第二十三話:最後の討伐報酬、全額精算(後編)
「ビルギッタァァッッ!!」
飛び込んできた店主ハルヴァルが、妻の冷たくなった身体をその太い腕で抱きしめ、床に膝をついて慟哭した。
「バカ野郎……! なんの冗談だ、おい! 起きろよビルギッタ! 街は守ったんだぞ! これから『跳ね大猪亭』を、二人でまたやるんじゃなかったのかよぉぉッ!!」
巨漢の料理長が、子供のように声を上げて泣き崩れる。
アストリッドは解毒薬の小瓶を両手に握りしめたまま、厨房の入り口で呆然と立ち尽くしていた。
「そんな……!」
唇を震わせ、崩れ落ちそうになるアストリッドの肩を、ヘルガが抱きとめた。ヘルガの瞳からも、静かに涙が溢れ落ちていた。
「……約束、だったのよ」
ヘルガが掠れた声で囁いた。
「ビルギッタさんは、最初から全部わかってたの。……ハルヴァルさんやヒルダちゃんを動揺させたくないって。最後まで、この店の女将でいたいって……」
「……え?」
アストリッドの身体が凍りついた。
解毒薬のガラス瓶を握りしめたまま、信じられないものを見る目で先輩を見つめる。
「約束……? ヘルガ先輩、まさか……知っていたんですか? 女将さんが毒に侵されていたのを……最初から!?」
「アストリッド、あれは――」
「どうして……どうして言ってくださらなかったんですかッ!?」
アストリッドの声が裏返り、怒りと絶望が爆発した。
「知っていたなら、無理にでも救護所に連れて行くべきだった! 解毒薬を奪還した直後、真っ先にここに走るべきだった! 公務員が……命の危機を知りながら隠蔽に加担するなんて……! そんなの、美談でも何でもありません! ただの規則違反です! 職務怠慢ですッ!!」
生真面目すぎるがゆえの、激しい糾弾。
だがその目からは、怒りとともに大粒の涙がとめどなく溢れていた。
ヘルガは言い返さなかった。ただ唇を真一文字に結び、握りしめた拳を震わせながら、アストリッドの鋭い言葉をすべて正面から受け止めた。
「……そうね。あんたの言う通りよ。……私は、公務員失格ね」
震える声でそう呟いたヘルガの横顔に、アストリッドは息を呑んだが、振り上げた拳を下ろす術を知らなかった。
二人の間に、冷たく刺すような沈黙が落ちた。
その夜。
激戦の熱狂が冷め、深い雪の静寂がスコグハイムを包み込む中、地方行政庁の第七窓口には、パチパチと薪ストーブの爆ぜる音だけが響いていた。
カウンターの前には、血と泥にまみれ、満身創痍となった冒険者たちが静かに列をなしていた。
ビョルンも、シグリッドも、警備兵たちも、誰もが一言も発しない。
厨房で何が起きたのかは、街の全員が知っていた。
彼らの手には、討伐した魔獣の耳や牙、そして冷たく輝く魔石が握りしめられていた。
だが――窓口の内側に満ちていたのは、ただの悲哀ではなかった。
息が詰まるほどの、険悪で張り詰めた冷気。
スヴェン主任は二人の異様な空気に気圧され、青白い顔で胃薬草を握りしめながら、口を挟むことすらできずにいた。
「……計算を、始めます」
アストリッドは、腫らした瞳に冷たい炎を宿し、黒い事務用腕カバーをきゅっと引き締めた。
隣のヘルガを一瞥もしない。
ヘルガもまた、何も言わずに伝票の束を揃えた。
パチパチパチパチッ――!!
冷え切った執務室に、鋭く、激しい木製算盤の珠の音が響き渡り始めた。
怒りと、悲しみと、やり場のない悔しさを叩きつけるような打鍵音。
一頭ごとの討伐部位の検分。
破損した大盾や武器の損耗補償額。
シグリッド率いる『鉄壁』部隊に対する、事後追認特例による公金報酬の算定。
列の中には、大鬼の足を両断して最前線を支え抜いたエーリックの姿もあった。血と煤にまみれた長剣を背負い、綺麗に洗浄された魔獣の部位を提出した彼に、アストリッドが「……エーリックさん、ご無事で」と静かに告げると、男は無言のまま、胸の真鍮鑑札と服の内ポケット――亡き家族の形見がある場所へそっと手を当て、深々と頭を下げた。
その後ろには、市街地で裏通りの防衛と市民誘導を完遂した『暁の銀狼』の三人が並んでいた。煤まみれになったマイヤが、几帳面に日付と勘定科目を揃えた小鬼五頭の討伐申請書と、ヨナスが撃ち尽くした矢の損耗領収書を震える手で差し出す。「市民の皆様は……全員、無事に避難させました」と胸を張るルーカスに、アストリッドは「よく、街の命を守り抜いてくれました。全額、適正に執行いたします」と、僅かに瞳を潤ませて算盤の珠を弾いた。
アストリッドとヘルガ。互いに言葉は一言も交わさない。
だが、ヘルガが差し出す伝票の一切に不備はなく、アストリッドが弾く算盤の珠に僅かな迷いもなかった。
険悪な空気を漂わせながらも、皮肉なほど完璧に噛み合う二人の書記官の連携。
そして――。
アストリッドの前に、最後の一枚の白い伝票が無言で置かれた。
置いたのはヘルガだった。その指先が、わずかに震えていた。
案件名:『北方防衛戦における緊急兵站炊き出し実費補償』。
エルフダール村で仕入れた極上カブの仕入れ値、大猪の燻製肉のキロ単価、乾燥ハーブの調達費、大鍋三杯を沸かし続けた薪の代金、出汁の仕込みにかかった人件費――。
パチッ、パチパチッ!!
アストリッドの指先が、感情を押し殺して激しく動く。
書類の上に涙が落ちそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
「……一銅貨の誤差も、出しません」
アストリッドは心の中で、祈るように、誓うように珠を弾いた。
「一銅貨の狂いもあってはならないのです。この数字のすべてが……女将さんが命を削り、魂を込めてこの街を救った、動かぬ証拠なのですから……!」
徹夜の計算作業が続いた。
スヴェン主任も、痛む胃を押さえながら、真剣な眼差しで書類の一行一行に承認印を捺し続けた。
誰一人として、定時など気にしていなかった。
やがて――東の地平線から、冷たい冬の朝焼けの光が、窓口のカウンターを白銀に照らし出した。
パチッ!!
最後の一珠が弾かれ、アストリッドは大きく息を吐いた。
手元には、寸分の狂いもなく計算が一致した、完璧な決算調書。
総支出額、金貨四百八十枚と銀貨二十二枚。
商工連合から没収した契約保証金と差し押さえ金により、行政の財政には一銅貨の赤字も生じていなかった。
アストリッドは立ち上がり、分厚い革袋を両手でしっかりと抱え込んだ。
地下の食堂へ降りると、厨房の真ん中で、ハルヴァルとヒルダが寄り添うように座っていた。
ビルギッタの亡骸は、純白のシーツに包まれ、静かに横たえられていた。
「ハルヴァルさん。ヒルダちゃん」
アストリッドは二人の前に進み出て、深々と頭を下げた。
そして、重みのある革袋と、公印の捺された一枚の正規支払伝票を、ハルヴァルの大きな手のひらの上へ、両手で包み込むように手渡した。
「……第七窓口より、昨日の都市防衛における『全額精算金』をお支払いいたします」
ハルヴァルが震える手で伝票を見つめた。
そこには、仕入れ値から調味料の端数に至るまで、ビルギッタが振るった鍋の価値が、神聖なまでの正確さで記されていた。
「受領してください」
アストリッドは真っ直ぐに、二人を見つめた。
「ビルギッタさんのご飯が、この街を救いました。……本当に、ありがとうございました」
「う……、うおおおお……っ!!」
ハルヴァルはその伝票を胸に抱きしめ、再び男泣きに泣いた。
そして、母の形見となった真っ白な前掛けを胸にきつく抱きしめていたヒルダが、ゆっくりと顔を上げた。
泣き腫らした目元には、しかし、母によく似た力強い光が宿っていた。
少女はエプロンのポケットから、アストリッドとお揃いの小さな木製算盤を取り出し、小さな指で涙を拭った。
「……アストリッドさん」
「ヒルダちゃん……」
「私、お母さんの味も……このお店の帳簿も、絶対に守るから。……お父さんを支えて、立派に若女将になってみせるからね」
十四歳の少女の手のひらの中で、小さな算盤の珠がキラリと輝いた。
その健気で揺るぎない覚悟を前にして、アストリッドは息を呑んだ。
――ビルギッタが、己の命を引き換えにしてまで守り通したかったもの。
それは、家族の笑顔であり、この店の灯火であり、娘へ引き継ぐ誇りそのものだった。
もしあの時、無理やりにでも女将を行政の規則で縛り、病院へ担ぎ込んでいたらどうなっていただろうか。
女将はきっと、大鍋を放り出したことを一生悔やみ、自分を責めながら逝ったのではないか。
そして、そのすべてを呑み込み、あえて女将の最期の我が儘を背負ったヘルガの痛みが、アストリッドの胸に鋭く突き刺さった。
地下食堂を後にし、長い石造りの階段を上りきった薄暗い廊下。
窓から差し込む朝の陽光が、雪に反射して白銀の影を落としていた。
前を歩くヘルガの背中に向かって、アストリッドは足を止めた。
「……ヘルガ先輩」
ヘルガが立ち止まり、静かに振り返った。
アストリッドは、深々と腰を折り、頭を下げた。
「……さっきは、取り乱して……酷いことを申し上げました。本当に、申し訳ありませんでした」
絞り出すような声に、廊下の冷気が震えた。
「私……規則や法規ばかりを盾にして、ビルギッタさんの命がけの誇りも……それを一人で背負われたヘルガ先輩の辛さも、何一つ見えていませんでした。公務員失格なのは……私の方です」
頭を下げたまま震える後輩の頭上から、ふっと、長い吐息が降ってきた。
ポン、と軽い衝撃がアストリッドの肩に置かれた。
「顔を上げなさい、堅物新人」
アストリッドがおずおずと顔を上げると、そこにはいつもの、少し意地悪で、けれど泣き腫らした目をした先輩の笑みがあった。
「いいのよ。あんたが規則通りに怒ってくれたから、私は救われたの」
「え……?」
「もし誰も怒ってくれなかったら、私、自分がとんでもない人殺しをしたんじゃないかって、ずっと一人で怖かった。……あんたの正論に殴られて、やっと息ができたわ。あんたは間違ってない。正しい受付嬢よ」
ヘルガはそう言って、アストリッドの肩をぽんと叩いた。
「さあ、戻るわよ。主任が今ごろ、胃を押さえながら次の山積みの書類の前で気絶しかけてるはずだから」
「……はい!」
アストリッドは涙をぐっと拭い、先輩の背中を追って力強く歩き出した。
(第二十四話へ続く)




