第十七話:有給休暇を巡る攻防戦(後編)
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【後編】
午後一時、スコグハイム地方行政庁・大会議室。
普段は堅苦しい予算会議が行われる広い会場に、ずらりと特設の調理台と審査席が設営されていた。
審査員席に並ぶのは、互助会担当役員のスヴェン主任、味覚・栄養審査員として腕を組む主任鑑定士イーヴァル、各課の職員代表五名、そして――特別オブザーバーとして純白の官吏外套をまとった特命査察官、エリクソンである。
「それでは、ただいまより『庁舎地下食堂運営事業者選定・公開試食審査会』を執り行います!」
スヴェン主任が震える声で告げた。
審査は、両陣営が庁舎職員の前で腕前と採算性を競い合う公開方式。
テーブルに並べられたのは、二つの陣営から提出された渾身の一皿であった。
「まず、エントリー一番の料理をお召し上がりください!」
銀のクローシュ(覆い)が外された瞬間、審査員席から「おおっ……!」とどよめきが上がった。
そこに現れたのは、息を呑むほど絢爛豪華な一皿だった。
金箔がキラキラと散りばめられた、最高級霜降り牛の赤ワイン煮込み。
王都産の黒トリュフを惜しげもなく浮かべた濃厚なコンソメスープに、純白の焼き立てクロワッサン。
会場の隅で腕を組み、下卑た笑みを浮かべているのは、現行業者の責任者グンナル、そしてロルフ次長だった。
王都の一流レストランから莫大な日当で引き抜いた最高峰のシェフを雇い、採算を完全に度外視した貴族向けのフルコースを仕立て上げてきたのだ。
「素晴らしい……! なんという芳醇な香り、なんという高級感だ!」
ロルフ次長が立ち上がって絶賛する。
「これぞ我が商工連合が誇る民間資本の圧倒的な力だ! 職員の福利厚生を考えれば、この豪華なメニューを選ぶのが当然ではないか!」
職員代表たちも、見たこともない高級料理に目を奪われ、ざわざわと傾きかけた。
だが――。
「……待ちなさい」
冷え切った氷のような声が、会場の熱気をピシャリと鎮めた。
銀縁眼鏡の奥から冷酷な光を放つエリクソン査察官が、フォークを置き、手元にあった『公募入札要求水準書』を高く掲げた。
「リンドベリ書記官が起案した要求水準書・別記第二条第七項。――『試食会において提出されたメニューの食材品質、原価率、および調理工程は、契約期間中、年間を通じて維持されなければならない。落札後に正当な理由なく食材を粗悪品に変更、または契約額の値上げを要求した場合、行政庁は即座に契約を解除し、年間委託費と同額の違約金を徴収する』」
「なっ……!?」
グンナルとシェフの顔から血の気が引いた。
「お尋ねしよう」
エリクソンが、氷の刃のような視線をグンナルに突き刺した。
「この霜降り牛の赤ワイン煮込み、および黒トリュフのスープは、公募条件である【一食あたり銅貨三十枚以内】の予算で、明日から年間を通じて全職員へ毎日提供できるのだな?」
「えっ……!? あ、いや……それは……!」
グンナルが滝のような脂汗を流して狼狽した。
どうせ落札さえしてしまえば、後から「物価高騰」を口実に値上げすればいいと高をくくっていたのだ。
さらに、審査員のイーヴァルが霜降り肉を一切れ口に運び、静かに咀嚼した。
「……確かに美味い。肉はとろけるように柔らかく、ソースの仕上がりも見事だ。王都の貴族がワイン片手に楽しむ晩餐としては文句のつけようがない」
シェフが一瞬誇らしげに胸を張る。だが、イーヴァルは冷ややかな目でフォークを置いた。
「だが――これが毎日通う『職員食堂の昼食』として出されたらどうだ? 極上の霜降りの脂と濃厚なバター、重厚なソース。たまの贅沢なら天国だが、毎日胃袋に放り込まれれば、一週間で胃もたれを起こして午後の書類仕事どころではなくなるぞ。職員の健康を支える日常の食事ではなく、審査員を幻惑するためだけのハレの料理だ」
イーヴァルの冷静かつ的確な指摘に、会場の職員たちがハッとして顔を見合わせた。
「続きまして、エントリー二番の料理をお召し上がりください!」
アストリッドが凛とした声で案内すると、二つ目のクローシュが外された。
フワリと立ち上ったのは、どこか懐かしく、鼻腔をくすぐる温かい湯気。
そこに並んでいたのは、素朴でありながら光り輝く『下町職人の極上ポトフ定食』であった。
大皿の深鉢には、十時間かけて大猪の骨から抽出された黄金色の濃厚コンソメスープ。
その中には、エルフダール村の開拓農家が丹精込めて育てた、砂糖のように甘い大粒のカブとホクホクのイモがゴロゴロと沈んでいる。
主役の肉は、ビョルンたち地元の熟練冒険者が狩ってきた新鮮なジビエ肉を、下町の職人が手捏ねで仕込んだ極太の粗挽きハーブソーセージ。
そして、下町の老舗パン屋が今朝の未明から薪窯で焼き上げた、香ばしいライ麦ハーブパンが山盛りに添えられていた。
「どうぞ、召し上がってください……!」
純白のエプロンをつけた看板娘のヒルダが、一生懸命に深鉢を審査員たちの前へ配膳していく。
「……ほう」
イーヴァルがスプーンで黄金色のスープをすくい、ゆっくりと口に含んだ。
その瞬間――職人の痩せた頬が、カッと紅潮した。
「……美味い」
イーヴァルが唸るように呟いた。
「雑味が一切ない。野菜の滋味と、骨の髄から溶け出した濃厚な旨味が完全に調和している。……いや、待て。ただの大猪の骨スープなら、いくら丁寧に灰汁を取っても野獣特有の重い獣臭が残るはずだ。なのにこのスープは、奥深いコクがありながら、後味が驚くほど澄み渡っている。……まだ何か秘密があるな!?」
イーヴァルは鋭い眼光を光らせ、深鉢の底をスプーンで探るように見つめ、鼻腔を震わせた。
「……そうか! 隠し味に、地元特産の『発酵林檎酒』を使っているな!?」
「えっ……!?」
配膳していたヒルダが驚いて目を丸くし、奥で見守る女将のビルギッタが、ふっと誇らしげに微笑んだ。
「なるほど! 煮込みの初期段階で林檎酒の果実酸を加え、骨の髄からコラーゲンを一気に溶出させつつ、野獣の脂臭さを完全に中和させているのか! さらに、熱でアルコールが飛んだ後の爽やかな林檎の酸味が、エルフダール村の糖度の高いカブと絶妙に共鳴し、濃厚なスープに奇跡のような透明感とキレをもたらしている!」
イーヴァルは熱に浮かされたようにスプーンを置き、極太のハーブソーセージをフォークで突き刺して食らいついた。
プチィンッ! と小気味よい破裂音とともに、熱々の肉汁がほとばしる。
「このソーセージも凄まじいぞ……! 噛み締めた瞬間に広がるこの清涼感、野生の杜松の実とセージか! ジビエ本来の猛々しい野性味を殺さず、森林の爽快な薫香で包み込むことで、噛めば噛むほど胃腸の働きを活性化させる! 濃厚でありながら一切もたれず、疲弊した五臓六腑へダイレクトに活力を注ぎ込む……これぞ、過酷な激務に立ち向かう職員たちの生命線を支える、至高の日常食だ!!」
スヴェン主任もスープを啜るや否や、涙をボロボロと零した。
「あ、温かい……! 私の荒れ狂っていた胃壁が、優しく包み込まれていくようだぁぁ……!」
他の職員代表たちも、夢中になってスプーンを動かした。
「美味しい……! パンも外はカリカリで中はモッチモチだ!」
「野菜がこんなに甘いなんて信じられない!」
そして――最後に残った特命査察官、エリクソン。
冷徹なエリート官吏は、無言のままスープを最後の一滴まで飲み干し、パンの欠片で綺麗に深鉢を拭って平らげた。
カチャリ、とスプーンを置く。
「……積算内訳書を確認した」
エリクソンは静かに立ち上がり、眼鏡の位置を直した。
「地元の冒険者および開拓農家からの直取引ルートを活用し、中間流通コストを完全排除。熟練の調理技術による廃棄ロス削減により、一食あたりの提供価格は【銅貨二十八枚】。要求水準を完璧にクリアしつつ、栄養学・衛生管理基準においても非の打ち所がない」
エリクソンは手元の採点票を掲げた。
「公務員の健康を守り、労働生産性を底から支える、極めて費用対効果の高い至高の給食である。……満点をつける」
「「「わああああああっ!!」」」
大会議室に、地鳴りのような拍手と歓声が爆発した!
「勝者、エントリー二番――『跳ね大猪亭・仕出し部門』!」
スヴェン主任が高らかに宣言した瞬間、ハルヴァルと女将ビルギッタ、そして失業から立ち上がった下町の料理人たちが、抱き合って涙を流した。
「やった……やったぞぉぉっ!」
「お姉ちゃんっ……!」
ヒルダが涙をポロポロと零しながら駆け寄り、アストリッドに抱きついた。
「ヒルダちゃん、おめでとうございます……! あなた方の真心の勝利です!」
アストリッドも目元を潤ませ、愛用の木製算盤をぎゅっと胸に抱きしめた。
敗北したグンナルとロルフ次長は、悔しさに顔を歪めながら這々の体で逃げ去っていった。
――そして、熱狂に包まれる大会議室の出入口。
パチパチパチ、と上品な拍手をしながら立っていたのは、トレンチコートを羽織ったヘルガだった。
「ヘルガ先輩! 有給休暇だったのでは……!?」
「ただいま、アストリッドちゃん。お見事だったわね」
ヘルガはアストリッドの耳元へ口を寄せ、誰も聞こえない囁き声で告げた。
「……大収穫よ。ノルデン商工連合の秘密帳簿と、ロルフ次長が裏で横流しさせていた『高純度魔石』の密輸ルートの証拠を、完全に押さえたわ」
「……っ!」
アストリッドの青い瞳が、鋭く引き締まった。
胃袋の奪還を果たした第七窓口に、いよいよ巨悪との決着をつける最後の戦いが迫っていた。




