第九話:新米パーティの独立登録申請(後編)
「……だから言ったじゃない、坊やたち」
ヘルガが湯気立つ素焼きのカップを置き、優しく微笑んだ。
「冒険者ってね、剣の腕よりも『日々の収支計算と節税』が上手い人だけが生き残る職業なのよ。派手に稼いで派手に散財した英雄気取りの男たちなんて、みんな冬を迎える前に借金まみれで消えていくわ」
「う……ううう……!」
少年戦士が悔し涙を浮かべて拳を握りしめた。
そのとき、後ろの少女魔術師が、おずおずと手を挙げた。
「あ、あの……受付のお姉さん」
「はい、何でしょうか」
「……実は、ここに来る前、街の大通りにある『ノルデン商工連合の民間斡旋所』に立ち寄ったんです。そしたら、窓口の派手な服を着た商人さんが、こう言ったんです……」
少女の言葉に、アストリッドの耳がピクリと動いた。
「『役所の登録なんかしたら、税金でごっそり持っていかれるだけだ。うちの商会の専属下請けとして登録すれば、鑑札の手数料も要らないし、税金の天引きもなしで、初月から銀貨三十枚の前渡し金を払ってやる』って……」
「……なんですって?」
アストリッドの瞳の温度が、一気に氷点下へと下がった。
奥の机で胃薬茶を飲んでいたスヴェン主任も、ギョッとして顔を上げた。
「そ、それって……完全な『潜り冒険者』の違法スカウトじゃないか……!」
「え? 違法なんですか?」
少年狩人が目を丸くした。
「前渡し金がもらえるなら、役所を通すよりずっといい話だと思ったんだけど……」
「うまい話には、必ずそれ相応の理由があります。……論理的に、その契約に潜むリスクを説明いたしましょう」
アストリッドは手帳を開き、羽ペンを素早く走らせた。
「まず第一に、その『前渡し金三十銀貨』は給料ではなく、法的には【前借りという名の借金】です。最初に借金を背負わされることで、持ち帰った素材や魔石の買い取り価格を相手の言い値で安く買い叩かれても、文句が言えなくなります。専属契約を盾に、相場の半値以下で搾取されるのが関の山です」
「えっ……!?」
「第二に、行政の鑑札を持たない『無登録』の状態で活動した場合、行政庁の公的補償は一切適用されません。万が一討伐で大怪我を負っても、公定基準の救護手当は一銅貨も出ず、すべて自己負担となります。契約の不履行があっても、行政庁は民間の調停に入ることができません」
アストリッドは少年たちを静かに見つめた。
「万一命を落とされた場合、残された借金の請求が故郷のご家族へ回される危険すらあります。『税金が引かれない』『手数料が不要』という甘い言葉の裏には、【法規による一切の公的保護を放棄する】という、あまりにも重い代償が隠されているのです」
「ひ、ひぃぃ……! そういうカラクリだったのか……!?」
「役所の正規登録は、確かに税金も引かれますし、書類仕事も多く、最初は手元に残るお金も少ないでしょう」
アストリッドの声が、厳しさから穏やかな温かみへと変わった。
「ですが、正規の鑑札を持っていれば、不当なピンハネから法規が皆様を守ります。怪我をした時は公金から手当が出ます。そして何より、実績を積んで信用を高めれば、より高額で安全な随意契約を自らの手で勝ち取ることができるのです」
「……信用」
少年戦士が、自分のゴツゴツとした手をじっと見つめた。
「……分かったよ、受付のお姉さん。俺たち、甘ったれてた。税金も払うし、書類もちゃんと書く。……だから、俺たちを正式な冒険者として登録してくれ!」
「はい、喜んでお引き受けいたします」
アストリッドは微笑み、真鍮製の鑑札プレートに三人の名前と魔力照合印を刻印した。
「受託登録番号〇八九二、パーティ『暁の銀狼』。個人事業主鑑札の発行を完了いたしました。……ようこそ、スコグハイムの正規事業者へ」
「ありがとう、お姉さん! 俺たち、まずは畑の草むしりと小鬼退治からコツコツ頑張るよ!」
少年たちは鑑札を大切そうに胸に抱え、笑顔でロビーを駆け出していった。
「ふう……っ」
アストリッドは深く息を吐き、机の上の申請書を几帳面に整えた。
「……素晴らしいガイダンスだったよ、アストリッド君」
奥から歩み寄ってきたスヴェン主任が、感心したように頷いた。
「新米の暴走を止め、商工連合の魔の手から救い出し、適正な納税者を一人増やした。君は本当に立派な公務員だね」
「ありがとうございます、主任。数字の真実を教えることこそが、最も誠実な行政サービスですから」
壁の時計を見ると、針は午後四時五十五分。
窓口の閉庁まで、あと五分。
「……やりました。出納帳の登録手数料、金庫残高、鑑札交付台帳。すべて完璧に一致しています」
ゴーン、ゴーン――。
高らかに午後五時の終業鐘が鳴り響いた。
「定時です……! 今日こそ、若者の未来を守り抜いた私の、完全なる定時退社です!」
アストリッドは両手を広げ、満面の笑顔で鞄を抱えて立ち上がった。
今夜こそ、市場で買った香ばしい森のキノコとハーブ鶏をトロトロのクリームで煮込み、焼きたての温かい白パンを浸して、ワインと一緒に味わうのだ!
「アストリッドちゃ〜ん」
その瞬間、悪魔の囁きが窓口の横から降ってきた。
ヘルガが、両手いっぱいに抱えた『分厚い税務研修テキスト』をドサリとカウンターに置いた。
「今の税金ガイダンス、ものすごく分かりやすかったわ〜。そこでスヴェン主任と相談したんだけどね?」
「……ヘルガ先輩?」
「明日から窓口に来るすべての新人冒険者向けに、アストリッドちゃん特製の『誰でもわかる! 冒険者のための確定申告と経費精算ガイドブック(全八十ページ)』を配ることにしたの! 明朝の開庁までに、原稿を仕上げておいてね〜!」
「は……? 確定申告ガイドブック……全八十ページ……!?」
「スヴェン主任が図解のカットを描いてくれるから! あ、私、今夜は商工連合の脱税疑惑を追ってる憲兵隊のイケメン将校とディナーだから〜。じゃ、お先に!」
ヘルガは颯爽と手を振り、定時鐘の余韻とともに去っていった。
「…………」
アストリッドの目の前に聳え立つ、真っ白な原稿用紙の山。
「……主任。明日じゃ、ダメですか?」
「明日の朝九時に、新米冒険者の団体登録会があるんだよぉぉ……! 頼むぅぅ……!」
アストリッドは静かに鞄を置き、愛用の木製算盤を引き寄せた。
「……計算を、始めます」
若者たちに現実を教えた新米公務員が、自らの残業という最も過酷な現実に立ち向かう羽ペンの音が、今夜もスコグハイムの夜更けに延々と鳴り響くのだった。
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