくれるかい……?」

「……主任。明日じゃ、ダメですか?」

「明朝八時の会議なんだよぉぉ……! すまない、本当にすまない……!」

 アストリッドは天を仰ぎ、深いため息をついた。

 そして静かに腕カバーを着け直し、木製の算盤を握り締めた。

「……上等です。完璧なマニュアルを書き上げて、二度とあんな愚劣な削減案を出せないようにしてやります」

 カチ、カチ、カチ……。

 夜の帳が降りるスコグハイムの街に、新米公務員の怒りと不屈の算盤の音が、遅くまで鳴り響くのだった。


お読みいただきありがとうございます!


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