第十七話:有給休暇を巡る攻防戦(前編)
「――というわけで主任、来週の月光の日から三日間、有給休暇をいただきますね」
秋晴れの清々しい朝。
スコグハイム地方行政庁・第七窓口の執務室に、爆弾のような一言が軽やかに投下された。
スヴェン主任のデスクの前に、ウェーブがかった赤褐色の髪をさらりと揺らしながら立っているのは、先輩受付嬢のヘルガである。
差し出された一枚の羊皮紙――『年次有給休暇取得申請書』には、端正で流麗な筆跡で、きっちりと三日間の休暇予定が記入されていた。
「ゆ、有給休暇ぁぁぁっ!?」
スヴェン主任の絶叫が執務室にこだました。
あまりの衝撃に、机の上に並べていた胃薬草の小袋が宙を舞う。
「へ、ヘルガ君! 正気かい!? いま我が第七窓口がどんな状況か分かっているのかい!? 王都から冷酷な特命査察官が乗り込んできて、過去三年分の伝票を重箱の隅までほじくり返され、いつ首が飛ぶか分からないこの非常時に……君が三日も職場を留守にするなんて、絶対に無理だぁぁぁ!」
「あら主任、人聞きの悪いことを仰らないでくださいな」
ヘルガは艶やかな唇に余裕の笑みを浮かべ、制服のポケットから一冊の小冊子を取り出した。
表紙には『王国地方公務員服務規程および労働基準細則』と書かれている。
「公務員服務規程第十八条第三項。――『職員は、前年度において所定の勤務日数を満たした場合、二十日間の年次有給休暇を請求する権利を有する』。私の今年度の有給消化率は、現時点でわずか二日。残日数は十八日も残っております。労働者の正当な権利行使を拒否されるおつもりですか?」
「ぐっ……! だ、だが、時季変更権というものがある! 公務の正常な運営を妨げる重大な支障がある場合は、所属長は休暇の取得時期を変更させることができるはずだ!」
スヴェン主任が必死に抵抗の狼煙を上げた。
「主任、判例をご存知ないのですか?」
ヘルガが涼しい顔で、小冊子のページを指先でトントンと叩いた。
「行政判例通達第六十二号。――『単に業務が多忙であること、あるいは定常的な人員不足を理由とした時季変更権の行使は、裁量権の濫用として違法・無効である』。繁忙期だから休ませないというのは、管理職の職務怠慢を部下の私的犠牲で埋め合わせているに過ぎません。……だいたい、理由欄もご覧になりました?」
「り、理由欄……?」
スヴェン主任が恐る恐る申請書に目を落とす。
そこには、達筆な文字で堂々とこう記されていた。
『事由:心身の恒常的疲労回復、および美肌維持のための温泉療養(私事都合)』。
「お、温泉療養だぁぁ……!? こんな時に温泉に行く気なのかい!?」
「ええ。労働法上、有給休暇の使途に制限はなく、使用者がその理由によって取得を拒否することは厳禁とされております。主任だって、今年度まだ一日も休んでいらっしゃらないでしょう?」
「わ、私のことはいいんだよ! 私は管理職だから、責任感という名の鎖でこの椅子に縛り付けられているんだぁぁ……!」
「『正常な運営を妨げる重大な支障』ですか?」
ヘルガがクスクスと楽しそうに笑い、カウンターの上にドン! と分厚い革表紙のファイルを置いた。
「ならばこちらをご覧ください。『担当案件引き継ぎ計画書』および『事前処理完了調書』です。私が担当する今週分の魔獣討伐申請および補助金支出台帳は、昨夜の残業によりすべて前倒しで処理完了済み。不測の事態に備えた緊急連絡網、および日々の定常業務の代行フローも完璧にチャート化してあります。……アストリッドちゃん、この引き継ぎ書で業務に支障はあるかしら?」
「えっ?」
木製算盤を弾いていたアストリッドが、視線を上げて引き継ぎ書をペラペラとめくった。
「……いえ、完璧です。例外処理のフローチャートから、過去の照合ログに至るまで、付箋の色分けを含めて非の打ち所がありません。これでしたら、私一人でも窓口の通常業務を滞りなく回すことが可能です」
「ちょ、ちょっとアストリッド君!? 味方を背中から撃たないでおくれよぉぉ……!」
スヴェン主任が机に突っ伏して号泣した。
「ほらね、主任。業務の支障は存在しません。……それとも主任、隣の査察室にいらっしゃる財務監察総局のエリクソン査察官に、『我が窓口は個人の有給休暇すら認められないほど構造的な欠陥を抱えた非効率な組織です』と、労働法違反の是正勧告をお願いにまいりましょうか?」
「ひいぃぃっ……! わ、分かった! 分かりましたぁぁ……! 承認印を押します! 押せばいいんでしょうぅぅ……!」
スヴェン主任は涙を流しながら、真っ赤な決裁印を有給申請書にペタリと叩きつけた。
「ふふ、ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、下町の温泉宿でエステ三昧の骨休めを満喫してまいりますね〜」
ヘルガは軽やかにウインクし、優雅に執務室を去っていった。
だが――アストリッドは、その背中をじっと見つめていた。
先ほど渡された引き継ぎ書の最後のページ。
そこには、ごく小さな文字で、ヘルガの筆跡による暗号のようなメモが書き残されていたのだ。
『ノルデン商工連合・第七物資集積倉庫。毎夜、不審な大型馬車の出入りあり。……潜入して裏帳簿の尻尾を掴んでくるわ。留守は頼んだわよ、後輩ちゃん』
「…………」
アストリッドは静かに引き継ぎ書を閉じ、胸の中で拳を握りしめた。
(ヘルガ先輩……有給休暇を丸ごと使って、商工連合の闇を暴くための単独潜入調査に向かわれたのですね……!)
先輩が命がけで外敵の急所を突こうとしている。
ならば、自分が守るべき城はここだ。
そして本日午後には、庁舎の運命を左右するもう一つの大勝負が控えていた。
そう――地下職員食堂の運営権を巡る、『公開試食審査会』である!
(後編に続く)




