第二十四話:そして帳簿は綴じられ、定時が訪れる(後編)
慰霊碑の除幕式から一週間が過ぎ、スコグハイム行政庁は新たな年度の幕開けを迎えていた。
春の訪れとともに、庁舎の地下食堂は連日、足の踏み場もないほどの大盛況を記録していた。
「へい、お待ちッ! 春野菜と大猪の特製味噌煮込み定食、一丁あがりッ!」
厨房の奥で、腕まくりをしたハルヴァルが巨大な鉄鍋を豪快に煽り、香ばしい湯気と歓声を立ち上らせている。
そして、食堂のカウンター前で、母の形見のエプロンを翻してキビキビと立ち回っていたのは、若女将のヒルダであった。
「はいっ、冒険者ギルドのダンさんですね! 定食に薬草サラダ追加で、合計銀貨一枚と銅貨五枚になります! ……あ、ダンさん、先週のツケの銅貨八枚、今日が期日ですよ?」
「うげっ!? ひ、ヒルダちゃん、よく覚えてたな……!」
「当たり前です! はい、ツケ台帳はこちら! 合わせて銀貨一枚と銅貨十三枚のお支払いです! 毎度ありっ!」
パチパチパチッ――と、腰に提げた小さな木製算盤の珠が、心地よい軽快な音を響かせる。
その見事な手並みと愛らしい笑顔に、荒くれ冒険者たちもタジタジとなりながら、苦笑いして小銭を支払っていく。
「すげえな、ヒルダの嬢ちゃん……。まだ十四だってのに、あのアストリッドの堅物娘に負けず劣らずの敏腕帳簿係じゃねえか」
カウンター席で山盛りの肉を平らげていたビョルンが、髭を揺らして感心したように唸った。
隣の席では、魔石査定員のイーヴァルが黒眼鏡を押し上げながら、珍しく満足そうにパイを口に運んでいる。
「ふん……。原価計算から歩留まりの管理、果ては常連の売掛金の回収率に至るまで、極めて正確だ。曖昧な感情に流されず、数字の整合性を重んじるその姿勢は、我が査定課に引き抜きたいほどだな」
「だめですよイーヴァルさん、ヒルダちゃんをスカウトしないでください!」
トレイを持って隣のテーブルに座ったアストリッドが、慌てて口を挟んだ。
ヘルガもクスクスと笑いながらハーブティーのカップを傾ける。
「ほんと、大した若女将っぷりね。ハルヴァルさんの料理の腕と、ビルギッタさんの気風の良さ、それにアストリッド直伝の頑固な算術が合体しちゃったんだから、もう誰にも騙されない最強の飲食店よ」
「えへへ、アストリッドさん、ヘルガ主任!」
注文の合間を縫って、ヒルダがトコトコと駆け寄ってきた。
「お味はどうですか? お母さんの味付け、ちゃんと再現できてますか?」
「ええ、とっても美味しいわ。大根に味がしっかり染みていて、身体の芯から元気が湧いてくる」
アストリッドが微笑むと、ヒルダはパッと顔を輝かせた。
「よかったぁ! 午後からの窓口業務も頑張ってくださいね! 今日はお二人とも、早く帰れそうなんですか?」
その無邪気な問いに、アストリッドは胸を張り、眩しいばかりの笑顔を浮かべた。
「ええ、もちろんです! 今日は新年度の初日。冬の決算も、大侵攻に伴う緊急支出の精算も、すべて完璧に処理し終えました! 今日の窓口は新規の相談受付のみで、書類の山もありません。……私、今日こそは配属以来初めての【定時退社】を達成してみせます!」
「まあ、大きく出たわね」
ヘルガが面白そうに眉を上げる。
「いいですかヘルガ先輩、公務員の基本は計画的な業務遂行と、過度な超過勤務の撲滅です! 五時の鐘が鳴った瞬間、私は一分の狂いもなく退庁簿にサインして、商店街の春の焼き菓子フェアへ直行する予定なのです!」
「はいはい、無事に帰れるといいわねぇ」
――そして、午後四時五十五分。
地方都市スコグハイム行政庁、魔獣対策課第七窓口。
カウンターの上には、書類一枚すら残されていなかった。
本日の来庁者記録、新規狩猟登録の手続き、少額報酬の交付――そのすべてが完璧に検印され、整理棚の定められたフォルダーへと美しく収納されている。
帳簿の最終行に記された本日出納合計と、金庫の中の硬貨の枚数は、一銅貨の端数に至るまで完全に一致していた。
カチ、コチ、カチ、コチ――。
壁に掛けられた古時計の針が、静かに、確実に時を刻んでいる。
アストリッドは机の引き出しをカチャリと施錠し、羽ペンをスタンドに戻した。
すでに手提げ鞄には私物がきれいに収められ、羽織る外套も椅子の背もたれに用意されている。
(……完璧。何という完璧なスケジュール管理でしょう……!)
アストリッドは心の中で歓喜の拳を握りしめた。
あと三分。
あと三分で、スコグハイムの大聖堂から夕方五時を告げる鐘の音が鳴り響く。
そうすれば、悪夢の魔獣大侵攻も、過酷を極めた徹夜の監査も乗り越え、ついに待ちに待った平和な日常――定時退社が現実のものとなるのだ。
隣の席では、ヘルガが退屈そうに爪を磨きながら、チラリと壁時計を見上げた。
「あと二分ね。アストリッド、本当に帰れそうじゃない」
「ふふん、言ったでしょう! 数字と時間を支配する者こそが、優秀な実務官なのです!」
アストリッドは誇らしげに胸を張り、退庁簿の上に羽ペンを構えた。
チク、タク、チク、タク――。
長針が十二の文字に重なる。
ゴオオオオオオン――……。
窓の外から、夕暮れの空を染め上げる大聖堂の鐘の音が、厳かに鳴り響いた。
「五時です! 定時です! お疲れ様でし――」
バッシャアアアアアンッッッ!!!!
突如として、魔獣対策課の分厚いオーク材のドアが、吹き飛ぶような勢いで跳ね上がった。
「ぎゃああああああっ!? た、大変だぁぁぁぁぁっっ!!」
血相を変えて飛び込んできたのは、胃薬草の瓶を胸に抱きしめ、ネクタイを首の横まで曲げたスヴェン課長であった。
その両腕には、大人の背丈ほどもある、今にも崩れそうな分厚い羊皮紙の書類の山が抱えられていた。
ドサアアアアアンッッッ!!!
凄まじい地響きとともに、整然と片付いていたアストリッドのカウンターの上に、巨大な書類の塔が崩落した。
アストリッドの構えていた羽ペンが、ピキリと音を立てて止まった。
「……か、課長?」
アストリッドの引きつった笑顔から、サーッと血の気が引いていく。
「な、何ですか……この、山のような紙の塊は……?」
「あ、アストリッド君! ヘルガ主任! 助けてくれぇぇぇ……!」
スヴェン課長は机にすがりつき、涙と鼻水を流しながら絶叫した。
「新年度の! 本庁肝入りの新政策! 『全域有害鳥獣駆除・農村自衛助成金新制度』の申請受付が今日の午前中に締め切られたんだが! 本庁の審査窓口の書記官たちが初日早々に処理能力を完全にオーバーして大混乱に陥ってしまってねぇぇぇっ!!」
「は……? 本庁が処理しきれずに大混乱……?」
「近郊三十八の開拓村から一斉に届いた三千件を超える助成金申請書を前に本庁が白旗を揚げて、『大侵攻の兵站を完璧に精算した実績のある魔獣対策課で緊急代行処理しろ』って現物の書類を全部丸投げで押し付けてきたんだよぉぉぉっ! これ、全件の手書き領収書と駆除部位証明書を突き合わせて、明日朝一番の領主府決裁に間に合わせないと、全村への交付金がストップして春の種まきが全滅してしまうんだよぉぉぉっ!!」
「……」
静寂が訪れた。
窓の外からは、長閑な夕暮れの鐘の音が、遠く優しく響いている。
アストリッドは、ゆっくりと視線を落とした。
目の前に聳え立つ書類の山。
ざっと見積もっても、三千枚。
領収書の端数計算、村ごとの傾斜配分、不正請求の二重チェック――。
アストリッドは震える声で、最後の救いを求めるように尋ねた。
「……課長。これ、明日じゃ……駄目なんですか?」
「駄目に決まってるよぉぉぉぉっ!! 明日の朝一番で領主府に持っていかないと、私の首が物理的に飛ぶんだよぉぉぉ……っ!! 頼む、二人とも! 残業代は特別枠で満額出すから! 今夜だけは私を見捨てないでくれぇぇぇっ!!」
スヴェン課長は床に膝をつき、完璧な五体投地で懇願した。
「ぷっ……あははははははっ!」
張り詰めた空気を破ったのは、ヘルガの腹を抱えた爆笑であった。
「あーっはっはっは! さすがねアストリッド、やっぱりあんたの定時退社は幻だったわ! よし、私がお茶淹れてあげる! 濃いやつね!」
「ヘ、ヘルガ先輩……っ!」
アストリッドは天井を仰ぎ、魂が口から抜け出そうなほど深く、長いため息を吐き出した。
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
焼き菓子フェアの甘い香りが、急速に彼方へと遠ざかっていく。
定時退社の夢は、脆くも春風とともに散り去った。
だが――。
アストリッドは机の上に散らばった申請書の一枚を、スッと手に取った。
そこには、不器用な炭の文字で、開拓民の切実な願いと、村を守るための日々の記録が愚直なまでに細かく記されていた。
――数字を合わせる。
現場で汗を流し、泥にまみれて生きる人々のために、一銅貨の狂いもなく帳尻を合わせる。
それが、公務員として、受付嬢として、自分が選んだ誇りある仕事なのだ。
スッ、とアストリッドの背筋が伸びた。
彼女は退庁簿をそっと引き出しの奥へと仕舞い直し、鞄から黒い事務用腕カバーを取り出して、キュッ、と両腕にはめ直した。
そして、愛用の木製算盤をカウンターの中央へとカチリと引き寄せる。
「……課長」
「は、はいぃっ!?」
涙目のスヴェン課長が顔を上げた。
アストリッドはニヤリと、不敵で、最高に頼もしい笑みを浮かべた。
「夕食は、地下の『跳ね大猪亭』から特製大猪肉の濃厚煮込みと、極太ハーブソーセージの特盛りプレートを出前で取ってください。もちろん、全額課長の奢りです!」
「も、もちろん喜んで奢らせていただくともぉぉっ!!」
「よし! ――望むところです。計算を、始めます!!」
パチパチパチパチパチパチッ――!!
夕暮れの執務室に、心地よい算盤の連打音が、賑やかな歓声とともに力強く鳴り響いた。
帳簿が閉じられ、真の平穏が訪れるその日まで――新人受付嬢の戦いは、これからも終わらない。
(第一部 完)
そして翌朝。
「おはようございまーすッ!! 本日付で魔獣対策課第七窓口に配属されました、新人のフリーダ・ホルムです! 一生懸命頑張りますので、ご指導よろしくお願いしますッ!!」
勢いよくドアを開け放ち、朝の光とともに飛び込んできたのは、ピンと背筋を伸ばして満面の笑顔を輝かせる、健康的な小麦色の肌をした小柄な少女であった。
「わあ、元気のいい子が来てくれたわねぇ」
お茶をすすりながら目を細めるヘルガ。
そして、昨夜の三千枚の申請書処理で徹夜明け、目の下に薄っすらと隈を作りながらも、愛用の木製算盤を両手で抱え直したアストリッドが、ふっと誇らしげに微笑みかけた。
「……いらっしゃい、フリーダさん。歓迎します」
一年前、何も分からずにこの窓口のカウンターに座った日の自分を思い出しながら、アストリッドは胸を張って先輩としての第一歩を踏み出した。
「魔物を倒すのは冒険者。でも、その命の対価を正しく支えるのが、私たち受付嬢の仕事です。……さあ、腕カバーをはめて! 計算を、始めましょう!」
(第二部へ続く)




