番外編:ヘルガ先輩の優雅なる有給休暇(第一夜)
第十七話の有給休暇中のヘルガ先輩のエピソードです。
第一夜 湯煙の美肌と、夜を裂く黒革
働く者の正当な権利とは、時に涼しい笑顔で力ずくでもぎ取るものである。
それが、北方の地方都市スコグハイムの行政庁に勤めて六年になる先輩受付嬢――ヘルガ・マグヌソンが、数々の修羅場と理不尽な書類の山から導き出した揺るぎない真理であった。
「ヘルガくぅぅぅぅぅぅんッ!! 頼むから考え直して戻っておくれよぉぉぉぉっ!!」
第七窓口の分厚い樫の扉を閉めた背後から、上司であるスヴェン主任の断末魔にも似た絶叫が石造りの廊下に反響していた。
扉の隙間から、主任が常備している胃薬草の苦い香りが微かに漂ってくる。
だが、ヘルガの軽やかな革靴の足取りは、一寸たりとも揺らがない。
彼女は白魚のようにすらりとした指先で、羽織った砂色の羊毛長外套の襟元を優美に正すと、艶やかな赤褐色の波打つ髪をさらりと揺らした。
「ふふ。公務員服務規程第十八条第三項に基づき、年次有給休暇中の職員の私的行動を拘束する権限は、いかに所属長といえども一切存在いたしませんわ。……せいぜい胃に穴を空けない程度に頑張りなさいな、主任」
手にした細身の樺材の雨傘を杖のようにコツリと石床に鳴らし、ヘルガは月光の日の澄んだ朝日が差し込む行政庁の正面玄関を、颯爽と通り抜けた。
提出した申請書に記した表向きの事由は、『心身の恒常的疲労回復、および美肌維持のための温泉療養』。
もちろん、それは嘘ではない。
だが――王都から冷徹な特命査察官が乗り込み、窓口の存続を懸けた庁舎食堂の公開審査会が行われようとしているこの絶妙な時期に、彼女が三日間の休暇を行使したのには、もう一つの重大な理由があった。
「アストリッドちゃんは真面目で、算盤と法規の扱いに関しては天下一品だけれど……まだ『表の規則』と『正しい帳簿』の土俵でしか戦えないからねぇ」
冷たい秋風が吹き抜ける石畳の大通りを歩きながら、ヘルガの切れ長の深緑色――フォレストグリーンの瞳が、ふっと狩人のような冷徹な光を帯びた。
「ロルフ次長と、ノルデン商工連合の腹黒いタヌキども。……私たちの第七窓口を潰そうなんて企む不届き者には、法規の裏側にある『大人のやり方』をたっぷり教えてあげなくちゃ」
庁舎街を抜け、活気あふれる下町を横断して辻馬車に揺られること三十分あまり。
スコグハイム市街地の北西、清らかな渓流と黄金色に色づいた白樺の原生林に抱かれた渓谷の奥に、その目的地は佇んでいた。
北方の豊かな地熱が湧出する、知る人ぞ知る老舗の湯治宿――『翠渓亭』。
苔むした自然石の階段を上り、重厚な松材の扉を開けると、焚き染められた白檀の香木と、大地の恵みである硫黄の香りが心地よく鼻腔をくすぐった。
「あら、いらっしゃいませ。ヘルガ様、お待ち申し上げておりましたよ」
出迎えたのは、清潔な亜麻の給仕服に前掛けを締めた熟練の接客係、キルスティであった。
「ええ、ごきげんようキルスティ。二泊三日、心身の洗濯のための湯治よ。渓流沿いの静かな離れ、空いているかしら?」
「もちろんでございます! 一番奥の『白樺の間』をご用意しておりますよ。長旅でお冷えになったでしょう、すぐにお湯へ召されますか?」
「そうね。まずはお役所の埃と、中間管理職の愚痴で汚れた耳を、極上のお湯で綺麗さっぱり洗い流したいわ」
ヘルガは艶やかに微笑み、長外套と革鞄を預けると、木漏れ日が揺れる渡り廊下を通って離れの客室へと案内された。
客室の奥扉から直接出られる、渓谷に張り出した専用の露天岩風呂。
天然の岩肌をくり抜いた浴槽には、乳白色がかった源泉が惜しげもなく掛け流され、立ち上る真っ白な湯煙の向こうに、燃えるような紅葉と渓流のせせらぎが広がっていた。
ヘルガは薄手の湯浴み着を脱ぎ捨てると、豊かな赤褐色の髪を琥珀のかんざしで無造作にまとめ上げ、滑らかな石段から湯船へと足を踏み入れた。
「……んんぅ……っ」
とろりとした柔らかな湯が、冷えた爪先からふくらはぎ、太もも、そして引き締まった腰へとじんわりと染み渡っていく。
岩の縁に白磁のような両腕を預け、肩まで深く身を沈めると、大地の熱気が強張っていた筋肉を芯から解きほぐしていった。
「あぁぁ〜……極楽、極楽……っ」
誰に聞かれることもない空間で、思わず蕩けたような甘い吐息が漏れる。
湯面から覗くのは、華奢な鎖骨から胸元へと続く、抜けるように白い滑らかな曲線。
普段は端正な行政庁の制服とエンジ色の事務用腕カバーの下に隠されている豊満な双丘が、湯の浮力を受けてふわりと揺れ、蒸気の中でほんのりと桜色に上気していく。
「ふふ……スヴェン主任のあの泣きそうな顔を思い浮かべながら浸かる朝風呂は、どんな高級な錬金薬よりも効く美容液ねぇ。監査対応の残業続きでお肌の調子が乱れかけていたから、まさに命の洗濯だわ」
ゆらゆらと湯船に身を任せながら、ヘルガは長い睫毛を伏せた。
だが、その閉じた瞼の裏では、アストリッドに勝るとも劣らない速度で思考の算盤が弾かれていた。
――ロルフ次長が強行しようとしている、第七窓口の民間委託計画。
――下町の料理人たちを締め出し、商工連合の息がかかった業者に庁舎食堂を独占させようとする出来レース。
――そして、先週から下町の運河沿いにある『商工連合・第七物資集積倉庫』へ、夜陰に乗じて運び込まれている不審な大型荷馬車の影。
「入札の談合記録も、ロルフ次長への裏金台帳も、すべてあの倉庫の奥深くに隠されているはず……。アストリッドちゃんたちが表の審査会で正々堂々と戦っている間に、私は裏から連中の喉元を掻っ切る証拠を掴む。……それが、頼れる先輩の務めってものよね」
ヘルガは静かに目を開け、湯面に舞い落ちた一葉の紅い楓を指先ですくい上げた。
その深緑の瞳には、もはや湯浴みを愉しむ気だるげな美女の色はなく、獲物を追い詰める夜の猟犬のごとき鋭い光が宿っていた。
湯から上がった後は、客室に熟練の香油施療師を呼び、北方の鉱泥を用いた美肌泥塗りと、薫り高いラベンダーの精油による全身の揉みほぐしを心ゆくまで堪能した。
背中から腰、太ももの付け根に至るまで丹念に凝りをほぐされ、「ヘルガ様のお肌は、まるで絹のように吸い付くようでございますね」と施療師に感嘆のため息をつかせる。
申請書に『美肌維持』と書いたからには、その名目にも一切の妥協を許さないのがヘルガの流儀であった。
夕刻には、暖炉の火がパチパチと爆ぜる部屋で、渓流鱒の香草塩焼きと秋の茸のクリーム煮、そして芳醇な地物の発酵林檎酒を優雅に味わい、英気を養った。
そして――部屋に備え付けられた水時計の目盛りが、夜の十時を告げた頃。
宿全体の灯火が落とされ、渓谷が深い闇と川の音だけに呑み込まれた瞬間、ヘルガの「本当の有給休暇」が幕を開けた。
厚い窓掛けを閉め切った室内、雲間から漏れる月光だけが差し込む絨毯の上で、ヘルガは亜麻の寝間着の紐を解いた。
ハラリと床に滑り落ちる白い布地。
月明かりに浮かび上がった白く艶やかな裸身に、彼女が迷いなく袖を通したのは――漆黒の『隠密革装束』であった。
衣擦れの音すら立てないよう、闇蜘蛛の強靭な絹糸と、特殊な錬金油で鞣された黒蜥蜴の薄革を織り交ぜて仕立てられた、第二の皮膚のごとき潜入装束である。
すらりと伸びた長い脚を滑り込ませ、くびれた腰から豊かな胸元の曲線までをぴたりと吸い付くように包み込んでいく。
パチン、パチン――と、胸元から喉元まで連なる黒銀の留め具を順番に留めていくたび、小気味よい金属音が静寂に響いた。
さらに、張りのある太ももの外側に革の装具帯を固定し、使い慣れた特注の道具を手際よく収めていく。
――靴底に吸音毛皮と微弱な風魔石を縫い込んだ『消音長靴』。
――魔力を流すことで書類の筆跡から印章の魔力波長までを寸分違わず写し取る、王都直輸入の『魔導複写羊皮紙』。
――雷撃の微結晶を封じ、急所に触れさせるだけで相手の神経を痺れさせる護身用の『麻痺魔石』と、錬金術師特製の『閃光煙幕玉』。
最後に、波打つ赤褐色の髪を漆黒の絹布で隙間なく束ね上げ、その上から夜霧に紛れる灰黒色の外套を羽織った。
姿見の中に立っていたのは、昼間の笑顔を振りまく受付嬢ではなく、闇そのものへと溶け込む一人の夜行者であった。
「よし。……有給休暇中の自主活動で残業手当は一銅貨も出ないんだから、夜明け前にはきっちり仕事を終えて寝床に戻らなくちゃね」
木枠の窓の掛け金を音もなく外し、ヘルガは一羽の夜梟のように、闇夜の渓谷へと身を躍らせた。
スコグハイム下町の運河沿い。
昼間は木材や穀物を運ぶ荷舟で賑わう船着き場だが、深夜ともなれば人通りは完全に途絶え、淀んだ水面に青白い月明かりが揺れるだけの不気味な水路と化す。
その最奥に黒々とそびえ立つのが、ノルデン商工連合が所有する頑強な石造りの『第七物資集積倉庫』であった。
運河を挟んだ対岸、今は使われなくなった古い石造りの水門監視塔の屋根の上に、ヘルガは猫のように身を低くして潜んでいた。
真鍮製の単眼望遠鏡を片目に当て、霧の向こうの倉庫周囲を冷徹に見下ろす。
「……外の巡回に立つ雇われ傭兵は八人。全員が肉厚の広刃剣と、殺傷力の高い鋼鉄製の機械弓を携行しているわね。……見回りの交代周期は、きっちり水時計三メモリ(四十分)ごと、と」
ただの穀物や日用雑貨の保管倉庫にしては、あまりにも物々しすぎる警備体制であった。
さらに、ヘルガの鋭い観察眼は、倉庫の正面搬入口の石畳に刻まれた異様な痕跡を見逃さなかった。
「御影石の敷石が削れるほど深く沈み込んだ荷馬車の轍……。ただの食料や木材を積んだ重さじゃないわ。鉛の箱で厳重に遮蔽された高密度の魔導鉱物……まさか、本庁の保管庫から『再鑑定』の名目で運び出された特級魔石が、あの中に眠っているのかしら」
帳簿の数字の矛盾だけでなく、現場の泥と石畳に刻まれた物理的な証拠から真実を嗅ぎ取る。
それは、猟師の娘として森の獣の足跡を追って育ち、長年にわたって海千山千の冒険者たちの虚偽申告を見抜き続けてきたヘルガならではの嗅覚であった。
「正面と裏口の扉は二重の鉄格子。でも、運河に面した北側の荷揚げ用高窓なら、見張りの視線が途切れる死角が三分間だけ生まれる。……あそこなら、私の鉤縄で音もなく滑り込めるわね」
傭兵たちの配置、交代時の死角、そして万が一の際に水路へ逃れるための退路。
第一夜の目的である「事前偵察」は、これ以上ないほど完璧に完了した。
今夜は決して深入りしない。下調べを欠いた無謀な突入は、素人のやることだからだ。
「明日の夜――王都への密輸荷馬車が出発する前に、金庫の奥の秘密をすべて頂戴してあげるわ」
ヘルガは艶やかな唇に不敵な笑みを浮かべると、灰黒色の外套を夜風に翻し、川霧の立ち込める闇の中へと音もなく溶け込んでいった。
午前二時半。
『翠渓亭』の裏木戸から、枯れ葉一枚すら鳴らさずに離れの客室へと帰還したヘルガは、冷たい夜気を纏った革装束を脱ぎ捨て、再び柔らかな亜麻の寝間着へと着替えた。
冷えた指先と身体を温めるため、湯気の立つ内湯にさっと身を沈めて汗を流し、ふかふかの羽毛寝台へと滑り込む。
「んぅ……おやすみなさい、アストリッドちゃん、スヴェン主任。……明日の公開試食会、あなたたちの勝利を信じているわよ」
枕元の水時計を見やりながら、ヘルガは満足そうに目を閉じ、深く心地よい眠りへと落ちていった。
極上の湯治と、夜霧の潜入。
ヘルガ先輩の優雅なる有給休暇は、まだ始まったばかりであった。
(第二夜へ続く)




