第二十話:民営化ギルドの契約不履行(後編)
その時であった。
「おい、開けろ! 商工連合の精鋭部隊の帰還だぞ!」
傲慢な怒声とともに、北門の内門が乱暴に押し開けられた。
現れたのは、豪奢な毛皮マントと銀色の甲冑に身を包んだ一団――商工連合が誇る最高ランク防衛クラン『黒曜石の誓約』の隊長バルトロと、その配下の傭兵たちであった。
彼らの甲冑には泥一つ、返り血一つ付着していない。
吹雪の最前線から、何一つ戦うことなく城壁の安全圏へと引き揚げてきたのだ。
「バルトロ殿! なぜ前線を離脱したのですか!?」
駆けつけたスヴェン主任が、珍しく声を荒らげて問い詰めた。
「街道にはまだ取り残された市民がいたのですよ! あなた方は金貨五百枚もの公金を受け取って、北方街道の完全防衛を請け負ったはずだ!」
「ふん、役人風情が生意気な口を利くな」
バルトロは鼻でせせら笑い、腰の長剣の柄に手を置いた。
「我々が結んだ契約書をよく読みたまえよ、スヴェン主任。第十八条特記事項第三項――『予見不可能な異常天候、または当初想定を著しく超える魔獣の異常活性化が生じた場合、不可抗力として防衛義務は免責される』と明記されているはずだ」
「免責……だと!?」
「外の雪嵐を見ろ! 視界は零、しかも襲来した魔獣は想定の三倍、百頭を超える大群だ! こんな悪天候の中で犬死になどできるか。我々は契約に基づき、正当な権利として安全な防壁内へ後退したまでだ。文句があるなら、包括協定を結んだ本庁の上層部に言ってもらおうか」
そこへ、中央本庁から派遣された暫定着任の監理参事官が、オロオロと揉み手をしながら割って入った。
「ま、まあまあ、バルトロ殿のおっしゃる通りですな……。契約書に免責条項がある以上、民間事業者に過度な犠牲を強いることは法的に不可能です。ここは一度、第二防壁まで戦線を後退させ――」
「――お待ちください!!」
凛とした、氷をも切り裂くような鋭い声が響き渡った。
パチパチパチッ!!
小気味よい木製の弾音とともに進み出たのは、新米書記官のアストリッド・リンドベリであった。
黒い事務用腕カバーをピンと正し、手にした分厚い契約書の束を高く掲げている。
「な、なんだね君は! 平の受付嬢が、幹部の防衛協議に口を挟むな!」
参事官が顔を真っ赤にして怒鳴りつけたが、アストリッドは眉一つ動かさず、愛用の木製算盤の珠をピシッと構えた。
「地方公金管理規則第十四条に基づき、公金の適正執行および契約管理の担当者として発言いたします! バルトロ殿、ならびに参事官様。その『免責条項の主張』は、法規および契約理論上、明白な誤謬であり絶対に成立いたしません!」
「な、何だと……!?」
バルトロが目を剥いた。
アストリッドは間髪を容れず、契約書の条文を冷徹に読み上げた。
「第一に! 契約書第十八条特記事項第三項に謳われる『不可抗力免責』は、受託者が【王国地方自治法第百七条に定める善管注意義務】を最大限に尽くし、合理的な防除措置を講じたにもかかわらず損害を回避できなかった場合にのみ適用される例外規定です!」
パチッ! と算盤の珠が一筋跳ねる。
「第二に! 貴方方が今朝提出した『北方防衛実施計画書』の積算根拠をご覧ください! そこには『特殊耐寒装備および防雪魔導結界の配備費用』として、通常単価の二・五倍に及ぶ【金貨百五十枚】の割増経費が明確に計上されております!」
「ぐっ……そ、それは……!」
「自ら『猛吹雪にも十全に対応できる』として莫大な特殊防備予算を請求し、公金を受領しておきながら、いざ吹雪が吹けば『吹雪は不可抗力だから戦えない』などという論理が通用するはずがありません! これは【自己の確約と矛盾する主張の禁止原則(禁反言の法理)】に真っ向から抵触いたします!」
パチパチパチッ!! と弾かれた算盤の音が、静まり返った広場に雷鳴のように鳴り響く。
「そして第三に! 避難民の誘導路を閉鎖し、無防備な市民を魔獣の牙に晒して自らのみ防壁内へ退避した行為は、包括契約の根幹である【公共防衛目的の完全な放棄】――すなわち、王国地方包括契約法第四十二条に規定される『重大な背任を伴う完全な債務不履行』に該当いたします!」
「ば、馬鹿な……! 小娘が、知った風な口を……!」
バルトロの顔から急速に血の気が引いていく。
アストリッドは一歩も引かず、書類をバルトロの目の前に突きつけた。
「さらに申し上げます! 貴方方が前線防衛用として独占・搬出した『公定高純度解毒薬』および『備蓄防衛資材』の即時返還を命じます! 履行されない場合、直ちに契約保証金【金貨百枚】を全額没収し、商工連合の全クランを行政取引停止処分および損害賠償請求の対象として告発いたします!」
「う、うぐぐ……っ!」
完全に退路を塞がれたバルトロは、ギリギリと歯噛みし、忌々しそうに吐き捨てた。
「ええい、知るか! 所詮は平の小娘の戯言だ! 誰が解毒薬など返すか! 俺たちなしで、誰が外の魔獣を食い止めるというのだ! 貴様ら役人だけで指をくわえて滅びるがいい!」
バルトロたちは唾を吐き捨て、解毒薬を抱え込んだまま砦の奥へと引き揚げていってしまった。
「あ、あいつら……! なんて奴らだ!」
ビョルンが憤激して剣の柄を握りしめた。
民営化防衛の完全な破綻。公金を貪り、危機が訪れれば市民を見捨てて逃亡する民間資本の醜悪な現実が、白日の下に晒された瞬間であった。
その時――ゴオオオオオオオッ!! と、都市の外壁を揺るがす地響きが轟いた。
「ほ、報告ッ! 北方街道から南下した魔獣の本隊――大鬼二頭を含む魔獣群が、第一防衛柵を突破! 外壁北門へ殺到しています!」
見張りの警備兵が血相を変えて叫んだ。
「ひ、ひぃぃ……! もう終わりだ! 防衛クランが戦わないのに、どうやって防ぐというのだ!」
中央から来た参事官が頭を抱えて逃げ惑う。
警備隊の若い兵士たちも、絶望に色を失い、武器を持つ手を震わせていた。
街全体が、暗澹たる恐怖に押し潰されようとした――その時。
ふわ……と。
凍てつく暴風を押し返すように、信じられないほど香ばしく温かな湯気が、広場の空気を包み込んだ。
ガラン! ガラン! と、大鍋のお玉を打ち鳴らす快活な音が響く。
「――全員、しゃんとしなさいッ!!」
割れ鐘のような怒声が、広場の隅々まで轟いた。
湯気の中を進み出てきたのは、荷台から運び出された巨大な鉄鍋を囲む『跳ね大猪亭』の面々であった。
清潔な白前掛けをきりりと締め、両手で見事にお玉を構えた女将ビルギッタ。
その隣で、巨大な薪を即席の炉にくべ、真っ赤な炎を立ち上らせる巨漢のハルヴァル。
そして、誇らしげに木椀を並べる十四歳のヒルダ。
「逃げ出す腰抜けの傭兵なんざ、ハナから当てにしちゃいないよ!」
ビルギッタは大鍋の湯気で顔を紅潮させ、脇腹を苛む激痛など微塵も感じさせない満面の笑みで叫んだ。
「このスコグハイムにはね、この街の飯を食って、この街で育った本物の冒険者たちがいるじゃないか! ほら、ビョルン! 若い衆! 突っ立ってないで、この熱々のスープを胃袋に流し込みな!」
ハルヴァルが豪快に注いだ深鉢には、黄金色に透き通ったスープに、柔らかく煮込まれたカブと大猪の燻製肉がゴロゴロと踊っていた。
香草の清涼な香りと、肉の濃厚な旨味が、冷気で麻痺した鼻腔を強烈に刺激する。
「女将……!」
ビョルンが深鉢を受け取り、熱々のスープを一気に煽った。
「――ッ、うめえ……! 五臓六腑に染み渡りやがる……!」
「当たり前だよ、あたしが命がけで仕入れてきたカブだからね! 一杯食ったら、体の芯から炎が燃え上がってくるはずさ!」
次々とスープを受け取った地元の冒険者たち、そして警備兵たちの青白かった頬に、急速にカッと血の気が戻っていく。
「そうだ……俺たちには女将のスープがある!」
「この街は、俺たちの故郷だ! 逃げ出した腰抜けどもに代わって、俺たちが守るぞ!」
底知れぬ歓声と士気が、猛吹雪の広場に爆発した。
ビョルンが巨大な戦斧を担ぎ上げ、窓口の面々を振り返った。
「役所の嬢ちゃん! スヴェン主任! あいつらの契約が破綻したんなら――俺たち地元部隊を雇う金はあるのかい!?」
アストリッドは胸の前で木製算盤をぎゅっと抱きしめ、涙を拭って力強く頷いた。
「はい! 皆さんの命と武器の対価、そしてこの炊き出しの全費用――第七窓口が、一銅貨の狂いもなく全額保証いたします!」
「よし、交渉成立だ! 野郎ども、外壁へ出るぞ! 女将の鍋を、この街を、絶対に踏みにじらせるなァッ!!」
「「「おおおおおッッ!!」」」
地鳴りのような咆哮を上げ、冒険者たちが北門の防壁へと駆け上がっていく。
雪嵐の中、街の命運を賭けた本当の防衛戦が、いま幕を開けようとしていた。
(第二十一話へ続く)




