第十三話:中央査察官がやってきた(後編)
「た、助かったぁぁ……! 生き返ったよアストリッド君……!」
特設査察室のスイングドアを出た瞬間、スヴェン主任はその場にへたり込んだ。
全身から冷汗を噴き出し、制服の背中はびっしょりと濡れている。
「アストリッドちゃん、お見事〜。あの嫌味な次長が、手も足も出ずに奥歯をギリギリ噛み締めていたわよ」
廊下の陰からひょっこりと顔を出したのは、優雅に紅茶のカップを手にしたヘルガである。
「ありがとうございます、ヘルガ先輩。ですが、脳を限界まで酷使してしまいました……。お腹が空いて、目の前がチカチカします……」
「そうだな! とにかく飯だ! 何か腹に入れないと、午後の監査で私の心臓が止まってしまう!」
スヴェン主任がふらつきながら立ち上がり、三人は地下の庁舎職員食堂へと足を早めた。
――スコグハイム地方行政庁・地下職員食堂。
薄暗い地下フロアに広がる食堂は、かつては職員たちの憩いの場であったはずだった。
だが現在、カウンターに並ぶ職員たちの顔は一様に暗く、あちこちから重苦しい溜息と愚痴が漏れ聞こえていた。
「……お待たせしました。本日の日替わり定食、【銅貨三十枚】になります」
食堂の配膳カウンターから無愛想に差し出されたトレイを見て、アストリッドは我が目を疑った。
「……こ、これは……?」
トレイの上に乗っていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。
大きめの深皿に入っているのは、スープとは名ばかりの、具がひとかけらも沈んでいない白濁した塩水。
主菜の皿には、油で黒ずんだ、何の動物かも分からないゴムのようにパサパサの屑肉の切れ端が二切れ。
そしてパン皿には、昨日の残り物をそのまま放置したかのような、カビ臭く石のようにカチカチに硬い黒パンが一つ転がっていた。
しかも、配膳台の脇には、これ見よがしに手書きの張り紙が掲示されていた。
『告知:近年の原材料費および薪燃料費の高騰に伴い、来月一日より全メニューを一律【銅貨五枚】値上げいたします。 庁舎食堂運営受託:ノルデン商工給食組合』
「ま、また値上げだと……!?」
「ふざけるな! こんな豚の餌にもならねえ塩水と屑肉で、銅貨三十五枚も取る気か!」
隣のテーブルで、屈強な警備隊員たちが怒りに顔を真っ赤にして拳を握りしめていた。
「……ひどい。これはあまりにひどすぎます……!」
アストリッドはスプーンでスープをすくい、舌先を浸した瞬間に顔を顰めた。
「出汁の風味どころか、野菜の甘みも肉の旨味も一切ありません! ただの塩水に小麦粉を溶いただけです! この硬いパンも、保存期間を偽装した古麦を使用しています!」
「ううっ……胃薬草を飲んだ直後なのに、別の意味で胃が痛くなってきたよぉ……」
スヴェン主任が涙目で屑肉を突っついていると、ふいに背後からコツコツと冷たい革靴の音が響いてきた。
振り返ると、そこには純白の外套を脱ぎ、一人でトレイを持ったエリクソン査察官が立っていた。
エリクソンは空いていた端の席に腰を下ろすと、冷ややかな視線で日替わり定食を見つめ、無言でスープを一口スプーンで口に含んだ。
――ピシリ。
エリクソンの美しい眉が、見たこともないほど険しく引き攣った。
カチャリ、と静かにスプーンが置かれる。
「……これが、地方行政機関における公認職員食堂の給食基準か」
低く、底冷えのするエリクソンの呟きが、静まり返ったフロアに響いた。
「熱量計算、ビタミン含有量ともに最低生存基準値を下回り、予算対比における食材原価率は異常なほど極小。公務員の労働生産性と健康維持を著しく阻害する、劣悪極まる環境だな。……王都の刑務所の囚人食ですら、もう少しマシな豆スープが出るぞ」
エリート査察官の辛辣極まる一刀両断に、周囲の職員たちが「おお……! よくぞ言ってくれた……!」と心の中で拍手喝采を送った。
エリクソンはトレイの黒パンを一切れだけ手で割り、口に運ぶことなく立ち上がると、無言で食堂を後にした。
「……ふう、恐ろしい人ね。でも、味覚だけは極めて真っ当なようで安心したわ」
ヘルガが紅茶をすすりながら、小さく息を吐いた。
「それにしても主任。先週の酒場で嘆いていた『互助会の役員』の件、結局どうなったんですか?」
アストリッドが尋ねると、スヴェン主任は机に突っ伏したまま、消え入りそうな声で呻いた。
「……互助会の役員会でね。慶弔や親睦、広報なんかの担当決めがあったんだよ。そしたら、総務課や税務課の課長連中が示し合わせてね……『スヴェンさん、魔獣課は現場の苦労が一番わかる部署だ。職員の不満が爆発してるこの食堂の改善担当には、貴方しかいない!』って、満場一致で拍手されて……断りきれずに引き受けてしまったんだよぉぉ……!」
「まあ、やっぱりね〜」
ヘルガがクスクスと意地悪そうに笑いながら、アストリッドの耳元に身を寄せた。
「アストリッドちゃん、驚かないでね。さっき総務の書記官からこっそり裏を取ったんだけど……そもそも先週の役員選出のクジ引き、全部の紙に『当たり(役員)』って書かれていたそうよ」
「……はい?」
アストリッドが目を丸くした。
「最初から、押しに弱いスヴェン主任にこの厄介極まる食堂問題を押し付ける気満々で、総務と税務が仕組んだイカサマだったのよ」
「な、なんだってぇぇぇっ!?」
スヴェン主任がガタッと椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。
「ク、クジまで仕組まれていたのかぁぁ……!? 私の人の良さに付け込んで、最初からハメる気だったのかぁぁ……!」
「…………」
アストリッドの青い瞳の奥に、猛烈な業火が静かに灯った。
机の下で、ギュッと小さな拳が握りしめられる。
「……許せません」
アストリッドの冷徹な声が、執務室の空気を震わせた。
「公務員倫理としても、確率論的にも、断じて看過できない重大な不正です! 人の善意を踏みにじり、不味い飯の責任を押し付けるなど、万死に値します!」
「ア、アストリッド君……? 目が、目が怖いよ……!?」
「主任! 先ほど確認したところ、現行の商工給食組合との随意契約は、来月末でちょうど満期を迎えます!」
アストリッドは立ち上がり、懐から愛用の木製算盤をシャキッと構えた。
「自動更新など絶対に認めません! 公募による一般競争入札を厳格に執行し、公正な競争原理を働かせるのです! 手抜きも暴利も許さない完璧な要求水準書を作成し、安くて圧倒的に美味い本物の食事を提供できる事業者を、正当な手続きで迎え入れて見返してやりましょう! 私たちの胃袋と、定時退社の尊厳を取り戻すのです!」
「お、おおぉぉ……っ! そうだ! 美味い肉が食いたい! 私も男を見せてやるぞぉぉ……!」
「ふふ、乗ったわ。公平な入札を妨害されないよう、私も裏で総務の動きを牽制してあげる」
ヘルガが楽しそうにウインクした。
午後の監査を告げる鐘の音が、重々しくスコグハイムの空に鳴り響いた。
冷酷な中央査察官との知恵比べ、そして庁舎の胃袋を巡る熱き入札戦争。
新米公務員アストリッド・リンドベリの、新たな戦いの算盤が、いま高らかに鳴り響こうとしていた。
「……計算を、始めます!」




