第十九話:雪嵐と魔獣大進行の予兆(後編)
「全職員、講堂へ緊急招集! 直ちに都市防衛対策本部を設置する!」
庁舎内に響き渡る怒号と、慌ただしく駆け交わす靴音。
行政庁の二階大講堂には、警備隊、土木工務課、兵站補給課、そして第七窓口の職員たちが一同に集められていた。
壇上に立っていたのは、ロルフ次長の失脚に伴い、王都の中央本庁から急遽送り込まれてきた男――暫定監理参事官のバルテルであった。
豪奢な毛皮付きの官吏外套を羽織り、神経質そうに口髭を撫でるバルテルは、青ざめた顔で書類を振るった。
「静粛に! 事態は一刻を争う! 北方大森林からの魔獣大侵攻に対し、本庁舎の防衛マニュアルに基づき、直ちに『緊急防衛対策費』の執行を決定した!」
アストリッドは息を呑み、壇上の動きを凝視した。
緊急防衛対策費――それは、都市に破滅的な危機が迫った際、通常の手続きを省略して執行される巨額の特別公金予算である。
「防衛総予算は、【国家緊急予備金】より金貨五百枚を配分する! ……そして、この未曾有の危機に際し、都市外壁および北方街道の防衛業務を一手に引き受けてくれる心強い専門家を招聘した!」
バルテル参事官が芝居がかった手振りで講堂の扉を指し示す。
重々しい足音とともに講堂に入ってきたのは、豪奢な漆黒の甲冑に身を包んだ戦士たちと、銀色の毛皮を羽織った冷徹な目つきの傭兵たちであった。
その先頭を歩く、恰幅のいい商人風の男――ノルデン商工連合の渉外筆頭幹事の姿を見て、ヘルガが低く呟いた。
「……ノルデン商工連合の息がかかった、王都の大手傭兵クラン『黒曜石の誓約』と『銀狼の牙』よ」
「商工連合ですって……!?」
アストリッドの眉がぴくりと跳ね上がった。
ロルフ次長が逮捕されたばかりだというのに、商工連合の幹部は臆面もなく笑みを浮かべ、壇上のバルテル参事官と固い握手を交わした。
「ご紹介にあずかりました、商工連合専属防衛クラン連合です。我がクランの精鋭二〇〇名が、最新の魔導兵器と重装歩兵陣をもって、北方街道に鉄壁の防衛線を構築いたしましょう。つきましては、こちらの【包括防衛特命随意契約書】に速やかにご調印を」
恭しく差し出された金縁の契約書。
バルテル参事官は安堵の溜息をつき、「おお、素晴らしい! さすが王都に名だたる一流クランだ。これですべて解決だな」と、公印を取り出して捺印しようとした。
その時――。
「――お待ちください!!」
凛とした鋭い声が、静まり返った講堂に響き渡った。
アストリッドであった。
アストリッドは愛用の木製算盤を小脇に抱え、配付された契約書案の写しを高く掲げて壇上へと進み出た。
「な、なんだね、君は!? 第七窓口の若造が、このような重大な軍議の場で何の真似だ!」
バルテル参事官が不快そうに顔を歪めた。
「地方公金管理規則第十四条に基づき、発言の許可を求めます!」
アストリッドは怯むことなく、透徹した瞳で参事官と商工連合の幹部を射すくめた。
「参事官殿、この契約書案に調印してはなりません! この契約書には、都市の安全を根底から脅かす【致命的な欠陥】が存在します!」
「な、なにをデタラメを……!」
商工連合の幹部が眉を逆立てた。
アストリッドは愛用の木製算盤の珠を、パチリ! と弾いた。
「契約書第十八条、特記事項の第三項をご覧ください。『不可抗力および危険免責条項』です。……そこには、こう明記されています。【防衛前線において、魔獣の侵攻規模または個体強度が予測基準値を二〇%以上超過し、受託者の装備損耗または人的被害が一定限度を超えた場合、受託者は防衛義務を免れ、損害賠償責任を負うことなく、部隊を後方へ任意に後退・撤退させることができる】と!」
「……っ!?」
講堂のあちこちから、ざわめきが起こった。
「これが、何を意味するかお分かりですか!?」
アストリッドの声が、冷気配る講堂に鋭く突き刺さる。
「金貨五百枚という巨額の公金を前金で全額受け取りながら、いざ魔獣の攻勢が激しくなり、本当に都市が危険に陥ったまさにその瞬間に、彼らは合法的に前線を放棄して逃げ出すことができるのです! 公金支出の対価として求められるべき【都市防衛の完遂義務】が、この免責条項によって完全に骨抜きにされています!」
「ぐっ……そ、それは民間事業者の安全確保のための一般的な条項だ!」
商工連合の幹部が唾を飛ばして反論した。
「命を懸けて戦う傭兵たちに、無制限の玉砕を強いることなど契約上不可能だ! 適正なリスクヘッジに過ぎん!」
「リスクヘッジという名の【職務放棄の公認】です!」
アストリッドは一歩も引かなかった。
「防衛を民間に包括委託するならば、戦線維持と市民の生命財産の保護こそが契約の主たる給付でなければなりません。危険になったら逃げてもよい防衛契約など、契約と呼ぶことすらできません! 公金の無駄金遣いであるばかりか、都市を全滅の危機に晒す極めて有害な欠陥契約です!」
「アストリッド君の言う通りです!」
背後から、スヴェン主任が震える足で前に進み出て、アストリッドの隣に立った。
「主任……!」
「ば、バルテル参事官殿! 第七窓口の責任者として、この契約への公金支出承認は承服しかねます! 地元の冒険者ギルドや治安警備隊と連携し、防衛体制を再検討すべきです!」
スヴェン主任が胃を押さえながらも、必死の形相で声を張り上げた。
だが――。
「黙りなさい、第七窓口の分際で!」
バン! と机を叩いたのは、バルテル参事官であった。
「素人の現場職員が、中央本庁の防衛方針に口を挟むな! 相手は王都でも屈指の実績を持つ大手クランなのだぞ! 今さら地元の荒くれ冒険者どもを掻き集めて何ができるというのだ! 金貨五百枚の随意契約は、本庁の決裁により直ちに執行する!」
ガチャン! と朱肉が叩きつけられ、契約書に巨大な公印が押されてしまった。
「ふん、賢明なご判断ですな」
商工連合の幹部が冷笑を浮かべ、契約書を懐に収めた。
「……そんな」
アストリッドは拳を握りしめ、唇を噛んだ。
数字の正しさと論理が、事なかれ主義の官僚と利権の前に、無残にも踏みにじられた瞬間であった。
その日の午後。
講堂での決定からわずか数時間後、天候は急速に牙を剥いた。
初雪などという生易しいものではなかった。
ヒョオオオオ――ッ!! ゴオオオオ――ッ!!
猛烈な地吹雪が吹き荒れ、スコグハイムの街は一寸先も見えない白銀の地獄と化した。
凍てつく暴風が窓を激しく叩く中、第七窓口の扉が再び勢いよく開け放たれた。
飛び込んできたのは、毛皮の外套に雪をびっしりと纏った、歴戦の冒険者ビョルンであった。
「おい、アストリッドの嬢ちゃん! スヴェン主任!」
「ビョルンさん!? この雪嵐の中をどうしたのですか!?」
「大変なことになった! 北方街道の第二中継所が、飢えた魔狼と大猪の先鋒部隊に襲撃された!」
「なっ……! 商工連合の防衛クランはどうしたのですか!? 先ほど前線へ向かったはずでは……!」
「あいつら、街道の防衛拠点に閉じこもったきり、一歩も砦の外へ出ようとしねえんだよ! 『吹雪による視界不良のため、契約条項に基づき待機する』だとさ! そのせいで、近郊の村々から逃げてくる避難民の馬車が、街道に取り残されちまってる!」
「待機……!? 避難民を見殺しにする気ですか!?」
アストリッドの瞳に激しい怒りの炎が宿った。
だが、ビョルンが次に口にした言葉は、アストリッドの心臓を冷たく凍りつかせた。
「……嬢ちゃん、エルフダール村からの避難馬車も、その街道のど真ん中で立ち往生してるらしい。……『跳ね大猪亭』の女将さんが乗った買い出し馬車も、一緒だ」
「え……?」
アストリッドの呼吸が止まった。
脳裏に、今朝の情景が鮮やかに蘇る。
『大丈夫だよ、アストリッドちゃん! 夕方には馬車いっぱいに美味い食材を積んで、元気に戻ってくるよ』
笑顔で手を振っていた、あの温かな女将さんの姿。
「お、女将さんが……!?」
奥の給湯室から、湯呑みを落としたヒルダの悲鳴が響いた。
ガシャン! と陶器が割れる甲高い音が、静まり返った執務室に響き渡る。
外では、まるで世界を呑み尽くさんばかりに、凶暴な雪嵐が吹き荒れていた。
スコグハイムを揺るがす未曾有の災禍が、ついにその牙を剥いたのだ。




