番外編:ヘルガ先輩の優雅なる有給休暇(第三夜)
第三夜 有給休暇の有意義な使い方
重厚なドワーフ製の黒鋼扉が音もなく開き、金庫の奥から漏れ出した深紅と青白の神秘的な魔力光が、地下室の暗闇を鮮やかに照らし出した。
ヘルガは迷いなく一歩を踏み出し、金庫の内部を深緑の瞳で見据えた。
「……思った通りだわ。大当たりね」
金庫の棚の最上段。鉛を張った重厚な木箱のビロードの上に鎮座していたのは、大人の拳ほどもある深紅の巨大結晶――スコグハイム地方行政庁の地下第一保管庫にあるはずの、大鬼の『特級魔石』であった。
台座の封蝋には、庁舎の備品管理課が焼き付けた公式の封印紋章が、傷ひとつなく残されている。
そしてその隣には、革紐で束ねられた分厚い羊皮紙の帳簿と契約書の山。
ヘルガは手袋越しの指先を滑らせ、一番上の書類をめくった。
表題は、『北方街道開発事業に伴う、高純度魔石の特命再鑑定および公売処分伺い書』。
その決裁欄には、地方行政庁次長ロルフの禍々しい朱色の私印がくっきりと捺されていた。
さらにその下からは、王都の軍需闇市場へ金貨五十枚で特級魔石を売り渡す密輸約定書、そしてノルデン商工連合からロルフ次長の裏口座へと毎月支払われていた莫大な賄賂の受領台帳が次々と現れた。
「ロルフ次長、これで完全に言い逃れはできないわよ。……表では『窓口の経費削減と民間委託』なんて立派な題目を並べ立てながら、裏では街の防衛備蓄である特級魔石を横領して、商工連合と山分けしていたなんてね」
ヘルガは太ももの装具帯から、銀色の留め具で巻かれた白紙の巻物――『魔導複写羊皮紙』を取り出した。
一枚あたり金貨一枚は下らない、王都の中央監査院でも使われる最高級の証拠保全用魔導紙である。
「有給中の私費だから経費で落とせないのが癪だけれど……第七窓口と、私たちの平穏な定時退社を守るための必要経費と思えば安いものだわ」
ヘルガは裏帳簿のページの上に複写羊皮紙を重ね、白く細い指先から繊細な魔力を流し込んだ。
淡い青銀色の光が紙面を駆け抜け、インクの配合成分、羊皮紙の繊維の織り目、筆圧の深さ、さらには決裁印に込められた固有魔力の波長に至るまで、原本と寸分違わぬ『改ざん不能の魔導写し』として瞬時に焼き付けられていく。
ペラリ、ペラリと流れるような手つきでページをめくり、賄賂台帳と密輸約定書、再鑑定伺い書の全頁を余すところなく複写し終えた。
その間、ヘルガは現物の特級魔石にも、原本の書類を束ねる位置にも、微塵の狂いも生じさせなかった。
(ここで現物を盗み出せば、連中はただの盗難事件として処理するか、証拠ごと倉庫を燃やして闇に葬るでしょうね。……お役所の戦いは、動かぬ証拠の『公認複写』を監査の場に突きつけて、衆人環視の中で相手の首を落とすのが鉄則よ)
写し取った羊皮紙の束を丁寧に丸め、灰黒色の外套の内懐へと厳重に収める。
――ピシリ。
その時、金庫の最奥、特級魔石が置かれた鉛の台座の下から、氷が割れるような極小の音が響いた。
台座の底面に刻まれていた、微弱な魔力干渉に反応する警報術式。
魔石そのものには指一本触れていなかったものの、複写羊皮紙を起動した際のわずかな魔力の余波が、高純度魔石の結晶波長と共鳴してしまったのだ。
(……ちっ、感度の良すぎる魔石ね!)
ヘルガが舌打ちして身を翻した瞬間――。
グォン、グォン、グォンッッ!! カンカンカンカンッッ!!
地下室の天井に吊るされた真鍮の魔導警鐘が激しく打ち鳴らされ、回廊の魔導灯が不気味な赤色へと一斉に切り替わった。
「な、なんだ!?」「地下金庫室の警鐘が鳴ったぞッ!」「侵入者だ! 出入口をすべて封鎖しろ、一匹たりとも逃すなァッ!!」
上層の階から、怒号とともに数十人分の重々しい軍靴の足音が、地鳴りのように階段を駆け下りてくる。
「まったく……せっかくの有給休暇中だっていうのに、少しは静かに骨休めさせてほしいものね!」
ヘルガは毒づきながらも、その唇に不敵で華やかな笑みを浮かべた。
金庫室の扉口へなだれ込んできた傭兵たちの先頭集団が、長槍の穂先を揃えて吠える。
「女だ……!? あの黒革の女をひっ捕らえろッ!」
「お断りよ、無粋な筋肉ダルマさんたち!」
ヘルガは装具帯から一粒の灰白色の魔石球――錬金術師特製の『閃光煙幕玉』を抜き放ち、石畳の床へ力任せに叩きつけた。
パアアアアアンッッッ!!!!
真昼の太陽のごとき激烈な白光が地下の闇を焼き尽くし、直後、むせ返るほど濃密な白煙が回廊を瞬く間に埋め尽くした。
「ぐわあああっ!? 目、目がくらんだァッ!?」「前が見えねえッ! げほっ、ごほっ!」
視界を奪われて大混乱に陥る傭兵たちの頭上を、ヘルガは灰黒色の外套を夜鳥の翼のように翻して軽やかに跳躍した。
闇雲に突き出された槍の穂先を紙一重でかわし、石壁を蹴って換気用の吹き抜けへと飛び込むと同時に、袖口の『鉤縄銃』を発射!
ギュルルルッ! と力強く巻き上げられる黒縄の勢いに乗り、一息で一階の天井裏の梁の上へと舞い上がった。
そのまま梁の上を風のように疾走する。
白煙の中から放たれた機械弓の太矢が、ヒュン、ヒュンと風を切って足元の松材に突き立つが、ヘルガのしなやかな疾走を捉えることはできない。
前方に見えてきたのは、運河に面した倉庫北側の高窓――月光を映す色硝子の明かり取り窓であった。
「ごきげんよう、商工連合の番犬さんたち! 人の休日に邪魔を入れたツケは、明日の監査でたっぷり払わせてあげるわ!」
ガシャアアアアンッッ!!
『消音長靴』の踵で色硝子の窓枠を豪快に蹴り砕き、ヘルガの身体は、夜霧の立ち込める月下の空間へと躍り出た。
水面まで十メートル近い高所からの跳躍。
だが、その落下地点の運河には、彼女が事前に葦の茂みへ繋いでおいた一艘の小舟が浮かんでいた。
トン、と猫のように柔らかな身のこなしで小舟の舳先へ着地する。
膝を曲げて落下の衝撃を完全に殺すと同時に、ヘルガは船尾の床板に刻まれた『水流推進の魔導刻印盤』へ、爪先から一気に魔力を蹴り込んだ。
ドッパァァァンッ!!
船尾から激しい水流が噴き出し、小舟は白い水しぶきを上げて、矢のような速さで霧の運河へと滑り出した。
遅れて倉庫の船着き場へ飛び出してきた傭兵たちは、ただ呆然と、濃い川霧の彼方へ消えていく黒い影を見送ることしかできなかった。
――午前五時半。
東の山の稜線が、淡い薔薇色に染まり始めた頃。
渓谷に佇む湯治宿『翠渓亭』の裏木戸から、ヘルガは何事もなかったかのように離れの客室へと滑り込んだ。
煙の匂いがわずかに移った『隠密革装束』を脱ぎ捨てて鞄の底へ封印すると、大判の麻布を素肌に巻いて、そのまま露天の岩風呂へと向かう。
朝霧と湯煙が溶け合う、誰もいない早朝の源泉。
ザブゥゥゥンッ! と惜しげもなく白い肢体を湯船へと沈めた。
「ふはぁぁぁぁぁぁ……っ!!」
冷えた夜気をくぐり抜けてきた身体の隅々にまで、熱い源泉の恵みがじわじわと染み渡っていく。
長い手足を思い切り伸ばし、岩の縁に頭を預けて、心の底からの至福のため息を漏らした。
「徹夜の潜入仕事のあとの朝風呂……これ以上の贅沢はないわねぇ。……お肌も艶々、爪の先まで傷ひとつなし。これで午後の職場復帰は完璧だわ」
たっぷりと朝湯を堪能した後は、部屋に運ばれてきた朝食――香ばしく焼き上げられた渓流鱒の香草バター焼きに、とろりとした温泉半熟卵、焼きたてのライ麦パンと温かい蜂蜜ミルクを綺麗に平らげた。
身支度を整え、薔薇の香油を馴染ませた猪毛の櫛で赤褐色の波打つ髪を艶やかに梳かし上げ、上品な砂色の羊毛長外套を羽織る。
宿の玄関を出る際、見送りに立った接客係のキルスティが、感極まったように両手を合わせた。
「まあ、ヘルガ様……! お越しになった時よりも、まるで女神様のように神々しく輝いていらっしゃいますよ!」
「ふふ、ありがとうキルスティ。最高のお湯とお料理のおかげで、心も身体もすっかり綺麗になりましたわ。また有給を取って伺うわね」
ヘルガは優雅に微笑んで心付けの銀貨を渡し、秋晴れの陽光が降り注ぐスコグハイムの街へと、軽やかな足取りで歩き出した。
――そして、清流の日の午後一時。
スコグハイム地方行政庁・大会議室。
緊迫した空気の中で行われていた『庁舎地下食堂運営事業者選定・公開試食審査会』の会場に、地鳴りのような歓声と拍手が爆発していた。
「勝者、二番――『跳ね大猪亭・仕出し部門』!」
スヴェン主任の高らかな宣言とともに、料理長のハルヴァルと女将のビルギッタ、そして下町の料理人たちが涙を流して抱き合っている。
「ヒルダちゃん、おめでとうございます……! あなた方の真心の勝利です!」
後輩のアストリッドが、愛用の木製算盤を胸に抱きしめ、瞳を潤ませて微笑んでいた。
商工連合が金の力で仕立て上げた見せかけの高級料理を、アストリッドが起案した厳格な要求水準書と、下町職人たちの魂がこもった『極上ポトフ定食』が完膚なきまでに打ち破った瞬間であった。
熱狂と感動に包まれる大会議室の出入口。
開け放たれた重厚な扉の前に、砂色の長外套を纏ったヘルガが、パチパチパチと上品な拍手をしながら立っていた。
「ヘルガ先輩! 有給休暇中だったのでは……!?」
驚いて駆け寄ってきたアストリッドに、ヘルガは艶やかな笑みを浮かべ、その後輩の耳元へとそっと唇を寄せた。
「ただいま、アストリッドちゃん。お見事だったわね」
そして、周囲の誰にも見えない絶妙な角度で、長外套の内懐から、青白い魔導刻印が淡く光る『魔導複写羊皮紙』の束をスッと覗かせた。
「……こちらも大収穫よ。ノルデン商工連合の裏金台帳と、ロルフ次長が裏で横流しさせていた『特級魔石』の密輸ルートの証拠を、一文字残らず押さえてきたわ」
「……っ!」
アストリッドの青碧の瞳が、驚きに見開かれ、やがて凛とした強い光を放った。
その後方で、胃薬草の小瓶を握りしめていたスヴェン主任が、目を白黒させて叫ぶ。
「ヘ、ヘルガ君……! 君、三日間の温泉療養で一体どこへ行って何をしてきたんだい!?」
「あら主任、人聞きの悪い。ただの有給休暇中の、ほんの私的なお散歩のついでですわ。……さて、午後の勤務開始まで、あと十分」
ヘルガは銀鎖の懐中時計をパチンと閉じ、フォレストグリーンの瞳を細めて艶やかに唇を吊り上げた。
「お肌の調子も完璧、証拠の数字も完璧。……私たちの第七窓口を舐めてくれたタヌキどもを、明日の棚卸し監査で徹底的に追い詰めてあげましょうか!」
優雅なる有給休暇を終えた先輩受付嬢の微笑みは、いかなる獰猛な魔獣よりも美しく、そして恐ろしかった。
(番外編 完)
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