第十一話:名義貸しは重大な規則違反です(後編)
「だ、誰が名義貸しだ! 言いがかりをつけるな! 証拠でもあるのか!」
「証拠なら、手元の契約書と出納記録にすべて揃っております」
アストリッドは引き出しから、以前控えておいた『不審な代理委任状』の写しを取り出し、カウンターにバンと広げた。
「過去三ヶ月間、ハンス名義で提出された討伐申請は実に二十四件。そのうち十八件において、遠征や負傷を理由とする『代理受領委任状』が添付され、窓口の旧規定の抜け穴――【書面委任状があれば本人魔力照合を省略できる】という運用を悪用して、照合器を通さずに公金が支払われていました。ですが本日、私が過去すべての申請書の筆跡と生体魔力履歴を精密再照合した結果、書類の偽造と名義貸しが完全に立証されました。さらに、報酬の振込先として指定されているのは、ハンス個人の口座ではなく――ノルデン商工連合系列の金融斡旋所『白銀の天秤銀行』の特定預託口座です」
「なっ……!?」
男が息を呑み、言葉を失った。
「本件のカラクリは極めて明白です。正規の鑑札を持つハンス殿は、実際には危険な討伐を行わず、名前と鑑札を貸すだけで報酬から法外な名義貸し料を中抜きしている。そして、無登録の貴方たち潜り冒険者が命を削って危険な討伐を行い、残りの雀の涙を分け与えられている……違いますか?」
「う……うぐぐぐぐっ……!」
逃げ場を完全に塞がれた男は、悔しさに顔を激しく歪め、ガタガタと震え出した。
「……何が悪いってんだよ!」
男の喉から、血を吐くような叫びが漏れた。
「俺たちだって、好きで潜りをやってるわけじゃねえ! 故郷の北方の開拓村が凶暴な魔獣の群れに襲われ、小鬼に焼き払われて全財産も身分証も失くし、命からがらこの街へ逃げてきたんだ! だが行政庁の窓口じゃ『身元保証人がいない』『登録手数料の銀貨三枚を払え』と門前払いされ……飢え死にしそうになって商工連合の斡旋所に転がり込んだら、『鑑札なんて役所の利権の紙切れにすぎん。ハンスの鑑札を使えば今すぐ高額案件を紹介してやる』って言われて……それしか生きる道がなかったんだよ!」
「…………」
ロビーが水を打ったように静まり返った。
荒くれ者の身勝手な犯罪ではない。
自然災害や戦乱で行き場を失った生活困窮者を巧妙に囲い込み、違法労働をさせてピンハネする――商工連合の組織的な暗部の犠牲者だったのだ。
「アストリッドちゃん……」
背後から、ヘルガが静かに歩み寄ってきた。
「法規上、名義貸しによる公金受給は即座に差し押さえ、警備隊への身柄引き渡しよ。……どうするの?」
アストリッドは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして――目を開くと、木製算盤の珠を静かに弾いた。
「……男の方、お名前を伺えますか」
「……エーリックだ」
「エーリックさん。同情の余地はいかほどあれど、法規の歪曲を認めることは行政官として断じてできません。したがって、本件の【銀貨五十枚】の報酬支払いは、受託無効として全額差し止めといたします」
「……そうかよ。結局、役所は俺たちを見殺しにするんだな」
エーリックが絶望に瞳を濁らせ、背を向けようとした。
「話はまだ終わっていません」
アストリッドの凛とした声が、男の足を止めた。
「王国地方自治法第百八条『不法原因労務における公正救済措置』を適用いたします。貴方が命がけで討伐した岩裂き熊の素材および魔石は、名義貸し契約とは切り離された『個人の拾得物資』として、行政庁が本日付の公定市場価格【銀貨三十五枚】で直接買い取ります」
「……え?」
エーリックが信じられない面持ちで振り返った。
「さらに、その銀貨三十五枚の中から、初期登録手数料【銀貨三枚】を相殺控除し……本日付で、貴方ご自身の名義による『正規の個人事業主鑑札』を発行いたします」
「お、俺自身の……正規の鑑札……!?」
「ええ。身元引受人には、この窓口の責任者であるスヴェン主任の公認署名を用います」
「ええぇぇぇっ!? わ、私の署名ぇぇ!?」
奥でスヴェン主任が飛び上がった。
「主任、窓口責任者の責務です。不正な名義貸しネットワークを解体し、一人の優秀な冒険者を正規の公金管理下に組み入れることこそが、最も確実な再発防止策です。……署名を、お願いします」
アストリッドの絶対零度の眼光に射抜かれ、主任は「は、はいぃぃ……喜んで署名します……!」と震える手で署名した。
「……エーリックさん。これからは、誰に怯えることもなく、ピンハネされることもなく、全額ご自身の名義で正当な報酬を受け取ってください」
アストリッドは刻印機から取り出したばかりの、微かに温もりを帯びた真新しい真鍮鑑札を、両手でエーリックの手のひらにしっかりと乗せた。
「これが、貴方が命がけで勝ち取った、正当な冒険者としての証です。……ただし――」
アストリッドは冷徹に告げた。
「悪質な名義貸しの元締めであるハンス殿、およびノルデン商工連合斡旋所の担当者に対する正式な告発調書に、証言者としてご署名いただきます。……よろしいですね?」
「……ああ。喜んで書く! あんな奴らの手口、全部ぶちまけてやる!」
エーリックの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「ふう……っ」
調書の作成と、エーリックへの正規鑑札の交付がすべて完了した。
手提げ金庫の残高、素材買い取り伝票、鑑札登録台帳。
すべての数字が、完璧に一致した。
壁の時計は、午後四時五十分。
「……やりました。巨悪の尻尾を掴み、一人の冒険者の人生を救い、帳簿の数字を完璧に合わせました」
ゴーン、ゴーン――。
高らかに鳴り響く午後五時の終業鐘。
「定時です……! 今日こそ、今日こそ何者にも邪魔されない、私の完全なる定時退社です!」
アストリッドは満面の笑顔で鞄を抱きしめた。
今夜こそ、熱々の陶器皿で香ばしく焼き上げた、たっぷりの挽肉とチーズのラザニア風ミートパイを、誰にも邪魔されずに味わうのだ!
「アストリッド君!」
だが、その瞬間。
執務室の奥の扉がバンと開き、血相を変えたスヴェン主任が飛び出してきた。
「……主任? 今度は何ですか?」
「さ、さっきのエーリック君の告発調書を本庁舎の監察課に届けたらね……! 『商工連合の名義貸し実態を徹底調査するため、過去五年分の全登録冒険者名簿の魔力印照合監査を大至急実施せよ』と、特命命令が下りてしまったんだよぉぉ……!」
「は……? ご、五年分の魔力印照合……!?」
「明日の朝の役員会までに、怪しい名義貸し疑惑リストの初版を提出しなきゃいけないんだ! アストリッド君、頼むぅぅ……!」
「…………」
目の前にドサドサと積まれていく、天井まで届く五年分の名簿の山。
「……主任。明日じゃ、ダメですか?」
「役員会なんだよぉぉ……! 君の告発が引き金を引いたんだ、逃げられないんだよぉぉ……!」
アストリッドは静かに鞄を置き、愛用の木製算盤を引き寄せた。
「……照合を、始めます」
正義を貫けば貫くほど、なぜか現場の書類仕事が指数関数的に増殖していく――。
新米公務員アストリッドの悲痛な叫びと羽ペンの音が、今夜もスコグハイムの闇の中に、延々と木霊するのだった。
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