第二十三話:最後の討伐報酬、全額精算(前編)
ヒョオオオオ――ッ!! グオオオオオオッ!!
北門防壁の上に、断末魔の地響きが轟き渡った。
猛烈な雪煙を切り裂き、低く地を這うように疾走した細身の影――研ぎ澄まされた一振りの長剣が、大鬼の極太の右脚の腱を、寸分の狂いもなく深々と両断した!
「ギャオオオッ!?」
巨躯のバランスが崩れ、漆黒の大鬼が石畳に膝を突く。
「シグリッド! 大鬼の脚を崩したぞ!」
刃こぼれひとつない長剣を翻し、退路を塞いだ男の胸元には、ピカピカに磨かれた真新しい真鍮鑑札が輝いていた。
「でかした、エーリックッ!!」
ビョルンが咆哮し、シグリッドが鋭く号令を下した。
「全隊、盾列前進! 右の大鬼を壁際へ追い込めッ!」
シグリッドの鋭い号令とともに、三十枚の鋼鉄大盾が一斉に唸りを上げて前進した。
二頭の漆黒の二本角大鬼は、重装盾壁の完璧な連携に退路を断たれ、もがき狂う。
そこへ、ビョルンが巨大な戦斧を天高く振りかざし、渾身の力とともに跳躍した。
「これで……終わりだァッ!!」
ズパアアアアッッ!!
稲妻のような一撃が、二本角大鬼の眉間を両断した。
ドッシャアアアンッ!! と二頭の巨躯が雪原へと崩れ落ち、二度と動かなくなった。
残された魔狼や大猪の群れも、首領の死と鉄壁の反撃に恐れをなし、吹雪の吹きすさぶ北方大森林の闇の中へと蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
「……勝った……?」
「退いたぞ……! 魔獣どもが逃げていくぞッ!!」
誰かが掠れた声で叫んだ。
次の瞬間、防壁のあちこちから、地鳴りのような歓喜の雄叫びが爆発した。
「うおおおおおおおおッッ!! 護ったぞォォォッ!!」
傷だらけの冒険者たちと警備兵たちが、互いに血と雪にまみれた肩を抱き合い、涙を流して勝ち鬨を上げた。
「ビョルンさん! シグリッド様!」
そこへ、息を切らして防壁を駆け上がってきたのは、アストリッドとヘルガであった。
二人の腕には、南門の裏通りで商工連合から奪還したばかりの、青く澄んだ光を放つ木箱が抱えられていた。
「解毒薬です! 公定高純度解毒ポーション三十本、すべて無事に取り戻しました! 衛生班、至急怪我人へ投与を!」
「おお……っ! 解毒薬が戻ったのか!」
衛生兵たちが駆け寄り、魔狼の腐食毒に侵されていた若い兵士たちの傷口へ、次々と霊薬を振りかけていく。黒ずんでいた傷口からシューッと浄化の白い煙が立ち上り、青ざめていた戦士たちの顔に安堵の生気が戻っていった。
「助かったぜ、アストリッドの嬢ちゃん……! テメエらの算盤のおかげで、街の命も繋がった!」
ビョルンが笑い、シグリッドも大盾を下ろして息を吐いた。
「見事な仕事だ、書記官。我が『鉄壁』も、全員生き残ったぞ」
「はい……! 皆さん、本当にありがとうございました!」
アストリッドは胸を撫で下ろし、涙を拭った。
――その頃、防壁直下の炊き出し場。
二メートル四方の大鍋三杯分――何百人分もの熱々の大猪スープは、最後の一滴まで戦士たちや避難民の木椀へ注ぎ尽くされ、鍋底には何一つ残っていなかった。
「はい、これで大鍋はすっかり空っぽだよ! みんないっぱい食べたね!」
「女将さん、ごちそうさま! 身体の芯まで温まったよ!」
空になった木椀を掲げて笑い合う市民や冒険者たちを見届け、ビルギッタはお玉を鍋の縁にコトンと置いた。
「やったな、ビルギッタ! 仕込み分、全部綺麗に完売だ!」
巨漢のハルヴァルが額の汗を拭い、満面の笑みで妻の肩をポンと叩いた。
「お母さん、すごいよ! みんな『跳ね大猪亭のスープが世界一だ』って言ってた!」
十四歳のヒルダも、誇らしげにおさげ髪を揺らして飛び跳ねた。
「……ああ、やりきったよ。本当に、全部出し切った……」
ビルギッタはふうと安堵の息を吐き、額に滲んだ冷や汗をそっと拭った。
唇の血色は失せ、紅の下の肌は青ざめていたが、その瞳はどこまでも満ち足りていた。
ふと見上げると、地上の広場で勝ち鬨を上げる冒険者たちが、ハルヴァルとヒルダを手招きして呼んでいた。
「ハルヴァル、ヒルダ。外でみんなが呼んでるよ。勝利のお祝いさ。……よく戦ったねって、みんなをねぎらってきておいで」
「え? お母さんは一緒に行かないの?」
ヒルダが不思議そうに首を傾げた。
「ああ、ちょっと大鍋を振るいすぎて腰にきちゃってね。少しだけ座って休ませておくれ。すぐに戻るから、お前たちは先に行って、みんなに笑顔で温かい声をかけてあげるんだよ」
「そうか! じゃあ、顔を出したらすぐ戻るからな! 無理するなよ、ビルギッタ!」
「うん! お母さん、すぐ戻るからね!」
ハルヴァルとヒルダが、笑顔で広場へと駆け出していった。
ビルギッタは、最愛の夫と娘の背中を、愛おしそうに、誇らしげに、最高に優しい笑顔で見送った。
そして――女将は一人、静かに地下の食堂へと降りていった。
地上の歓声が遠ざかり、温かな出汁の香りが漂う薄暗い厨房。
片隅に置かれた、いつもの丸い木製椅子に、ビルギッタは深く、深く腰掛けた。
「…………っ」
前掛けの胸元を整え、壊死の毒が広がる脇腹にそっと手を触れる。
だが、その顔にはもう苦痛の色は微塵もなかった。
ただ、やり遂げた者だけが知る、至上の安らぎ。
(……ハルヴァル、ヒルダ。いい夫と、いい娘を持ったよ。……あたしの人生は、本当に最高だったね)
薄暗い厨房の中、ビルギッタは満足そうに微笑みながら、眠るように静かに目を閉じた。
――その直後。
防壁の上で負傷兵への手当てを終えたヘルガが、ハッと何かに気づいたように炊き出し場へ視線を走らせた。
「……ビルギッタさんは……?」
空っぽの大鍋の前に女将の姿がない。
「女将さんなら、さっき『大鍋は空っぽだよ、全部配り切ったよ』って笑って、地下の食堂へ戻っていかれたよ」
手伝いをしていた避難民の農夫が答えた。
「……っ!」
ヘルガの顔から、すっと血の気が引いた。
「アストリッド、解毒薬を持ってきて! 急いで地下食堂へ!!」
「えっ……!? ヘルガ先輩!?」
地下の庁舎職員食堂の厨房は、シンと静まり返っていた。
立ち込める出汁の温かな残り香。
薄暗い厨房の片隅、丸い木製椅子に深く腰掛けたビルギッタ。
そこへ、外で冒険者たちに声をかけ終え、一番に厨房へ駆け戻ってきたヒルダが、小首を傾げて駆け寄った。
「もう……お母さんったら、こんなところで居眠りしちゃって。外のみんな、お母さんのスープが世界一美味かったって、大喜びしてたよ!」
ヒルダは棚から手近なウールの毛布を取り出し、愛おしそうに広げた。
「風邪引いちゃうよ、お母さん」
そう言って、微笑みながら母の丸まった背中へ、そっと毛布をかけてあげた。
――その、瞬間であった。
毛布を押さえたヒルダの手のひらに伝わってきたのは、氷のように冷たく、固く冷え切った、異様な感触であった。
「……え?」
ヒルダの喉から、小さな疑問の声が漏れた。
「お母さん……? 身体が……すごく、冷たいよ……?」
返事はなかった。が、毛布の隙間から左腕が滑り落ち、揺れた。
ヒルダは震える手で、椅子の前へと回り込んだ。
ビルギッタは、穏やかな、満ち足りた微笑みを口元に浮かべたまま、静かに目を閉じていた。
「お母さん……? ねえ、起きてよ……。お母さん……っ!」
ヒルダが母の手を握りしめた。
いつも大きな鍋を力強く振るい、熱々の料理を手渡してくれた母の分厚い手のひらは、すっかり冷え切り、ぴくりとも動かなかった。
ふと、白前掛けの合わせ目の下――右の脇腹に巻かれていた布が、真っ黒に染まっているのが目に入った。
布をめくると、そこには、恐ろしい鉛色に変色し、完全に壊死した爪牙のかすり傷があった。
エルフダール村からの荷馬車で、子供たちを身を挺して庇ったあの一瞬。
痛みを隠し、誰にも悟らせず、家族と街の士気を支えるために、笑顔のまま大鍋を振り続けた母の、命の証。
「うそ……うそでしょ……? お母さん……っ!?」
ヒルダの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「お母さんッ!! 目を開けてよぉッ!! お母さんッ! お母ざぁんッッ!!」
静寂に包まれていた地下厨房に、少女の引き裂かれるような悲痛な絶叫が木霊した。
(後編に続く)




