第二十四話:そして帳簿は綴じられ、定時が訪れる(前編)
厳冬の吹き荒れた北方の空に、やわらかな陽光が差し込み始めていた。
雪解けの雫が屋根の軒先からリズミカルに滴り落ち、石畳を濡らしている。
未曾有の魔獣大侵攻から二ヶ月。
北方大森林からの脅威を退けた地方都市スコグハイムは、春の息吹とともに、力強い復興の活気を取り戻しつつあった。
破壊された北門の外壁は頑丈に修復され、商人や旅人の往来が再び活発に行き交う。
そして、新緑が芽吹き始めた都市の中央広場には、ひとつの巨大な白亜の石碑が建立されようとしていた。
都市を防衛するために命を賭して戦い、散っていった者たちを永遠に讃えるための――『防衛英雄慰霊碑』である。
だが、その建立を数日後に控えた行政庁の第二会議室では、極めて険悪な空気が漂っていた。
「認められん、断じて認められんぞ!」
机をバンと叩いて気炎を上げているのは、本庁から監査と復興総括のために送り込まれてきた総務企画部の初老の参事官であった。
「慰霊碑に刻む名は、『スコグハイム市公認・殉職防衛功労者顕彰規程』において、厳格に定義されておる! 対象となるのは『正規軍兵士、治安警備隊員、および公認の戦闘冒険者』に限られるのだ! 民間の一酒場の女将の名を、歴戦の英霊たちと同じ碑に刻むなど、前代未聞の規則違反! 行政の前例主義にも反する!」
参事官の怒声に、同席していた部下の事務官たちも一斉に頷く。
会議室の長テーブルの反対側には、魔獣対策課の面々が座っていた。
中間管理職のスヴェン主任は、早くも胃薬草の小瓶を握りしめながら、額に油汗を浮かべてオロオロと視線を彷徨わせている。
「そ、それは参事官のおっしゃる通り、規程の字面だけを見ればそうなのですが……しかし、あの炊き出しがなければ前線が崩壊していたのは紛れもない事実でして……うう、胃が……」
「情実で行政規程を曲げることなど許されん! そんな前例を作れば、今後は配給を手伝った町人や物資を運んだ御者まで全員の名前を刻めと収拾がつかなくなるわ!」
参事官が勝ち誇ったように鼻を鳴らした、その時であった。
「――いいえ、それは重大な論理のすり替えです、参事官」
凛とした、澄み切った声が会議室の冷気を切り裂いた。
立ち上がったのは、黒い事務用腕カバーを両腕にきっちりとはめた新人書記官――アストリッド・リンドベリであった。
彼女の瞳には微塵の揺らぎもなく、その手には分厚く綴じられた一冊の監査報告書が握られていた。
「な、何だと……? 新人の分際で、参事官たる私に意見する気か!」
「役職の上下は関係ありません。行政職員が従うべきは、客観的事実と正当な法規のみです」
アストリッドは一切ひるまず、抱えていた報告書を長テーブルの中央へトンと置いた。
「参事官がお引き合いに出された『スコグハイム市公認・殉職防衛功労者顕彰規程』第九条『特別功労者の事後顕彰』をご覧ください。そこには明確に『直接の戦闘行為に従事せずとも、防衛線の維持に不可欠なる極めて重大な貢献をなし、その任務遂行中に殉職せる者については、特別防衛功労者として合刻することができる』と定められています」
「ぐっ……そ、それは防衛砦の工作兵などを想定した条文であって、ただの飯炊き女将など――」
「『ただの飯炊き』などではありません!」
アストリッドの声が一段と熱を帯びた。
「参事官、こちらの『出納集計および前線兵站分析表』の第三項をお目通しください。大侵攻の極限状況下において、商工連合の契約不履行により全配給が停止した際、ビルギッタ女将が供給した食事は延べ三千二百食に達します。氷点下十度を下回る暴風雪の中、彼女が前線へ送り届け続けた大猪の濃厚スープがもたらした熱量、体温維持効果、および士気の回復率は、定量的分析において正規重装盾兵一個大隊の増援に匹敵する防衛価値を有していました!」
アストリッドは指先で表の数値を鋭く弾いた。
「さらに、『王国包括防衛法 兵站後方支援評価基準令』第二十一条において『兵站の破綻は戦線の破綻と同義であり、極限状況下における食糧補給は防衛戦闘そのものとみなす』と明確に定義されています。兵站なくして都市の防衛は一秒たりとも成立し得ませんでした。ビルギッタ女将が振るい続けたあの大鍋こそが、スコグハイムの最後の防壁だったのです!」
「な、何を馬鹿な……! 数字をいくらこねくり回そうと、彼女は武器を持って魔獣を倒したわけではないのだぞ!」
参事官が顔を真っ赤にして反論しようとした瞬間――会議室の扉が静かに開いた。
「――その通りだな。彼女は剣ではなく、お玉を持って街を救ったのだ」
部屋に入ってきたのは、純白の官吏外套を纏った男――王都財務監察総局の特命査察官エリクソンであった。
その背後には、大剣を背負った歴戦の冒険者ビョルンと、重装盾兵を束ねる女戦士シグリッドが威圧感を放ちながら控えている。
「エ、エリクソン査察官……!?」
参事官の顔から血の気が引いた。商工連合の不正横領を暴き、王都の権限で幹部たちを一網打尽にした冷徹な監察官の登場に、場の空気が凍りつく。
エリクソンは冷徹な眼差しで参事官を見据え、懐から王室の紋章が刻まれた革張りの決裁文書を取り出した。
「参事官。君の形式主義的な規則解釈は、王都財務監察総局の公式見解とは真っ向から対立する。書記官アストリッド・リンドベリの提出した兵站分析調書は、王都においても『戦時補給における模範的事例』として極めて高く評価されている」
「お、王都が……!?」
「ああ。前線で命を張った兵士や冒険者たちからも、同様の嘆願書が連名で届いている」
ビョルンが太い腕を組み、参事官をギロリと睨みつけた。
「おい役人。俺たち冒険者はな、あのスープが腹に入ったからこそ、大鬼の棍棒を弾き返せたんだ。女将さんの名前が刻まれねえ慰霊碑なんぞ、俺たち戦士の誰一人として拝む気はねえぞ」
シグリッドも冷ややかに告げる。
「我が『鉄壁』三十名も同意見です。兵站を軽視する軍規など、敗北の恥辱でしかありません」
「ひ、ひいっ……!」
参事官は椅子の上で小さくなり、震える手で汗を拭った。
エリクソンはアストリッドの書類の上に、王都監察総局の承認印をドスンと押した。
「異論はあるまいな、参事官。これより、ビルギッタ殿の特例合刻を本庁名義で正式に決裁する」
「は、はひぃっ……! 異存ございませんッ!」
参事官が慌てて頭を下げ、会議室にいた全員が胸を撫で下ろした。
アストリッドは小さく息を吐き、隣で安堵のあまり机に突っ伏して「胃が破裂せずに済んだぁ……」と呟くスヴェン主任に、そっと胃薬草のカップを手渡すのだった。
数日後――清らかな晴天に恵まれた陽光の日の午後。
復興を祝う鐘の音が街中に響き渡る中、中央広場にて『防衛英雄慰霊碑』の除幕式が厳かに執り行われた。
黒い幕が静かに引き落とされると、春の陽光を浴びて、磨き上げられた白亜の石碑が眩い光を放った。
そこには、スコグハイムを守るために命を捧げた、名誉ある騎士や戦士たちの名前が整然と刻まれていた。
そして――その錚々たる歴戦の勇士たちの並びの、一番最後の行に。
金色の文字で、誇らしく刻まれた名があった。
【跳ね大猪亭女将 ビルギッタ】
集まった大勢の市民や冒険者たちから、静かで、温かな拍手が沸き起こった。
碑の最前列には、仕立て直した黒い上着を着た巨漢の料理長ハルヴァルと、その隣に立つ十四歳の少女ヒルダの姿があった。
ヒルダは、母の形見となった真っ白な清潔なエプロンをきつく腰に結び、胸元には小さな木製算盤を大事そうに抱きしめていた。
少女は一歩前へ進み出ると、小さな手のひらで、碑に刻まれた母の文字をそっと撫でた。
冷たい石の感触の奥から、あの日、大吹雪の中で誰よりも温かかった母の体温が蘇るようだった。
「……お母さん」
ヒルダの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、石畳を濡らした。
だが、その泣き顔はすぐに、誇らしげな笑顔へと変わっていった。
「見てる、お母さん? お母さんの名前、すっごく立派に刻まれてるよ。……ビョルンのおじちゃんたちも、街のみんなも、お母さんのスープを忘れないって言ってくれたよ」
ハルヴァルが太い手でヒルダの肩を抱き寄せ、涙を拭った。
「ああ……ビルギッタ、お前は本当に、この街の英雄だ」
ヒルダはぐっと涙を拭うと、振り返り、少し離れた場所で見守っていたアストリッドとヘルガに向かって、深々と頭を下げた。
そして、胸の算盤をぎゅっと握りしめ、力強く宣言した。
「アストリッドさん、ヘルガさん! 私、絶対にお母さんのお店を守ります! お父さんの料理を支えて、美味しいご飯と正しい帳簿で、みんなを笑顔にしてみせます!」
その清々しい立ち姿は、もはや庇護されるだけの子供ではなかった。
母の誇りと味、そして数字の重みを引き継いだ、立派な『跳ね大猪亭』の若女将そのものであった。
「……うん。立派よ、ヒルダちゃん」
アストリッドは目元を潤ませながら、優しく微笑み返した。
(後編に続く)




