第十四話:窓口民営化の甘い罠(後編)
「ふう……! 危ないところだったわね、主任」
三階の会議室を出て、第七窓口の執務室へ戻る廊下。
ヘルガが息を吐きながら、呆れたようにスヴェン主任を見つめた。
「『定時退社』って言葉に釣られて、あやうく商工連合の甘言に丸め込まれるところだったじゃないの」
「うう……す、すまない……! 『人件費半減』と『定時帰宅』の二文字を見た瞬間、私の弱りきった脳が思考停止してしまって……! アストリッド君、本当に助かったよ……!」
「いえ、主任。公金管理の現場を民間へ丸投げすれば、短期的には経費が浮いたように見えても、長期的には査定機能の崩壊と不正の温床を生むだけです。安易な甘言に乗ってはいけません」
アストリッドが真面目な顔で頷いた。
だが、その日の受難は、それだけで終わらなかった。
執務室の自分のデスクに戻るや否や、アストリッドは別の羊皮紙の束を広げた。
表紙には、端正な文字でこう書かれている。
『庁舎職員互助会・地下食堂運営事業者公募 要求水準書(案)』。
そう――先日の慰労会で発覚した、スヴェン主任が仕組まれたクジ引きによって押し付けられた「職員食堂リニューアル」の業務である。
「さて、気を取り直して、互助会の入札準備を進めましょう」
アストリッドは羽ペンを手に取り、熱心に仕様書の条項を書き込んでいった。
「現在、地下食堂を独占運営している『商工給食組合』との随意契約は、来月末で満期を迎えます。これまでは慣例として毎年無審査で自動更新されていましたが、今回は公募による【一般競争入札】を厳格に執行いたします!」
「お、おお……! アストリッド君、仕様書まで作ってくれたのかい!?」
スヴェン主任が感心したように身を乗り出す。
「はい! 利用職員のアンケート結果に基づき、要求水準を具体的に数値化いたしました。
第一に、日替わり定食の価格は【一食あたり銅貨三十枚以内】であること。
第二に、地元スコグハイム産の新鮮な根菜および良質な食肉を主材料とすること。
第三に、常に温かい状態の具だくさんスープ、および薪窯で焼成されたライ麦パンまたは炊きたて穀物飯を提供すること。
第四に、食材の保管温度や厨房の衛生管理基準を厳格に遵守すること――以上です!」
「す、素晴らしい……! そんな給食が毎日食べられたら、私の荒れ狂う胃壁もどれほど癒やされることか……!」
スヴェン主任が目を潤ませ、うっとりと手を合わせた。
だが、その夢のようなひとときを打ち破るように――。
ドカドカドカッ!! と乱暴な足音が執務室の廊下に響き渡った。
「おいおいおいッ! スヴェン主任はいねえかッ!」
スイングドアが乱暴に跳ね上がり、脂ぎった顔の大男が怒鳴り込んできた。
薄汚れた調理用前掛けを腹に巻き、無精髭を生やしたその男は、現在地下食堂を取り仕切っている現場責任者のグンナルだった。
「ひいぃっ……! グ、グンナルさん……!? ど、どうされたのですか、そんな血相を変えて……!」
スヴェン主任がピシリと縮み上がる。
「どうされたじゃねえよ! なんだいこの回覧板は!」
グンナルは、アストリッドが先ほど全庁に回覧したばかりの『次期食堂事業者・公募入札の実施予告』のチラシを、受付カウンターの上に叩きつけた。
「『要求水準書に基づく一般競争入札の実施』だとぉ!? ふざけんじゃねえぞ! うちは三年前に入って以来、ずっと自動更新でやってきたんだ! いまさら余計な入札なんぞやって、よそ者を引っ張り込む気か!?」
「で、ですがグンナルさん、職員からの苦情があまりにも多くて……。先週も『スープが冷めきった塩水だ』とか『肉がゴムのように硬くて噛み切れない』といった投書が五十件以上も……」
「知るかそんなもん!」
グンナルは唾を飛ばして怒鳴り散らした。
「近頃の物価高騰と人件費の上昇を分かってねえのか!? 銅貨三十枚なんざで、まともな肉や野菜が出せるわけねえだろうが! こっちだって毎日赤字を垂れ流しながら、ボランティア精神で飯を食わせてやってんだ!」
「赤字、ですか……?」
アストリッドがすっと立ち上がり、眼鏡の代わりに冷ややかな視線をグンナルへ向けた。
「おかしいですね。互助会の過去三年分の決算書によりますと、行政庁からは光熱水費の全額免除に加え、年間【銀貨五十枚】の設備維持補助金が給食組合へ支出されております。さらに、先月から一食あたり【銅貨五枚】の便乗値上げを実施されたばかりのはずです。これで赤字が出るなど、仕入れ原価の杜撰な横流しを疑わざるを得ません」
「な、なんだとぉっ!? 新入りの小娘が生意気な口を利くんじゃねえ!」
グンナルは真っ赤になってアストリッドを睨みつけると、カウンター越しにスヴェン主任へ向かって身を乗り出した。
「いいかスヴェン主任! こっちの要求を飲め! 来月からの新契約では、一食あたり【銅貨四十枚】への正式値上げを認めろ! さらに役所からの補助金を現在の倍――年間【金貨一枚】に増額しろ!」
「き、金貨一枚……!? そんな巨額の予算、互助会にはありませんよ……!」
「なら結構だ! 来月末の契約満期をもって、うちは地下食堂から即座に撤退してやる! 調理器具も全部引き上げて、明日から庁舎の連中を全員、兵糧攻めにしてやるからそう思え!」
「ひ、兵糧攻めぇぇ……!?」
スヴェン主任が悲鳴を上げた。
庁舎の周辺には飲食店が少なく、昼休みの短い時間で職員数百名が外食に出かけるのは物理的に不可能だ。食堂が閉鎖されれば、全職員の昼食が完全に立ち行かなくなる。
「がはははっ! どうだ、困るだろうが!」
グンナルは勝ち誇ったように下卑た笑みを浮かべた。
「いいか、ノルデン商工連合の巨大な食材流通網を握る我々以外に、このスコグハイムで数百人分の昼飯を毎日安く提供できる民間業者など、天地が引っくり返っても存在しねえんだよ! 嫌なら頭を下げて、値上げと補助金の増額に判を押しやがれ!」
「うう……そ、そんな無茶な……!」
頭を抱えて震えるスヴェン主任。
だが――アストリッドは怯むどころか、手元にあった二枚の書類を並べて、静かに息を呑んだ。
左手には、先ほど会議室で配られた『窓口包括委託(民営化)提案書』。
右手には、グンナルが突きつけてきた『食堂値上げ・補助金倍増要求書』。
「……まったく同じですね」
「ああん? 何が同じだってんだよ!」
眉を吊り上げるグンナルに対し、アストリッドは鋭利な視線で言い放った。
「構造が、まったく同じです! 最初は『格安・高効率』を謳って参入し、既存の小さな競合店を排除して市場を独占する。そして、利用者が他を選べなくなった途端、露骨にサービスの品質を落とし、今度は『値上げか撤退か』と行政を脅して公金と利用料を貪り尽くす……! これが、あなた方商工連合の常套手段なのですね!」
「な、なにをぉぉっ!?」
「脅迫に屈して安易な妥協をすることは、公僕として断じて許されません!」
アストリッドは要求水準書の書類を胸元にピシッと掲げた。
「私たちは予定通り、厳格な公募競争入札を執行いたします! あなた方の寡占と横暴を打ち破り、安くて本当に美味しい食事を提供できる真っ当な事業者を、正当な手続きで公募いたします!」
「けっ、やれるもんならやってみやがれ!」
グンナルは激高して唾を吐き捨てた。
「商工連合に逆らって、この街でうちより安く大量の食材を仕入れられる料理人なんざ、どこにもいやしねえよ! 入札なんざ応募者ゼロで大恥をかくだけだ! 後で泣きついてきても絶対に許さねえからな!」
ドタドタと足音を荒立てて去っていくグンナルの背中を見送りながら、スヴェン主任は「うう……胃が……私の胃が完全に粉砕された……!」と机に突っ伏した。
「ふふ、言っちゃったわねアストリッドちゃん。でも、胸がすいたわ」
ヘルガが面白そうに目を細めて微笑んだ。
その時――。
「……ほう」
執務室の奥、書類棚の陰から、静かな声が響いた。
いつの間にか過去の公金台帳を片手に立っていたのは、特命査察官のエリクソンだった。
銀縁眼鏡の奥の灰色の瞳をわずかに細め、手帳にサラサラとペンを走らせている。
「『独占的民間委託に伴う、市場参入障壁の悪用と価格支配力の不当行使』か。……地方のしがない窓口職員の割に、本質を突いた鋭い分析だな」
「さ、査察官殿……!?」
スヴェン主任が青くなって飛び起きた。
「気にするな。給食の件は互助会の自治事項だ、財務監察の対象外だ。……だが」
エリクソンは手帳をパチンと閉じ、冷徹な視線をアストリッドに向けた。
「入札を強行するならば、結果を出せ。応募者が集まらず不調に終われば、次長と商工連合に口実を与え、窓口民営化の圧力はさらに強まるぞ」
「……はい、重々承知しております」
アストリッドは背筋を伸ばし、愛用の木製算盤を強く握りしめた。
窓口の存続と、庁舎の職員たちの尊厳ある胃袋を賭けた戦い。
新米受付嬢の頭脳の中で、次なる戦略の計算が、猛烈な速度で火花を散らしていた。
「絶対に、諦めません。……計算を、続けます!」




