第三話:経費を三割削減せよ(前編)
「……薄い。あまりにも、救いようがないほどに薄すぎます、主任」
スコグハイム地方行政庁・第七窓口のカウンターの向こう側で、新米書記官のアストリッド・リンドベリは、震える二本の指先で一枚の公用紙をつまみ上げ、窓から差し込む朝の光に透かして見せた。
王国標準規格の羊皮紙などでは断じてない。植物の屑繊維と藁を限界まで梳き延ばした、まるで玉ねぎの薄皮のように頼りない安物の粗悪紙である。
紙の向こう側に透けて見えるのは、書類の裏側に書かれた文字どころか、アストリッド自身の爪の形と指紋の渦巻き模様だった。
「息を吹きかけただけで破れそうです。これでは冒険者の荒々しい受領印はおろか、金属ペンのペン先を置いた瞬間に穴が空いてしまいます。これで討伐実績証明書を作成しろというのは、いくらなんでも無茶です!」
「し、仕方がないじゃないかアストリッド君……! 私だってこんな紙、使いたくて使っているわけじゃないんだよ……!」
窓口主任のスヴェンが、脂汗の浮いた額を両手で押さえながら、今朝一番で本庁舎上層部から届けられたばかりの赤い封蝋付きの通達文書を指さした。
「庁舎上層部――ロルフ次長直々の決裁通達だ。『魔獣害対策課は消耗品費および備品維持費の支出が他部署に比して突出している。今四半期中に全部署一律、運用経費の【三割削減】を断行せよ。達成できぬ場合は次年度の討伐交付金予算を強制減額する』とさ……!」
「三割? ただでさえ現場の泥や血糊で書類が汚れやすく、過酷な環境にある窓口なのに、三割も削れるわけがありません!」
カウンターの隣の席で、先輩書記官のヘルガが、陶器のインク壺に羽ペンを突っ込みながら、呆れ果てたように盛大なため息を吐き出した。
「文字を書くそばから水滴が滲んで青い染みになるシャバシャバの水増しインクに、湿気で波打つペラペラの紙。おまけに廊下の暖房用魔石ストーブは稼働半減、夕方の魔灯ランプは定時一時間前に強制消灯……。主任、これ、誰の入れ知恵か分かってるの?」
「う、うう……。次長と、領主府から派遣されている税務監察官だよ。最近、庁舎の幹部会で『民間の大手商工ギルド――ノルデン商工連合に魔獣対策業務を一括委託すれば、人件費も備品代も即座に半額以下に圧縮できる』という試算書が出回っているらしくてね……。うちの課が『非効率な金食い虫』だと槍玉に挙げられているんだ」
「民間に一括委託……?」
アストリッドは眉をひそめた。
ビョルンが口にしていた「無登録の潜り冒険者」。イーヴァルが指摘した「特級魔石の買い占めと闇ルート」。その背後で常に囁かれていた『ノルデン商工連合』の名が、今度は行政の民間委託という形で庁舎の内部にまで食い込んできていたのだ。繋がりがあるかどうかはわからないが、なにか気持ち悪い。
だが、不穏な政治の企みに思いを巡らせる暇など、現場の窓口には一秒たりとも存在しなかった。
ゴーン、ゴーン――。
開庁の鐘が鳴ると同時に、ロビーの扉が開き、朝の任務を終えた冒険者たちが怒涛の勢いで押し寄せてきたのである。
「おい役所! 昨日受託した街道警備の報告だ! さっさと清算してくれ!」
大柄な戦士がカウンターにドスンと書類を置いた。
「はい、受付いたします。受託番号を確認いたしますので、こちらの証明書にお名前と受取サインをお願いいたします」
アストリッドが件のペラペラの薄紙と、三倍に薄められた青インクを差し出す。
戦士は太い指で金属ペンを握り、力任せに紙へペン先を滑らせた。
次の瞬間。
――ビリッ!
「……あ」
金属ペンの鋭利な先端が、薄紙を無残に引き裂いた。同時に、水っぽすぎる青インクがボタッと紙の上に広がり、引き裂かれた裂け目から青黒い染みがジュワッと広がっていく。
「な、なんだぁっ!? 名前を書こうとしただけで紙が真っ二つに破けたぞ! おまけにインクが滲んで、文字が読めねえ!」
「も、申し訳ございません! ただいま新しい用紙をお出ししますので……!」
アストリッドは慌てて新しい紙を差し出したが、今度は筆圧を弱めすぎた戦士のサインがかすれて読めず、受領印を押した瞬間に朱肉の油分を吸った薄紙がクシャクシャに波打った。
「おいおい、なんだこの紙は! 俺をからかってんのか!?」
「隣の窓口も見てみろ! インクが薄すぎて討伐頭数の数字が『三』なのか『八』なのか判別できねえって揉めてるぞ!」
「薄暗くて字が見えねえよ! 定時前だからって魔灯ランプ消してんじゃねえ! 明かりをつけろ!」
カウンターのあちこちから、怒号と罵声が火薬庫のように炸裂した。
通常ならば一人あたり二、三分で完了する受付業務が、紙の破れによる書き直し、滲んだインクの乾燥待ち、数字の再確認で優に十分以上を要する。
わずか三十分で、第七窓口の受付列はロビーを越え、寒風の吹き抜ける本庁舎の正面玄関の外まで伸びてしまった。
「ひいぃぃっ……! 皆様、どうか落ち着いて……! 国の予算には限りがあるのです、公金の節約にご協力を……!」
スヴェン主任がカウンターから身を乗り出して平身低頭するが、苛立つ荒くれ者たちの怒りを鎮めるどころか、火に油を注ぐだけだった。
そのとき――。
ドガァン! と正面の重い両開き扉が乱暴に蹴破られた。
「おい役所ぉぉっ! 救急箱を出せ! 至急、強心解毒ポーションの支給だ!」
ロビーを揺るがす怒声とともに現れたのは、返り血で黒ずんだ毛皮の鎧をまとった巨漢――大剣士のビョルンだった。
その太い腕には、顔面を真っ青にして苦悶の息を漏らす小柄な若手冒険者が抱えられている。若者の右腕には、紫色の毒液で濡れた小さな矢が深々と突き刺さり、傷口の周囲がドス黒く腫れ上がっていた。
「ビョルンさん!? その怪我は……!」
「開拓林の南側で新手の小鬼の群れに出くわした! この新米が毒矢をかすめられたんだ! 神経性の麻痺毒だ、一刻を争う! 窓口備え付けの常備解毒薬をよこせ!」
「すぐにお出しします!」
アストリッドはカウンター下の救急棚へ手を伸ばし、木製の救急箱を引き出した。
だが――箱の蓋を開けた瞬間、アストリッドの手が凍りついた。
中に入っていたのは、数枚の薄汚れた包帯と、乾いた脱脂綿だけ。
常備されているはずの、緑色のガラス瓶に入った解毒ポーションが一本も見当たらない。
「主任……? 解毒ポーションの補充はどこですか? 予備の棚も空ですが!」
「あ、アストリッド君……そ、それもね……」
スヴェン主任が青ざめた顔で視線を泳がせ、喉をヒクヒクと震わせた。
「……今回の経費削減計画でね……『高価な医薬品の無償提供は冒険者の自己規律を損なう。怪我の治療は各個人が持参した自己負担ポーションで賄うべし』と、次長から指示があって……先週で窓口常備薬の購入予算が全額執行停止になったんだよ……!」
「な……なんですって……!?」
アストリッドの背筋が凍りついた。
そして、その言葉を耳にしたビョルンの双眸が、灼熱の怒りの炎で真っ赤に染まった。
「――な、んだとぉぉぉぉぉぉぉっっっ!?」
ドォォォン! と大柄な拳がカウンターを叩き割りそうな勢いで叩きつけられた。
「薬代を……削った、だと!? 俺たちが血反吐を吐いて森の化け物を食い止め、この街の壁を守ってやってるってのに……たかだか銀貨数枚の毒消し薬すら惜しんで、新米を見殺しにする気かぁぁっ!?」
「ひ、ひぃぃぃっ……! じ、次長が……財政の健全化がぁぁ……!」
スヴェン主任は机の下に潜り込み、泡を吹かんばかりに震え上がった。
「いい加減にしろ、この役人根性が! 公金を懐に溜め込んで現場を見捨てやがるなら、この窓口なんぞ今すぐ叩き壊してやる!」
ビョルンが背中の大剣の柄に手をかけた。ロビー中の冒険者たちが殺気立ち、一触即発の暴動の気配が立ち込める。
「待ってください、ビョルンさん!」
アストリッドはカウンターから身を乗り出し、自らの制服のポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは、小さな陶器の小瓶――私物の『薬草濃縮軟膏』だった。商人の実家にいた頃から、常備薬として持ち歩いている上等な自家製品だ。
「私の私物です! 毒の吸出しと中和作用があるハーブを調合しています! これで傷口を洗い、患部を清潔な布で縛ってください! すぐに裏通りの公認診療所へ!」
「……っ、すまねえ、助かる!」
ビョルンは小瓶をひったくるように受け取ると、若者を背負って脱兎の勢いで診療所へと走っていった。
「…………っ」
アストリッドは深く息を吸い、静かに、だが氷のように冷たい眼差しで、机の下に丸まっている上司を見下ろした。
「……主任。机の下から出てきてください」
「ア、アストリッド君……? もう暴動は収まったかい……?」
「収まっていません。……今すぐ奥の執務机に来てください。数字の計算を始めます」
「ひいっ……!?」
(後編に続く)




