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第十九話 雪嵐と魔獣大侵攻の予兆(前編)

 大地の日(ヨルダグ)の朝、スコグハイムの空から、ひらひらと白い結晶が舞い落ちてきた。

 北方の山嶺だけでなく、平野部の街にもいよいよ本格的な冬の到来を告げる降雪であった。

 峻険な山脈から吹き下ろす冷気は、街を取り囲む深い針葉樹林をあっという間に白銀に染め上げ、石畳の道を歩く市民たちの吐く息を真っ白に変えていく。

 地方行政庁の第七窓口――『魔獣害対策課・討伐管理窓口』では、朝一番からパチパチと薪ストーブが心地よい爆ぜる音を立てていた。

「……ふう。本格的な冬の到来ですね」

 アストリッド・リンドベリは、冷えた両手をストーブの火にかざして温めると、きゅっと黒い事務用腕カバーをはめ直した。

 窓口のカウンターには、すでに今朝提出された小鬼(ゴブリン)や魔狼(ウルフ)の討伐申請書が几帳面に並べられている。

「本当にねえ。この季節になると、冒険者たちも足が鈍るから、窓口の混雑は少し落ち着くけれど……代わりに寒さで指がかじかんで、算盤を弾く手が滑るのが困りものよ」

 隣の席で、先輩受付嬢のヘルガが淹れたてのハーブティーの湯気を吸い込みながら、優雅に微笑んだ。

「お、おはよう……アストリッド君、ヘルガ君……」

 そこへ、青白い顔をしたスヴェン主任が、分厚い公金支出台帳を抱えてよろよろと出勤してきた。

「おはようございます、主任。……どうされたのですか? ロルフ次長の不正が暴かれ、査察官のエリクソン殿も王都へ帰任されたというのに、まだ胃が痛むのですか?」

「いや……そうなんだけどね……。ロルフ次長が失脚した穴埋めで、王都の中央本庁から『監理参事官』という肩書の偉い役人が暫定着任することになってねぇ……。また重箱の隅をつつかれるんじゃないかと、胃がキリキリして……」

 スヴェン主任は懐から干した胃薬草を取り出し、苦そうにポリポリと噛み砕いた。

「主任、心配しすぎですよ。私たちの帳簿は、あの冷徹なエリクソン査察官が『一点の狂いもなし』と認めてくださったのですから。どんなお役人が来ようと、数字さえ合っていれば堂々としていればよいのです!」

「アストリッドちゃんの言う通りよ。さあ主任、湿気た顔をしていないで、地下の食堂へ行きましょう。朝の仕込みのいい匂いが、ここまで漂ってきているわよ」

 ヘルガが窓口の裏扉を指さす。

 地下の職員食堂――先日の公開入札を経て、老舗酒場『跳ね大猪亭(ヴィルドスヴィン)』が運営を引き継いだ庁舎分店からは、香ばしい焼き立てパンと、濃厚な出汁の香りがふわりと立ち上っていた。


「いらっしゃい! 寒かったろ、アストリッドちゃん、ヘルガさんに主任さん!」

 地下食堂の扉を開けると、湯気と活気があふれる厨房から、女将(おかみ)のビルギッタが満面の笑みで迎えてくれた。

 豊かな赤茶色の髪を三角巾でまとめ、清潔な白エプロンをきりりと締めたビルギッタは、素早くトレイに大きな深鉢を並べてみせる。

「今朝はね、薪火でコトコト煮込んだ地鶏と冬野菜のミルクスープだよ。身体の芯から温まるから、たっぷり飲んでおくれ!」

「わあ……! 美味しそう!」

 アストリッドの目が輝いた。

 テーブルに運ばれたスープには、黄金色に透き通る鶏の脂が浮かび、柔らかなカブやジャガイモ、甘いニンジンの角切りがこれでもかと詰め込まれている。

「アストリッドお姉ちゃん、焼き立てのハーブ黒パンもどうぞ!」

 おさげ髪を揺らしながら小走りでパンの籠を運んできたのは、看板娘のヒルダだ。胸元のポケットには、小さな木製算盤(アバカス)が誇らしげに収まっている。

「ありがとう、ヒルダちゃん。……いただきます」

 スプーンで熱々のスープを一口すする。

 まろやかなミルクのコクと、鶏肉の滋味、そして野菜の優しい甘みが舌の上で溶け合い、寒さで強張っていた身体がじんわりとほどけていく。

「う、美味い……! 胃の粘膜に染み渡る……! 神の恵みだぁ……!」

 スヴェン主任が感涙にむせびながらスープを飲み干した。

「ふふ、喜んでもらえて何よりだよ」

 厨房の奥から、腕まくりをした大柄なマスター・ハルヴァルが顔を出し、豪快に笑った。

「失業していた下町の仲間たちも、この庁舎食堂で腕を振るえて生き生きしてるぜ。ビョルンたち冒険者も、朝飯を食いにわざわざ庁舎の通用口まで顔を出すようになっちまった」

「本当にありがたいことだねえ。……だからこそ、あたしゃ今日これから、ちょっと出かけてくるよ」

 ビルギッタが腰の布巾を整えながら、誇らしげに言った。

「お出かけですか、女将さん?」

「ああ。これから冬が本格化して峠が雪で閉ざされる前に、エルフダール村まで保存食の買い付けに行こうと思ってね。あそこの村長さんが、甘い冬カブと乾燥燻製肉を、うちの食堂のために倉いっぱいに取り置きしてくれてるんだ。馬車を二台連れて、ごっそり仕入れてくるさ」

「エルフダール村へ……。街道や峠道は吹雪で凍結して、足元が滑りやすくなっているはずです。お気をつけてくださいね」

 アストリッドが心配そうに言うと、ビルギッタはカラカラと気風のいい声で笑い、アストリッドの肩をポンと優しく叩いた。

「大丈夫だよ、アストリッドちゃん! あたしはこう見えても下町商家の娘だからね。冬の荷馬車の扱いは手慣れたもんさ。夕方には馬車いっぱいに美味い食材を積んで、元気に戻ってくるよ」

「お母さん、荷造り用の麻紐と帳面、鞄に入れておいたからね」

 ヒルダが小さな鞄を差し出す。

「ありがとう、ヒルダ。留守の間、お父さんと一緒にしっかり仕込みを頼んだよ。お客さんには笑顔で接するんだよ」

「うん! 任せて、お母さん!」

 ビルギッタは愛おしそうに娘の頭を撫で、ハルヴァルと短く視線を交わして微笑んだ。

「それじゃあ、行ってくるよ。みんな、風邪引かないようにね!」

 元気よく手を振って、庁舎の裏口から馬車へと向かうビルギッタの背中。

 白く煙る雪の中へ消えていくその温かな姿を、アストリッドたちは笑顔で見送った。



 午前十時。

 窓口に戻ったアストリッドたちが午前の事務処理を進めていた、その時であった。

 ウゥゥゥ――ッ!! ウゥゥゥ――ッ!!

 突如として、行政庁の尖塔に備え付けられた防衛魔導警報(アラートベル)が、耳をつんざくような甲高い警戒音を鳴り響かせた。

「な、なんだぁぁっ!? 敵襲警報か!?」

 スヴェン主任が椅子から飛び上がり、書類を床にぶちまけた。

 バタン! と第七窓口の重い樫の扉が乱暴に蹴破られ、雪まみれの警備兵が血相を変えて飛び込んできた。

「緊急事態だ! 第七窓口の責任者はいるか!」

「わ、私ですが! 一体何が起きたのですか!?」

 スヴェン主任が震える声で尋ねると、兵士は荒い息を吐きながら叫んだ。

「北方大森林の深部観測所から、最上級の緊急魔信が届いた! 原因不明の魔力異常活性化により、森林深部の魔獣生態系に狂いが生じ――飢えた数千頭の魔獣が、寒波とともに南下を開始した!」

「す、数千頭……!? まさか……!」

 アストリッドの背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。

「……魔獣大侵攻《スタンピード》だ!」

 兵士の絶叫が、凍てついた庁舎の廊下にこだました。

「群れの先頭はすでに北方街道の第一警戒線を突破! このままでは、あと二日も経たずに、このスコグハイム都市外壁へ到達するぞ!」


(後編に続く)


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