第二十話:民営化ギルドの契約不履行(前編)
ヒョオオオオ――ッ!! ゴオオオオ――ッ!!
猛烈な地吹雪が、スコグハイム地方行政庁の重厚な石造りの外壁を激しく揺るがしていた。
第七窓口――『魔獣害対策課・討伐管理窓口』の執務室には、給湯室から響き渡った陶器の割れる甲高い音が、冷たい余韻を残して漂っていた。
「お、女将さんが……エルフダール村からの避難馬車で……!?」
十四歳の看板娘ヒルダが、床に散らばったカップの破片の前にへたり込み、青ざめた唇を小刻みに震わせている。
「ヒルダちゃん、破片が危ないわ! 立って!」
先輩受付嬢のヘルガが素早く駆け寄り、震える少女の肩をしっかりと抱き寄せた。
「アストリッド君! ど、どうするんだね!? エルフダール村からの街道といえば、まさに北方防衛線の直下じゃないか! 商工連合の専属クラン『黒曜石の誓約』と『銀狼の牙』に、金貨五百枚もの緊急防衛予算を投じて包括委託したばかりだというのに……!」
スヴェン主任が頭を抱え、懐から取り出した干し胃薬草を丸ごと口に放り込んで脂汗を流した。
「……動揺している場合ではありません」
冷え切った執務室の中、アストリッド・リンドベリは愛用の木製算盤を両手でぎゅっと抱きしめ、鋭い光をたたえた瞳で顔を上げた。
「ビョルンさん! 街道と避難馬車の状況を、客観的事実のみに絞って詳しく教えてください!」
毛皮の外套に雪をびっしりと固まらせた歴戦の冒険者ビョルンが、顎の氷柱を手甲で乱暴に拭い去りながら、低く太い声で答えた。
「おう! 北方大森林の積雪が例年より半月も早く異常結界を破りやがった。腹を空かせた魔狼と大猪の先鋒隊……ざっと百頭以上が、吹雪を隠れ蓑にして街道沿いの中継砦を急襲したんだ。だが――」
ビョルンはギリリと奥歯を噛み鳴らし、拳をカウンターに叩きつけた。
「――あの商工連合のお抱え連中、いざ魔獣の大群を視界に捉えた瞬間、戦いもしねえで砦の防壁に引きこもりやがったんだよ! 『吹雪による視界不良は契約条項の不可抗力に該当する』なんぞとほざいて、街道を取り残された避難馬車を見捨てて門を固く閉ざしやがった!」
「なっ……!?」
アストリッドの背筋に、氷水を流し込まれたような激しい憤りが走った。
「前線防衛の一括委託契約を結んでおきながら、市民の避難路すら確保せずに門を閉ざしたのですか!? それは防衛でも何でもありません、単なる敵前逃亡です!」
「そうだ! おかげで、村から逃げてきた数台の避難馬車が、吹雪の街道のど真ん中で立ち往生しちまった! ……その先頭にいたのが、買い出しに出ていたビルギッタの女将さんの荷馬車だ!」
「お母さん……っ!」
ヒルダがヘルガの胸の中で悲鳴のような声を上げた。
「ビョルンさん、避難民の安否は!?」
「俺たち地元の冒険者仲間と、北門の警備隊の有志が現場へ急行した! 馬車を取り囲んでいた魔狼を何とか追い散らし、いま避難民たちを荷馬車ごと北門の中へ収容したところだ!」
「お母さんは……!? 女将さんは無事なんですか!?」
「ああ! 荷馬車に飛び込んできた魔狼を、女将さんが手近にあった鉄鍋で思い切りぶん殴って追い払ったらしい! 今のところ市民には犠牲は出ていない!」
「本当ですか……! よかった……!」
ヒルダがへたり込みそうになりながら、安堵の涙をこぼした。
「い、急ぎましょう! 北門の広場へ!」
アストリッドは黒い事務用腕カバーをはめた手で書類挟みと救急手当台帳をひっつかみ、猛吹雪の吹き荒れる屋外へと駆け出した。
スコグハイムの北門広場は、まさに戦場のような混沌に包まれていた。
ヒョオオオオ――ッと吹き荒れる雪煙の向こうに、車輪を凍りつかせ、幌を魔獣の鋭い爪で無残に引き裂かれた荷馬車が並んでいた。
凍え切った開拓民の老人や子供たちが、警備兵から配られた毛布にくるまり、ガタガタと震えている。
「お母さん! お母さんッ!!」
雪を蹴立てて走り込んできたヒルダが、先頭の馬車の荷台へ取りすがった。
「……おや、ヒルダかい。そんなに慌てて走るんじゃないよ、転んじまうだろう」
荷台の木箱からひょいと降り立ち、快活な笑顔で両手を広げたのは、『跳ね大猪亭』の女将ビルギッタであった。
厚手の防寒コートに身を包んだその姿には、血痕もなければ破れも見当たらず、普段と何一つ変わらない元気な姿であった。
「お母さんッ! よかった……本当によかったよぉ……!」
泣きじゃくりながら胸に飛び込む娘を、ビルギッタはふくよかな腕でしっかりと抱きしめ、ポンポンと背中を叩いた。
「泣くんじゃないよ。あたしが魔狼の一匹や二匹に遅れを取るかい。ほら、涙を拭きな」
そこへ、同乗していたエルフダール村の農夫が、孫の手を引いて涙ながらに駆け寄ってきた。
「女将さん……本当に、本当にありがとうございました! 馬車の幌を破って飛び込んできた魔狼が、うちの孫に飛びかかろうとした瞬間、女将さんが咄嗟に孫を抱き込んで庇ってくれて……! 身代わりになって鉄鍋で追い払ってくださらなかったら、この子は……! 女将さん、お怪我はありませんでしたか!?」
「ハハハ! お前さん、あたしの頑丈な肉付きを舐めるんじゃないよ! かすり傷ひとつありゃしないさ、ピンピンしてるよ!」
ビルギッタは豪快に笑い飛ばし、胸をドンと叩いてみせた。
「ビルギッタさん、本当にお怪我はありませんか? 少しでも痛みがあるなら、すぐに救護班に……」
アストリッドが心配そうに尋ねるが、ビルギッタはカラカラと笑って首を横に振った。
「平気平気! ちょっと雪の街道で冷えただけさ。それよりアストリッドちゃん、救護班ならあっちの子供たちや兵隊さんを診てやっておくれ。怪我人が大勢いるようだ」
広場の一角では、避難の途中で魔獣の追撃を受けた村人や警備兵たちが倒れ込み、衛生兵たちが必死の手当てを行っていた。
だが――駆け寄ってきた衛生兵が、アストリッドとスヴェン主任に向かって悲鳴のような声を上げた。
「アストリッド書記官! 手当て用の解毒薬が、まったく足りません! 庁舎の備蓄高純度ポーションは、今朝の防衛会議の取り決めに基づき、商工連合の専属防衛クランへ『優先前線配備物資』として全量引き渡されてしまったんです! いま手元にあるのは、微弱な解熱薬草しか……!」
「なんですって……!?」
アストリッドの瞳に怒りの炎が宿った。
「前線で戦いもせず門を閉ざした傭兵たちにすべての医療物資を独占させ、実際に傷つき逃げてきた市民や警備兵のための救護薬が一つもないというのですか!?」
「いいんだよ、アストリッドちゃん。怒っても薬は湧いてこないさ」
ビルギッタが静かに割って入り、凍え切った村民たち、そして雪塗れになって武器を構える地元の若い警備兵たちを見据えた。
「見なよ。外は一寸先も見えない猛吹雪だ。みんな、寒さと恐怖で歯の根も合わないほど震えてる。……人間ってのはね、腹が冷え切っちまうと、心まで凍りついて戦う気力も生きる気力も失くしちまうのさ」
「ビルギッタ……! 無事だったのか!」
白前掛けの上に外套を羽織った大柄な店主ハルヴァルが、息を切らして駆け込んできた。妻の無傷な姿を見るなり、胸を撫で下ろして泣きそうな顔になる。
「ごちゃごちゃ言うんじゃないよ、あんた! 買い出しの荷馬車には、エルフダール村で仕入れてきた極上のカブと干し肉が満載だ! ちょうどいい! ここ北門広場に仮設厨房を開けようじゃないか! 大鍋を三つ並べて湯を沸かすんだ! 避難してきた人たちと、これから防壁に立つ冒険者たちに、腹の底から温まる極上の大猪スープを腹いっぱい食わせてやるよ!」
「お、おう! そうだな! よし、すぐに火を熾すぞ!」
ハルヴァルとヒルダが、荷馬車から食材の木箱を運び出すために走り出した。
避難民や警備兵たちも「飯が……、スープが食えるのか……!」と、絶望の色を浮かべていた瞳に希望の光を宿し、慌ただしく動き始める。
誰もが安堵し、希望に満ちて背を向けた――その、わずかな一瞬であった。
ビルギッタは荷台の陰へ静かに回り込むと、厚手の防寒コートの裾をめくり、左手でそっと自分の右脇腹を押さえた。
「…………っ」
声にならない激痛に、女将の顔からすっと血の気が引いた。
指先を差し入れると、下着の布地を通して、ぬるりと湿った感触が伝わってきた。
孫を覆いかぶさるように庇ったその刹那、飛び込んできた魔狼の鋭利な爪牙が、防寒着の合わせ目を突き破り、脇腹を浅く裂いていたのだ。
傷口そのものは、一見すれば単なるかすり傷に過ぎない。
だが――傷口の周囲はすでに不吉な鉛色に変色し、北方森林の飢餓魔狼特有の【腐食性屍毒】が、確実に肉の奥深くまで浸透し始めていた。
ズキリ、ズキリと、冷たい刃をねじ込まれるような激痛が神経を苛む。
だが、ビルギッタは奥歯をきつく噛み締め、手近な布を傷口に強く押し当て、きつく布を巻き付け、防寒着のボタンをきっちりと留め直した。
(……誰にも、悟らせちゃいけないよ)
女将は荒くなる呼吸を懸命に整え、額に滲んだ冷や汗を乱暴に拭った。
(いまあたしが倒れたり、弱音を吐いてみせな。ヒルダもハルヴァルも、ただでさえ凍え切ってる街の人たちも、みんな心の糸が切れちまう。……冷え切った戦場に必要なのは、いつものあたしの笑顔と、熱い飯さ)
ビルギッタはふっと一度だけ息を吐き出すと、何事もなかったかのように背筋をピンと伸ばし、大鍋が待つ北門広場の仮設厨房へと堂々たる足取りで歩き出した。
(後編に続く)




