第十二話:年に一度の慰労酒会と愚痴大会(前編)
「……というわけで! 本日の懇親会費、総額【銀貨八枚と銅貨四十枚】。これを四人で単純頭割りいたしますと、一人あたり【銀貨二枚と十銅貨】となります!」
スコグハイムの裏路地に素朴な木製看板を掲げる老舗酒場『跳ね大猪亭』の奥まった円卓。
木製の算盤をチャカチャカと小気味よく弾きながら、新米書記官のアストリッド・リンドベリが、計算書を机の中央にピシッと置いた。
「ですが! 行政組織における役職傾斜配分基準法に基づき、管理職手当を受給されているスヴェン主任が四割、上位等級職員であるヘルガ先輩が三割、そして平書記官の私と外部民間協力者であるビョルンさんがそれぞれ一・五割ずつ負担するのが、組織倫理上もっとも公正かつ合理的な清算方式です!」
「アストリッド君……頼むから、年に一度の酒の席まで算盤と法規を持ち込まないでおくれよぉぉ……!」
大ジョッキのエールを一口あおり、青白い顔を押さえて項垂れているのはスヴェン主任である。
手元の小皿には、香ばしい酒の肴ではなく、胃薬草の乾燥粉末を包んだ薬包紙が大事そうに並べられていた。
本日は大地の日。
上半期の過酷極まる激務と数々の窓口トラブルを乗り越え、魔獣害対策・第七窓口の職員トリオ(と、なぜか肉の匂いにつられて居合わせたベテラン冒険者ビョルン)による、年に一度の『上半期決算慰労会』の真っ最中であった。
「いいじゃないの主任〜。男らしくドンと四割奢って、日頃の残業の埋め合わせをしなさいな」
隣の席で、大ジョッキの黒ビールを豪快に喉へ流し込み、プハーッと艶やかな吐息を漏らしたのはヘルガだ。
すでに三杯目を綺麗に空けており、透き通るような白い頬がほんのりと桜色に染まっている。
「がはははっ! 全くだぜ主任! この優秀な小娘二人にこき使われて無事に上半期を生き延びたと思えば、四割なんざ安い投資じゃねえか!」
豪快に笑いながら身を乗り出すビョルンの前へ、湯気をもうもうと立てる巨大な大皿がドン! と威勢のいい音を立てて置かれた。
「へいお待ち! 役所の旦那方、上半期のお勤めご苦労さんだったな! 半日かけてトロトロになるまで煮込んだ、うち自慢の『骨付き豚肉の黒ビール煮込み』だ! 冷めねえうちにガッツリ食って精をつけてくれよ!」
厨房から満面の笑みで大皿を運んできたのは、大柄で熊のような体躯をした店主のハルヴァルだ。分厚い料理人エプロンをきゅっと締めた巨漢は、ビョルンと太い拳をゴツンと突き合わせて豪快に笑った。
「ちょっとハルヴァル、テーブルの端にそんな大皿置いたら危ないじゃないの。――はいスヴェン主任、胃薬ばかり眺めてないで、ちゃんと胃壁に脂を張らなきゃ駄目よ? こっちのリンゴ酒はアストリッドちゃんの分ね」
続いて、焼き立てのパン籠と果実酒のデキャンタを軽やかにテーブルへ並べたのは、おかみのビルギッタだ。気風のいい女将の明るい笑顔に、スヴェン主任も思わず背筋を伸ばして「あ、ありがとうございます……」と恐縮する。
「あ、あの……追加のエールとお水、こちらに置きますね……!」
二人の背後から、まだ体の丈に合わない大きめのエプロンをつけた、おさげ髪の少女が、おずおずと冷えたジョッキとお冷のグラスを盆に乗せて運んできた。店主夫婦の娘、ヒルダだ。
「おう、すまねえな、お嬢ちゃん!」
ビョルンが太い手でジョッキを受け取ると、ヒルダは小さく微笑んでペコリと頭を下げ、パタパタと厨房の方へ戻っていった。家族三人で切り盛りするこの酒場は、いつ訪れても飾らない温もりと食欲をそそる芳香に満ちている。
頑丈な丸太のテーブルの上には、アストリッドが激務の間ずっと夢にまで見ていた贅沢な料理が所狭しと並んでいた。
赤々とした薪火の炭火で皮目をパリッと焼き上げた『粗挽きハーブソーセージ』。
触れただけでホロリと崩れる極上の『骨付き豚肉の煮込み』。
濃厚な山羊の熟成チーズをたっぷりと乗せ、薪窯で焼き上げた熱々の『香ばしいライ麦パン』。
そして、冷涼な森の野生リンゴを漬け込んだ、黄金色に輝く微発泡の果実酒。
「……美味しい」
アストリッドはフォークで柔らかい豚肉を口に運び、目を細めて至福の溜息を漏らした。
春に地方行政庁へ配属されて以来、定時退社を夢見ては理不尽なトラブルに阻まれ、深夜の執務室で買い食いの硬い黒パンを齧りながら算盤を弾いてきた日々。
今夜、ようやく温かく滋味あふれる料理を、誰にも急かされることなく味わうことができていた。
「それにしても……アストリッドちゃん、本当に逞しくなったわねえ」
ヘルガがソーセージを上品にフォークで切り分けながら、懐かしそうに目を細めた。
「配属初日のこと、覚えてる? ビョルンのおっちゃんが三銀貨足りないって窓口に怒鳴り込んできた時なんて、算盤を抱えて生まれたての子鹿みたいに震えてたじゃない」
「ふ、震えてなんかいません! あの時は、少額随意契約の限度額と端数源泉控除の条文を頭の中で照合していただけです!」
「嘘おっしゃい。顔が真っ青で、今にも泣きそうだったわよ〜」
「がはは! 確かにあの頃の嬢ちゃんは頼りなかったな!」
ビョルンが太い腕を組み、豪快に笑った。
「だが今じゃどうだ? 偽装魔石を見破り、商工連合の強欲商人を論破し、警備隊の隊長を管轄境界線で黙らせ、怪しい名義貸しのゴロツキまで正規登録に引っ張り込んじまった。……冒険者の間でも評判だぜ。『第七窓口の数字娘は、規則にはクソうるさいが、絶対にピンハネや嘘はつかない』ってな」
「……そうですか」
アストリッドは照れくさそうに、果実酒のグラスを両手で包み込んだ。
荒くれ者たちに怒鳴られ、理不尽な書類の山に埋もれ、定時退社は一度も達成できていない。
だが、自分が信じて守ってきた帳簿の数字が、現場の冒険者たちとの間に、確かな信頼の絆を紡ぎ出していることを実感していた。
「それにね、アストリッドちゃんのおかげで窓口の書類不備率は以前の半分以下よ」
ヘルガが串からソーセージを抜きながら微笑んだ。
「記入例の赤文字ガイダンスを貼り出したり、事前に魔力印の登録漏れをチェックする窓口フローを整えてくれたでしょ。私、以前よりお茶を飲む時間が増えて大助かりなのよ〜」
「ヘルガ先輩、それは単に仕事を私に振ってお茶を飲んでいるだけでは……!?」
「人聞きが悪いわねぇ、業務効率化の恩恵よ」
「がはははっ!」
豪快に笑い声を上げるビョルンに、スヴェン主任も苦笑いを浮かべた。
「私もだよ、アストリッド君……」
スヴェン主任が、エールの白い泡を見つめながらポツリと呟いた。
「君が来てくれてから、私の胃薬草の消費量は……確かに三倍に増えた。予算削減で消耗品を削れと本部に怒鳴られ、管轄争いで警備隊に詰め寄られ、地下倉庫で埃まみれになって魔石を数え……心臓が縮みっぱなしだった。……でもね、不思議と、以前のように『仕事を辞めたい』とは思わなくなったんだよ」
「主任……」
「君が真っ直ぐに数字を守ってくれるから、私も少しだけ、公務員としての誇りを思い出せた気がするんだ」
主任の穏やかな笑顔に、円卓の空気がふわりと温かい灯火のように和らいだ。
(後編に続く)
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