第十六話:査定担当イーヴァルのストライキ(後編)
「あ、あの……! アストリッドお姉ちゃん!」
騒然とする窓口の喧騒を縫って駆け寄ってきたのは、老舗酒場『跳ね大猪亭』の看板娘、十四歳のヒルダだった。
その後ろには、仕込み用の大鍋を抱えた大柄なハルヴァルと、朗らかな笑顔のビルギッタも付き添っている。
「ヒルダちゃん! ハルヴァルさんにビルギッタさんも……どうされたのですか?」
「お姉ちゃん、昨日は入札の書類の書き方を教えてくれてありがとうございました! ……それでね、お父さんや下町の料理人のおじちゃんたちと、入札に提出する『日替わり定食』の試作品を作ってみたんです! お姉ちゃんたちに、味見をしてもらいたくて……!」
ヒルダが抱えていた風呂敷包みを広げると、中から現れたのは、曲げわっぱに丁寧に詰められた三人分のほかほかの弁当だった。
「おう! ビョルンたちが今朝獲れたてを届けてくれた新鮮な猪肉を、下町のビール屋の黒ビールでトロトロになるまで煮込んだ『骨付き肉の黒ビール煮込み弁当』だ! 付け合わせの温野菜は、嬢ちゃんたちが吹雪の中出張したと噂の、エルフダール村から、今朝届いたばかりの規格外のカブとジャガイモだぜ!」
蓋を開けた瞬間、執務室の中に、暴力的なまでに芳醇で香ばしい香りがフワリと立ち込めた。
黒ビールのコクと香味野菜の甘みが凝縮された濃厚なデミグラスソースに、箸を入れただけでホロホロと崩れ落ちる極上の煮込み肉。
黄金色に輝くライ麦パンと、ツヤツヤと湯気を立てる甘い温野菜。
原価計算を極限まで突き詰め、中間マージンを一切排除した、驚異の一食【銅貨二十五枚】の結晶であった。
「う、美味そう……! なんて美味そうな匂いなんだ……!」
スヴェン主任が喉を鳴らし、胃薬草の包みをポロリと落とした。
だが――アストリッドはその湯気立つ弁当を見つめ、ハッと青い瞳を輝かせた。
「……これです」
「えっ? アストリッドちゃん?」
ヘルガが首を傾げる。
「頑固な職人の誇りを動かすのは、お役所の理屈や説教ではありません。……命を慈しみ、誠実に作られた、本物の職人の真心です! ヒルダちゃん、このお弁当、一つお借りしてもよろしいですか!?」
「は、はいっ! もちろんです!」
――薄暗い地下通路。
重厚な防護鉄扉の前に、アストリッドとヒルダ、そしてスヴェン主任の三人が立っていた。
扉の脇には、外部から魔石を受け渡しするための、大人の頭が一つ通る程度の小さな資材搬入口の小窓がある。
アストリッドは小窓の鉄格子に近づき、そこへ湯気をもうもうと立てる黒ビール煮込み弁当をそっと置いた。
「……イーヴァルさん。聞こえますか?」
アストリッドが鉄格子に向かって静かに語りかけた。
中からは返事がない。だが、微かに衣擦れの音が聞こえる。
「次長のマニュアルを拝見いたしました。外殻と重量だけの適当な測定など、到底受け入れられるものではありません。あのマニュアルは、粗悪な石を高値で掴まされ、高純度魔石を安く買い叩かれる、公金横領の抜け穴そのものです」
「…………!」
扉の奥で、息を呑む気配がした。
「イーヴァルさんの怒りは、公僕として、そして技術者として百パーセント正しいものです。数字と法規を司る私たち第七窓口も、あのような不正なマニュアルの導入断固阻止いたします。……ですが、イーヴァルさんが倒れてしまっては、誰が本物の魔石を見分けるのですか?」
アストリッドは弁当の蓋を、パカリと開けた。
濃厚でスパイシーな肉の香りと、焼きたてパンの芳香が、狭い小窓の隙間から地下鑑定室の中へと雪崩れ込んでいく。
「あ、あの……!」
ヒルダが小さな手を鉄格子に添え、一生懸命に声を張り上げた。
「鑑定士のおじちゃん! 私、下町の『跳ね大猪亭』のヒルダって言います! このお肉は、冒険者のおじちゃんたちが命がけで獲ってきてくれたお肉で、お野菜は農家のおじちゃんたちが大切に育ててくれたお野菜なんです! お父さんも、下町の料理人のおじちゃんたちも、みんなのお店を奪われて悔しくて……でも、食べる人に元気になってほしくて、一生懸命作ったんです! ……お願いです、冷めないうちに食べてください!」
「…………」
沈黙が流れる。
一分、二分。
カチャリ。
重々しい金属音が響き、小窓の内側の鉄板がゆっくりと横にスライドした。
暗がりの中から伸びてきたのは、煤と薬品で汚れた、骨張った職人の手だった。
無言のまま、弁当箱がスッと奥へと引き込まれる。
次の瞬間――。
ガツガツ! ハフハフッ! ゴクリ!
鉄扉の向こうから、猛烈な勢いで食べ物を貪り食う音が響き始めた。
「……っ! ……んまいっ……!」
押し殺した、掠れた声が漏れ聞こえてくる。
「なんだ……この肉は……! 繊維の奥まで黒ビールの苦味と甘みが染み込み、スジ肉のゼラチン質が極限までトロけてやがる……! カブも、泥臭さが微塵もなく、噛んだ瞬間に大地の滋味が溢れ出す……! ……手抜きが、一切ねえ……! 職人が……命を懸けて仕込んだ味だ……!」
ズビッ、と鼻をすする音が響いた。
やがて、カチャリと空になった弁当箱が小窓から丁寧に戻された。
米粒一つ、ソースの一滴すら残っていない、完璧な完食であった。
「……ふう」
ガチャン! ギギギィィ……!
重々しい閂が外され、頑丈な防護鉄扉がゆっくりと押し開かれた。
現れたのは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした主任査定官イーヴァルだった。
多重焦点ルーペを押し上げ、充血した目でアストリッドたちを見つめる。
「……リンドベリ書記官」
「はい、イーヴァルさん」
「お前の言う通りだ。俺がここで腐って立てこもっていたら、あの次長のペテンマニュアルがまかり通っちまう。……あんな玩具、俺の目の前で粉々に論破してやる」
イーヴァルは作業台から分厚い鉱物学書と魔力波形記録紙を鷲掴みにした。
「それと……小娘」
イーヴァルが、おずおずと見上げるヒルダの前にしゃがみ込んだ。
「あ、あの……お口に合いましたか……?」
「……俺はな、偏屈で愛想もねえし、美味い飯なんて十年以上食ってなかった。だが……今日の弁当は、俺の職人の魂を叩き起こしてくれたよ。……礼を言う」
イーヴァルは不器用にヒルダの頭を大きな手で一度だけ撫でると、スヴェン主任をギロリと睨みつけた。
「おい、スヴェン」
「ひ、ひいっ! な、なんでしょうイーヴァル殿……!?」
「さっきアストリッドが言ってたな。『庁舎食堂の一般競争入札』とやらをやるそうじゃないか」
「は、はい! 私が互助会の担当役員でして……!」
「その入札の審査会、俺を【味覚・栄養審査員】に任命しろ。……あの次長が息のかかった悪徳業者を裏からねじ込もうとしたら、俺がこの舌と魔力分析で叩き落としてやる。……こんな美味い飯が毎日食えるなら、俺は喜んで悪者になってやるぞ」
「お、おおぉぉ……っ! 心強い! なんて頼もしい味方なんだぁぁ……!」
スヴェン主任が歓喜の涙を流して叫んだ。
地下鑑定室のストライキは、温かい手作り弁当の真心によって、鮮やかに解決された。
地上の窓口には、再びイーヴァルの正確無比な査定の声と、アストリッドの軽やかな木製算盤の音が響き渡る。
そして――次長と商工連合の謀略を打ち砕くための次なる決戦、大波乱の『公開試食審査会』の火蓋が、いよいよ切られようとしていた。




