第二十一話:緊急随意契約を発動せよ(後編)
北門直下の広場には、吹き荒れる白銀の地吹雪を真っ赤に染め上げるような、巨大な篝火が焚かれていた。
ゴオオオオ――ッと猛烈な薪の燃える音とともに、二メートル四方もある特注の大型鉄鍋が三つ、濛々たる白い湯気を噴き上げている。
「ほらハルヴァル、火力を落とすんじゃないよ! 雪が鍋に入ったら味が薄まっちまう、蓋をしっかり押さえなさい!」
「おうよ! 薪ならいくらでもあるぞ!」
「ヒルダ! お塩とお水、それから乾燥ハーブの分量は覚えたね? 味見をして、ほんの少し塩気を強めにするんだよ! 血を流して汗をかいた戦士たちには、濃いめの塩分が一番の薬なんだからね!」
「うん! 覚えたよ、お母さん!」
厨房用の長い白前掛けをきりりと締め、十四歳の看板娘ヒルダが、大きな木匙を小さな手でしっかりと握りしめて大鍋の縁に立っていた。
その隣で、両手でお玉を器用に操り、豪快にスープをかき混ぜているのは、女将ビルギッタであった。
大鍋の熱気で紅潮したその顔には、満面の笑顔が浮かんでいる。
「さあ、第一陣が防壁から降りてきたよ! 笑顔で渡すんだよ、ヒルダ! あたしたちが暗い顔をしてちゃ、料理の味まで不味くなっちまうからね!」
「いらっしゃい! 熱いスープ、いっぱい食べてね!」
階段を駆け下りてきた負傷した若い冒険者たちへ、ヒルダが湯気の立つ木椀を手渡していく。
「う、うめえ……! 体が、指先まで温まる……!」
「女将さん、おかわりはあるかい!?」
「当たり前だよ! 大猪の骨から抽出した極上の出汁だ、骨の髄まで吸い尽くしな!」
ビルギッタの快活な声が響き渡り、極限の寒風の中で凍え切っていた戦士たちの目に、みるみるうちに闘志の炎が蘇っていく。
だが――。
「……ビルギッタさん」
物資の搬送指示を終えて炊き出し場へ戻ってきたヘルガが、大鍋の陰で調味料の樽を補充しようとしていた女将の元へ、足音を忍ばせて近づいた。
「おや、ヘルガさん。窓口のお仕事は一段落かい? あんたも一杯飲んでいきな、冷え切っちまってるだろう」
ビルギッタが木椀を差し出そうとした――その瞬間。
ピクッ、と女将の左腕が激しく痙攣した。
木椀を取り落としそうになったのを、ヘルガが素早く下から支えた。
「……っ!」
ビルギッタの額から、大粒の脂汗がボロボロとこぼれ落ちていた。
湯気の熱気のせいではない。
前掛けの胸元から覗く首筋には、青黒い血管の筋が蜘蛛の巣のように浮き上がり、唇は白く乾ききって小刻みに震えている。
頬の血色は、ただ紅を濃く引いて誤魔化しているだけに過ぎなかった。
「……ビルギッタさん。見せてください」
ヘルガが低く、しかし有無を言わせぬ真剣な声で囁いた。
「な、何言ってるんだい、ヘルガさん。あたしはピンピンして……」
「嘘をつかないで。さっき、ハルヴァルさんとヒルダちゃんが薪を取りに行ったとき、あなたが前掛けの下の脇腹を強く押さえて、息を詰まらせていたのを見ました」
「…………」
「あの大猪の荷馬車で、子供たちを庇ったときですね? 魔狼の爪を……受けたのでしょう?」
ヘルガの鋭い視線に、ビルギッタはふっと力を抜き、苦笑いを浮かべた。
「……敵わないねえ。さすがは敏腕の受付嬢さんだ」
ビルギッタは誰にも見えないよう、背を向けて前掛けと防寒着の合わせ目をわずかにめくった。
それを見たヘルガは、息を呑んで絶句した。
脇腹の傷口は、手ぬぐいで固く縛り上げられているものの、その周囲の皮膚は完全に黒変し、壊死が急速に広がっていた。
傷口から立ち上る、かすかな腐敗の冷気。
「……腐食性屍毒……! なぜ、すぐに言わなかったのですか!? いま手元にある解熱薬草だけでも、傷口を洗えば少しは……!」
「言ったところで、どうなるんだい」
ビルギッタは静かに衣服を整え、穏やかな、だが岩のように揺るぎない目でヘルガを見つめ返した。
「解毒薬がないのは、さっきアストリッドちゃんたちが話してるのを聞いて知ってるよ。……あたしの傷に効くような上等な薬は、この街にはもう残っちゃいないんだろう?」
「それは……」
「だったら、誰にも言っちゃいけないのさ」
女将は優しく、ヘルガの冷えた手を両手で包み込んだ。
「ハルヴァルに言ってみな。あの人は心優しい巨漢だ。あたしが死に瀕してるなんて知ったら、半狂乱になって料理どころじゃなくなる。ヒルダだって、まだ十四の子供だ。泣き崩れて、大鍋の前から動けなくなっちまうよ」
「ビルギッタさん……」
「街のみんなだってそうさ。『跳ね大猪亭』の女将が倒れたら、この大吹雪の中で誰がみんなの腹を満たすんだい? みんなの心を支えるんだい? ……あたしはね、あの子たちの前では、最後まで頼れる母親でいたいんだ。この街のみんなの前では、胸を張って美味い飯を食わせる女将でいたいんだよ」
女将の瞳には、死の恐怖など微塵もなかった。
ただひたすらに、家族への深い愛と、三十年間この街で鍋を振るい続けてきた職人の誇りだけが、燦然と輝いていた。
「頼むよ、ヘルガさん。あの子たちには、内緒にしておくれ。……あたしに、最後までこの店の女将をやらせておくれよ」
「…………っ」
ヘルガは唇を強く噛みしめ、溢れそうになる涙を必死に堪えて、深く、深く頷いた。
「……わかりました。約束します。……その代わり、無理だと感じたら、すぐに私に言ってくださいね」
「ああ、ありがとうよ、ヘルガさん」
ビルギッタはいつもの満面の笑みを浮かべ、再び大鍋のお玉を力強く握り直した。
その時であった。
ズズウウウウウ――ッ!! ドガアアアアンッ!!
これまでとは比較にならない凄まじい地響きが、スコグハイムの北門全体を揺るがした。
「ぎゃあああっ!!」
「第二防衛柵が吹き飛んだぞッ!!」
猛烈な吹雪のカーテンを突き破って現れたのは、通常の魔狼や大猪を遥かに凌駕する巨躯――体長四メートルを超える、漆黒の剛毛に覆われた二頭の大鬼であった。
その額の左右からは、猛牛のように湾曲した凶悪な二本の漆黒角が突き出ている。
大鬼が手にした丸太の棍棒が振り下ろされるたび、防壁の石組みが砕け散り、冒険者たちが吹き飛ばされる。
「ひ、二本角……!? 嘘だろ、あいつは……」
「二本角大鬼……ッ! 北方大森林の最深部にしか棲まねえはずの、古の災厄だ!!」
ベテラン冒険者のひとりが、恐怖で声を上擦らせて叫んだ。
「くそッ! 大侵攻の本隊の親玉のお出ましだ!」
ビョルンが大盾を構えて大鬼の足元へ突進するが、凄まじい質量の一撃に弾き飛ばされ、雪原をゴロゴロと転がった。
「ビョルンさんッ!!」
防壁の階段を駆け上がってきたアストリッドが叫んだ。
手には、スヴェン主任の公印が捺された正規の契約書。
「ビョルンさん、契約は締結されました! 皆さんは今この瞬間から、スコグハイム市街防衛の全権を委ねられた正規特命部隊です! 公金は全額、第七窓口が保証します! どうか、この街をお守りください!」
雪煙の中から跳ね起きたビョルンが、口元の血を乱暴に手甲で拭い、野獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「ハッ……! 待たせやがって、お役所仕事がよォッ!!」
ビョルンは巨大な戦斧を高々と掲げ、防壁の上に倒れ伏していた冒険者たちに向かって怒号を轟かせた。
「聞いたか野郎どもッ!! 役所の小娘と胃痛の主任が、自らの首を賭けて俺たちの背中を押してくれたぞ! 下では女将さんとヒルダが、命がけで熱い飯を炊いて待っててくれてる! ここで退いたら、男が廃るってもんだろうがッ!!」
「うおおおおおおおおッッ!!」
傷だらけの冒険者たちが、雄叫びを上げて立ち上がった。
大鍋の熱いスープと、正当な報酬の約束。
腹を満たし、誇りを取り戻したスコグハイムの戦士たちが、漆黒の大鬼めがけて怒涛の反撃を開始した!




