第十四話:窓口民営化の甘い罠(前編)
「――以上が、我ら『ノルデン商工連合』が誇る、行政刷新包括連携プロジェクトの全容でございます」
スコグハイム地方行政庁・三階第一特別会議室。
磨き上げられた長机の上には、上質な羊皮紙で装丁された分厚い書類――『魔獣害対策窓口業務の包括的民間委託提案書』が、誇らしげに置かれていた。
恭しく胸に手を当てて一礼したのは、仕立ての良い濃紺の高級スーツに身を包んだ男、商工連合の渉外代理人ベルグだ。
薄い唇に張り付いたような笑みを浮かべ、上等なポマードで撫で付けた黒髪を艶めかせている。
その隣の席では、第七窓口の直属の上司であるロルフ次長が、満足げにふんぞり返っていた。
「素晴らしい提案だ、ベルグ殿。……スヴェン主任、そして第七窓口の諸君。よく聞きなさい」
ロルフ次長が傲然と顎をしゃくり、長机の末席に座らされた第七窓口の三名――スヴェン主任、ヘルガ、そしてアストリッドを見下ろした。
「我がスコグハイム行政庁は、慢性的な財政難と職員の長時間労働に悩まされている。特に君たちの魔獣害対策課は、魔物の討伐証明、魔石の査定、報酬の支払いに至るまで、あまりにも手続きが煩雑で非効率だ。そこで、商工連合の強大な民間資本と効率的な流通網を活用し、窓口業務を丸ごと民間へ包括外注するのだ」
「は、包括外注……民営化ですか……!?」
スヴェン主任が青白い顔で小さく悲鳴を上げた。
「左様です、主任殿」
ベルグ代理人が甘い声で微笑み、手元の資料のページを優雅にめくった。
「現在、第七窓口の年間人件費および運営管理費は、年間でおよそ【金貨三十枚】。しかし、我が商工連合が最新の査定マニュアルと自前の流通網を用いて業務を一括受託すれば――なんと、年間の委託費は【金貨十五枚】! 行政コストをきっかり半分に圧縮することが可能となります!」
「金貨……十五枚……!? 半分……!?」
スヴェン主任の目が丸くなった。
「それだけではありませんぞ。民間のスピーディーな経営判断により、冒険者への報酬支払いは即日完了。煩わしい公文書の作成や魔力印の登録といったお役所仕事はすべて我が社が代行いたします。公務員の皆様は厄介な荒くれ者の相手から解放され、毎日きっかり定時に帰宅できるようになるのです! まさに、行政、民間、そして冒険者の三者がすべて潤う、夢のような改革ではありませんか!」
「ま、毎日定時に……帰れる……!?」
スヴェン主任の瞳に、一瞬だけ魅惑の光が揺らめいた。
毎晩のように書類の山に埋もれ、胃薬草の苦い粉末を啜りながら残業してきた中間管理職にとって、それは悪魔の囁きにも似た甘い蜜の響きであった。
「ちょっと主任、鼻の下を伸ばしてんじゃないわよ」
隣に座るヘルガが、肘で主任の脇腹を小突いた。その涼やかな瞳には、警戒の色がありありと浮かんでいる。
そして――。
「……恐れ入ります、ベルグ代理人」
凛とした声が、会議室の空気をすっと切り裂いた。
新米書記官のアストリッド・リンドベリが、黒い事務用腕カバーをピンと整え、まっすぐに手を挙げていた。
「なんだね、リンドベリ書記官。新人の分際で、幹部会議の場で口を挟むつもりか?」
ロルフ次長が忌々しそうに眉をひそめる。
だが、会議室の最奥の席――腕を組み、銀縁眼鏡の奥から氷のような視線を投げかけていた特命査察官エリクソンが、静かに口を開いた。
「続けなさい、リンドベリ書記官。財務監察総局の査察基準において、公金支出を伴う民間包括委託の妥当性評価には、現場担当者の意見聴取が義務付けられている。……発言を許可する」
「あ、ありがとうございます、査察官殿」
アストリッドは小さく一礼すると、机の上に配られた『提案書・積算内訳別表第三』に、持参した木製の算盤をピシッと置いた。
「ベルグ代理人。ご提案の積算内訳書を拝見いたしました。年間運営コスト金貨十五枚という数値目標は一見すると非常に魅力的に映ります。……ですが、その内訳である【人件費算出根拠】について、重大な計算上の矛盾がございます」
「おや、計算の矛盾、ですかな?」
ベルグが薄笑いを崩さずに小首をかしげた。
「ええ。窓口対応員および魔石簡易査定員の配置人数を月間延べ六十名と仮定した場合、計上されている総人件費から逆算いたしますと、作業員一人あたりの支給日当は【銀貨一枚と銅貨二十枚】。一日八時間勤務と換算した場合の時給は、わずか【銅貨八枚】にしかなりません」
アストリッドが算盤の珠をパチパチと弾き、冷徹な数字を突きつけた。
「これは、スコグハイム市令第三十四条に定められた公的委託事業における最低基準日当(一日あたり銀貨二枚・銅貨五十枚)を四割以上も下回っております。時給銅貨八枚など、下町の粗食である黒パン一塊と薄いスープ一杯すら買えない金額です。……お尋ねいたしますが、我が課のイーヴァル鑑定士のように、魔物の生態に精通し、微細な魔力純度を判別できる熟練の専門職員を、このような劣悪極まる賃金でどうやって確保されるおつもりですか?」
「そ、それは……!」
ベルグの張り付いた笑顔が、わずかに引きつった。
「民間ならではの、その、柔軟な経営努力ですよ! 未熟な若手や、仕事に困っている者を広く採用し、我が社独自の『マニュアル』に沿って機械的に判別させれば、高価な専門職など雇わずとも業務は十分に回るのです!」
「いいえ、回りません」
アストリッドは即座に、きっぱりと言い放った。
「魔石の鑑定は、単なる色や重さの測定ではありません。魔力回路の亀裂や偽装術式の有無を見抜くには、長年の経験と研ぎ澄まされた専門技術が不可欠です。時給銅貨八枚の劣悪な使い捨て労働力でマニュアル通りに捌くだけなら、先日のような『偽装魔石』を簡単に見落とし、結果として行政が巨額の被害を被ることになります。……あるいは、別の懸念がございます」
アストリッドの青い瞳が、すっと細められた。
「生活困窮者や、ギルドに登録すらできない無資格の『潜り冒険者』を極小の報酬で違法に使い潰し、過酷な奴隷労働を強いる前提の積算ではありませんか? そのような脱法的な事業者に、公金が投じられる魔獣討伐の窓口管理を一任するなど、行政倫理上、絶対に認められません!」
「なっ……! 無礼な! 我が商工連合を犯罪組織とでも言うつもりか!?」
ベルグが真っ赤になって机を叩いた。
「滅相もございません」
アストリッドは微塵も動じず、書類を指先でトントンと叩いた。
「私は犯罪組織とは申し上げておりません。ただ、提出された積算内訳書の数字が、現行の労働関係諸法令および公金委託適正化条例の最低基準を満たしていない事実を、客観的な計算に基づいてご指摘申し上げているだけです」
「う、ぐ……っ!」
「……ふむ」
エリクソン査察官が手帳にサラサラとペンを走らせ、銀縁眼鏡を押し上げた。
「時給銅貨八枚での専門業務の積算根拠か。確かに、王都の監査基準に照らしても『積算不備による履行不能リスク』が極めて高い。ロルフ次長、この提案書を正式採択する前に、商工連合には人件費積算の全面的な再提出を命じる必要があるな」
「あ……う、うむ……! も、もちろんそのつもりでしたとも、査察官殿……!」
ロルフ次長が額の冷や汗をハンカチで拭いながら、引きつった声で頷いた。
ベルグ代理人はアストリッドを射殺さんばかりの鋭い目でにらみつけ、吐き捨てるように書類を鞄へしまい込んだ。
「……ふん、小娘が小賢しい数字の揚げ足を取りおって。後悔するなよ……!」
冷や汗の止まらないスヴェン主任をよそに、アストリッドは静かに算盤を胸元へ戻した。
だが、これはまだ、商工連合が仕掛けてきた巨大な罠の、ほんの入口に過ぎなかったのである。
(後編に続く)




