第十話:出張窓口は天候不良に付き(前編)
ゴトゴト……ゴトゴト……! ガタタンッ!
「きゃっ……! あ、頭が天井に……!」
ぬかるんだ山道の深い泥濘に車輪を取られ、木製の頑丈な荷馬車が激しく跳ね上がった。
スコグハイムの街から北へ馬車に揺られて半日、針葉樹の深い原生林を抜けた先にある極北の開拓集落――エルフダール村へ向かう山道の中腹である。
激しく揺れる荷台の長椅子で、新米書記官のアストリッド・リンドベリは、ずっしりと重い鉄製の『移動用公金輸送金庫』を必死に両腕で抱え込んでいた。
二重の真鍮錠前と防犯魔力刻印が施された金庫の角が、カーブを曲がるたびに容赦なくアストリッドの肋骨を圧迫する。
膝の上には、厚手の防水油布で厳重に包まれた臨時出納帳と公印、そして最新の『へき地開拓支援交付金交付基準要綱』の書類の束。
本日は薪火の日。
険しい山嶺に阻まれ、行政庁まで出向くことができない遠隔地の農民や猟師のために、春と秋の年二回実施される『へき地臨時巡回出張窓口』の実施日であった。
「アストリッドちゃん、大丈夫〜? 舌を噛まないように気をつけてね」
向かいの座席で、分厚い白熊の毛皮マントを優雅に羽織り、温かいハーブティーの入った水筒を傾けているのは、先輩書記官のヘルガである。
「だ、大丈夫ではありませんヘルガ先輩……! 内臓が全部掻き回されて、朝食べたライ麦トーストが逆流しそうです……! だいたい、なぜこんな原始的な悪路を馬車で……!」
「文句を言わないの。へき地出張手当として、日当に銀貨二枚が上乗せされるんだから。ほら、羊毛のショールを鼻までしっかり巻いておきなさい。この季節の北風を吸い込むと、肺まで凍りつくわよ」
「ひぃぃ、冷たいです……! 公金金庫の鉄板まで氷のように冷え切ってます……!」
「ふふ、新人の試練よ。ほら、前を見てごらんなさい。空の色が本格的に怪しくなってきたわよ」
御者台の小窓から見上げる空には、鉛色の重苦しい雪雲が急速に広がり、凍てつく北風が針葉樹の梢をざわざわと揺らしていた。
「……御者さん、村まではあとどれくらいですか?」
「へい、お嬢さん方! この峠の尾根を越えりゃあと一息だが、天気が荒れそうだ! 吹雪になる前に滑り込みてえところだな!」
御者のパチンという鋭い鞭の音とともに、馬車は泥飛沫を上げて山道を急いだ。
――エルフダール村、村役場兼集会所。
素朴な丸太組みの建物の中に入ると、巨大な薪ストーブのパチパチという心地よい爆ぜる音と、乾いた干し草と針葉樹の香りがアストリッドたちを迎えてくれた。
だが、冷え切った指先を温める暇もなく、土間にずらりと並んでいた村人たちが、歓声を上げて窓口用の長机へと押し寄せてきた。
「おおっ、役所のお嬢ちゃんたちが来てくれたぞ!」
「待ってたべ、待ってたべ! 冬ごもりの前に銀貨に換えてもらわねえと、塩も油も買えねえところだった!」
「皆様、お待たせいたしました!」
アストリッドは乱れた制服の裾を払い、素早く長机の上に黒い事務用フェルトを敷き、木製算盤と出納帳をセットした。
「スコグハイム地方行政庁・第七窓口、エルフダール出張所を開設いたします。本日は、秋期の害獣駆除証明部位の検収、および農地防除交付金の即時現金精算を行います。受付順に書類と討伐部位をお出しください!」
パチ、パチパチパチ……!
アストリッドの羽ペンと算盤が、猛烈な速さで唸りを上げた。
村人たちが持参するのは、畑の作物を食い荒らす角兎の角、イモ畑を掘り返す大穴熊の頑丈な爪、そして放牧地の家畜を脅かす下級の小鬼の干からびた耳である。
どれも過酷な自然と戦い、自分たちの畑と家族を守り抜いた素朴な農民たちの汗の結晶だった。
「はい、検収いたします。角兎の角が六点。保存状態良好、公定防除交付金は一点につき銅貨二十枚で計【銀貨一枚と二十銅貨】です」
「大穴熊の爪が三対。基本討伐金、一対につき銀貨一枚で計【銀貨三枚】となります」
「それから、こちらの小鬼の耳ですが……乾燥による縮みが激しく、一部に欠損が見られますね。ですが軟骨部分の魔力残存反応が基準値を満たしておりますので、満額の一点につき銅貨十五枚、四点で【六十銅貨】として承認いたします」
手提げ金庫の真鍮鍵がカチャリと回り、硬貨の触れ合う澄んだ金属音とともに、村人たちのゴツゴツとしたひび割れた手へ銀貨が手渡されていく。
「ありがてえ……! やっぱり役所の窓口は間違いがねえな!」
初老の農夫が、涙ぐみながら銀貨袋を両手で握りしめた。
「……あの、おじいさん」
アストリッドはふと気になって羽ペンを止め、穏やかに尋ねた。
「間違いがない、とはどういうことですか? 何か他のところでトラブルでも……?」
農夫は周囲を伺うように声を潜め、深いため息をついた。
「実はな……先週、街から『ノルデン商工連合の出張買い取り隊』と名乗る連中が、派手な幌馬車でやってきたんだべ」
「商工連合が……こんな山奥の村にまで?」
「ああ。『役所の出張窓口なんか待ってたら冬が来て飢え死にするぞ。今すぐ素材も魔石も全部現金で買い取ってやる』って言われてな。……オラたちの知識がねえのをいいことに、小鬼の魔石を一個【五銅貨】、良質な熊の毛皮を一枚【一銀貨】で買い叩いていきやがったんだ」
「五銅貨……!? 毛皮が一銀貨……!?」
アストリッドのこめかみに、ピシリと青筋が立った。算盤を持つ右手がカタカタと震える。
「小鬼の並品魔石の公定買い取り下限価格は【二十五銅貨】、熊の毛皮は最低でも【銀貨四枚】です! 実に五分の一から四分の一という、言語道断の不当廉売搾取です! 公定基準価格を無視したあくどい暴利行為です!」
「な、何だってぇっ!?」
農夫が顔面を蒼白にした。
「そんなに安く買い叩かれてたのか……! あくどい商人め、山奥の年寄りを騙し腐って……!」
「おじいさん、その商人たちが発行した受領証や買い取り伝票の控えは残っていますか?」
「ああ、これだべ……」
差し出された薄汚れた紙切れの端には、見慣れた黄金の天秤のマーク――ノルデン商工連合の直属刻印が、黒々と押されていた。
「…………」
アストリッドはその伝票の明細を素早く手帳に書き写し、証拠綴りへと挟み込んだ。
街の裏通りで暗躍する無登録の潜り冒険者。
庁舎の地下金庫から消え失せた特級魔石。
そして、辺境の開拓村における情報弱者を狙った組織的な買い叩き。
すべてが、商工連合という巨大な怪物の胃袋へと繋がっていた。
(後編に続く)
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