第一話:討伐報酬が三銀貨合わない(後編)
「いいか嬢ちゃん、算数は簡単だ!」
ビョルンは丸太のような指を一本ずつ立てて、怒声をカウンター越しに叩きつけてきた。
「小鬼十二頭で十二銀貨! 魔石が十二個で三銀貨! 朝駆けの手当が三銀貨! 足したら十八銀貨だ! ガキでもわかる計算だろうが!」
「計算式そのものは合っています! ですが、行政の手続きとして、予算承認されていない三銀貨を金庫から出すことは、王国財務規則第七条『使途不明公金の支出禁止』に違反する重大な背任行為です!」
「知るかそんな規則! 俺は働いた分の金を請求してるだけだ!」
カウンターを挟んで火花が散る。
窓口の前の待合スペースにいた他の冒険者たちも、「おいおい、新米がビョルン相手に一歩も引いてねえぞ」「三銀貨で揉めてんのか?」と野次馬のように集まり始めていた。
「ひいっ……! 静かに、皆さん静かに……! 私の胃に免じて声を落としておくれ……!」
スヴェン主任が青ざめた顔で駆け寄ってきて、アストリッドの手から契約書を奪い取るように覗き込んだ。
「アストリッド君、た、たかが三銀貨じゃないか! 窓口の予備費から適当に調整して、十八銀貨払って穏便に――」
「ダメです主任!」
アストリッドは毅然として上司を睨みつけた。その眼差しは、猛獣と対峙する狩人のように鋭い。
「たかが三銀貨ではありません。公金における三銀貨のズレは、監査官から見れば横領か過失の証拠です。今日三銀貨を見逃せば、年度末の決算監査で必ず弾かれます。主任、始末書をお書きになりたいのですか?」
「うっ……! し、始末書は嫌だ……減俸も嫌だ……!」
主任が胃を押さえて蹲る。
そこへ、背後から優雅な足音とともにヘルガが割り込んできた。手には冷めた紅茶のカップを持っている。
「はいはい、そこまでよ。アストリッドちゃん、ちょっと書類を見せてごらんなさい」
「ヘルガ先輩……」
ヘルガは細い指先で『少額随意契約書』の添付資料をパラパラとめくると、ふっと片眉を上げた。
「なるほどね。アストリッドちゃん、あなたこの案件の『起案元』がどこか確認した?」
「起案元……ですか? 討伐依頼ですから、うちの課……ではなく、市民からの被害届ですよね?」
「違うわ。ほら、ここを見て。受付印の右上に『農林』って小さく書いてあるでしょ」
アストリッドは目を凝らした。
掠れた朱肉の印影の脇に、確かに小さな記号が刻まれている。
「農林……農林・開拓振興課!?」
「そうよ。このゴブリン駆除、もともとは農民が農林課の窓口に『キャベツ畑を荒らされた』って泣きついてきた案件なの。農林課は自分たちで冒険者を雇えないから、うちの課に『少額随意契約で発注してくれ』って予算を回してきたのよ」
「だ、だったら尚更、なぜ三銀貨足りないのですか!?」
「原因は二つあるわね。一つは、お役所の縦割りの罠。もう一つは……ビョルンのおっちゃんの早とちりよ」
ヘルガが涼しい顔でビョルンを見据えた。
「おっちゃん。『早朝駆除手当の三銀貨』、農林課の担当官からなんて説明されて受けたの?」
「あ? 『朝駆けして畑を守ってくれたら、農林課から特別手当として三銀貨弾む』って言われたぜ」
「やっぱりね。おっちゃん、それ『農林課から』よ。うちの窓口の討伐公金とは別枠の、農林課の『農業被害対策特別助成金』からの直接還付申請扱いになってるの」
「……え?」
ビョルンが目を白黒させた。
「つまりね、討伐基本報酬(十二銀貨)と魔石買取(三銀貨)の合計十五銀貨は、うちの窓口で即日現金払い。でも、早朝手当の三銀貨は、討伐完了証明書を持って『第二庁舎の農林課窓口』に申請しに行って、向こうの金庫から受け取る決まりになってるのよ」
「な、なんだとぉ!? なんでそんな面倒なことになってんだ!?」
「予算の出どころが違うからよ!」
アストリッドが思わず叫んだ。商家の娘としての経理知識が、瞬時に制度の構造を解き明かしたのだ。
「討伐管理課の予算は『王国治安維持費』ですが、早朝手当は『地方農業振興基金』です! 会計科目が完全に別です! うちの窓口からその三銀貨を支払ったら、科目を跨いだ違法な立替払いになってしまいます!」
「う、ううむ……なるほど……!」
スヴェン主任が眼鏡を押し上げ、青ざめた顔に少しだけ血色を取り戻した。
「さすがはヘルガ君、そしてアストリッド君だ。つまり、うちの窓口の契約書にある『十五銀貨』は、最初から完璧に合致していたということだね!」
「そうです! 窓口の帳簿は最初から一寸の狂いもありませんでした!」
アストリッドが勝ち誇ったように胸を張ると、ビョルンが頭をバリバリと掻きむしった。
「ちぇっ、なんだよ……結局、向こうの窓口にも行かなきゃならねえのかよ。役所の書類仕事はこれだから嫌いなんだ!」
「ご案内しますので、農林課の窓口までご一緒します。ですがビョルンさん、その前にこちらに受領印を」
アストリッドは手際よく出納帳に十五銀貨の支出を記帳し、金庫から銀貨十五枚を取り出してカウンターに並べた。
チャリン、と澄んだ金属音が鳴る。
ビョルンは不承不承ながらも、太い指で受領証に拇印を押した。
「……悪かったな、嬢ちゃん。怒鳴っちまってよ」
「いえ。数字の理由が説明できて何よりです」
革の巾着袋に銀貨を入れ、腰にぶら下げたビョルンが、ふと思い出したようにカウンター越しに身を乗
り出し、声を潜めた。
「そういやよ、嬢ちゃん。さっきの森の奥で、妙なもんを見かけたぜ」
「妙なもの、ですか?」
「ああ。小鬼の巣の近くに、粗悪な鉄の罠がいくつも仕掛けてあってな。冒険者の鑑札を持たねえような、身元の怪しい連中が数人、獲物を探してうろついてやがった。……最近、街の裏通りでも『無登録の潜り』が増えてるって聞くぜ。仕留めた獲物をどっかの商人に丸ごと横流ししてるらしい。役所のお偉方にも気をつけろって言っときな」
「潜りの……無登録請負人……」
アストリッドは手帳の余白に、その言葉を小さくペンで書き留めた。
ビョルンが去り、窓口には再び静寂が戻った。
壁掛け時計の針は、午後四時五十分を指している。
窓口の業務終了鐘が鳴るのは、午後五時ジャスト。
「ふう……っ」
アストリッドは深く息を吐き出し、出納帳をパタンと閉じた。
帳簿の残高と、手元の手提げ金庫の残高。
一銀貨、一銅貨の狂いもなく、完璧に一致している。
「やりました……! 数字は完全に合いました! あと十分で本日の業務は終了……今日こそ、今日こそ定時退社です!」
アストリッドの瞳が、勝利の歓喜に輝いた。
今夜は帰り道に焼きたての黒パンとチーズを買い、温かい豆のスープを作って、早くベッドに入るのだ。完璧な一日の終わりである。
「お疲れ様、アストリッドちゃん」
ふいに、横から甘い声が降ってきた。
ヘルガが、天使のような極上の笑顔を浮かべて立っている。
その手には――分厚い、茶色い羊皮紙のファイルが握られていた。
「……ヘルガ、先輩?」
「これね、さっき農林課の職員が『さっきのお礼〜』って言いながら置いていった、新しい依頼書よ。隣町の境にある果樹園で、大猪が暴れてるんですって。明日朝一番で告示を出したいから、今日中に随意契約の仕様書と予算案、作っておいてくれる?」
バサリ、とアストリッドの目の前に置かれたファイルは、ざっと見積もっても三十ページはある。
「…………」
アストリッドは、満面の笑みを浮かべる先輩と、奥で胃薬草茶をすすりながら目を逸らす主任を、交互に見つめた。
壁の鐘が、非情にも午後五時の訪れを告げる。
「……先輩。明日じゃ、ダメですか?」
「ダメに決まってるじゃない。公務員は市民の安全が第一よ。頑張ってね、お先に〜!」
ヘルガは流れるような身のこなしで私物を鞄に詰め、定時鐘の最後の余韻とともに執務室から消え去った。
「う、アストリッド君……すまないね。私も……胃薬の煎じ直しがあって……」
「主任、逃げないでください。決裁印を押すのは主任の仕事です」
「ひいっ……!」
アストリッドは深いため息をつき、羽ペンのインクを補充した。
どうやら、スコグハイムの平和と帳簿の数字は、新米公務員の残業によって守られているらしい。
「……計算を、始めます」
針葉樹の森に夜の帳が下りる中、第七窓口には、今日も遅くまで算盤を弾く乾いた音が響き続けるのだった。




