第一話:討伐報酬が三銀貨合わない(前編)
針葉樹の森に囲まれた地方都市、スコグハイム。
その中央にそびえ立つ石造りの地方行政庁舎――いわゆる市役所の正面玄関をくぐると、市民相談課や戸籍登録課といった清潔で穏やかな窓口が整然と並んでいる。
だが、その一番奥、薄暗い廊下の突き当たりにある第七窓口だけは、庁舎内のあらゆる部署から明確に隔離されていた。
掲げられた木製看板には、こう刻まれている。
『魔獣対策・討伐管理課』
通称、冒険者対応窓口。
血糊と泥の匂いが染みつき、屈強な武装集団が怒号を交わし合う、庁舎きっての『危険・不潔・理不尽』の三拍子が揃った厄介部署である。
「おはようございます、アストリッドちゃん。今日も朝から死相が出てるわね」
隣のカウンター席で優雅に紅茶の湯気を吸い込んでいた同僚の先輩書記官、ヘルガが、ウェーブがかった赤褐色の髪を揺らして微笑んだ。
「おはようございます、ヘルガ先輩。死相ではありません。昨晩、今期の少額随意契約の施行規則を復習していただけです。……今日こそは、絶対に定時で帰りますから」
アストリッド・リンドベリは、仕立てのいい紺色の公務員制服の袖に黒い事務用腕カバーを通し、きりりと背筋を伸ばした。
商家の三女として生まれ、幼い頃から売上帳簿の数字と格闘してきた彼女は、難関の地方官吏採用試験を突破して今年配属されたばかりの新米である。
胸元には愛用の木製算盤と羊毛の手帳。彼女の武器は剣でも攻撃魔法でもない。数字の不一致を決して許さない几帳面さと、公務員法規の暗記力である。
「定時退社ねえ。夢を見るのは若い子の特権だけど、この窓口で定時に帰れた職員は、建国以来一人もいないっていう伝説があるわよ?」
「私がその第一号になります。そのためには、午前中の受付を分刻みで処理して――」
そのとき、執務室の奥の低い仕切りから、重苦しいため息とともに咳払いが響いた。
「アストリッド君、ヘルガ君……朝から騒がしいね。胃が……胃が朝食のライ麦パンを拒絶しているんだ……」
青白い顔を押さえながら現れたのは、窓口責任者のスヴェン主任だった。
手には湯気を立てる素焼きのマグカップ。中身は彼が自ら調合した、信じられないほど苦い乾燥薬草茶である。
「主任、おはようございます。また税務課から何か言われたんですか?」
「ああ……四半期監査の事前通知だよ。『魔獣対策課は公金支出の証憑が杜撰だ、一銀貨でも合わなければ次長の査定に響くと思え』とさ。頼むから、今日一日何事もなく平穏に終わってくれ……」
「大丈夫です主任。私の帳簿は一銅貨の狂いもありませんから」
アストリッドが頼もしく胸を張った、まさにその瞬間だった。
バタン! と窓口の木製スイングドアが乱暴に跳ね上がり、重厚な革鎧に身を包んだ巨漢がのしのしと入ってきた。
背中には大剣、顔には歴戦の古傷。スコグハイムを拠点とするベテラン冒険者、ビョルンである。
「おう、役所の連中! 頼まれてた害獣駆除、きっちり片づけてきたぜ!」
ドサリ、とカウンターの上に無造作に放り出されたのは、血抜きされ乾燥処理が施された麻袋だった。中から、特有の饐えた獣臭が漂い出る。
スヴェン主任が「ひっ」と喉を鳴らして二歩後退り、ヘルガは「はいはい、ビョルンのおっちゃんね」と流れるような手つきで受付票を引き出しの奥へ隠した。露骨なパスである。
アストリッドは小さく息を吸い、営業用の完璧な作り笑いを浮かべてカウンター越しに向き直った。
「おはようございます、ビョルンさん。西の開拓農道における小鬼――小鬼の駆除案件ですね。個人事業主登録証の提示をお願いいたします」
「おう、これだろ」
無造作に投げ出された真鍮製のプレートを、魔力照合器にかざす。緑のランプが点灯した。本人確認は問題ない。
「では、討伐部位の検収を行います。規定に基づき、右耳の計数に入りますので、少々お待ちください」
アストリッドは銀のトングを手に取り、麻袋からゴブリンの干からびた右耳をつまみ出してトレイに並べていく。
「……一、二、三……十、十一、十二。合計十二点。契約通りの頭数ですね。査定室のイーヴァルさんから魔石の受領証も回ってきています。並品魔石が十二個、品質問題なし」
「だろ? 畑を荒らしてた連中を巣ごと叩き潰してやったのさ。さっさと討伐報酬を金貨で……いや、銀貨で払ってくれや。今夜は酒場でエールを浴びる予定なんだ」
「はい、ただいま精算書を作成いたします」
アストリッドは机の引き出しから、スヴェン主任の決裁印が押された『少額随意契約書(第〇四号)』の控えを取り出し、算盤の珠を軽やかに弾いた。
パチパチ、と心地よい乾いた音が室内に響く。
ゴブリン基本討伐公金は、一頭につき一銀貨。十二頭で十二銀貨。
魔石の公的買い取り規定は、並品一個につき二十五銅貨。十二個で三百銅貨、すなわち三銀貨。
そして、農民からの被害届に基づく緊急出動加算――早朝駆除特別手当が、一回につき三銀貨。
十二プラス、三プラス、三。
合計、十八銀貨。
「……ん?」
アストリッドの指先が、算盤の枠の上でピタリと止まった。
もう一度、契約書の金額欄を見る。
そこには、スヴェン主任の震える筆跡で、こう記されていた。
『契約限度額:十五銀貨』
アストリッドは目をしばたたかせ、契約書の裏面、添付書類、予算科目の割り振り伝票を素早くめくった。
ビョルンへの支払予定額:十八銀貨。
庁舎の金庫から出納可能な承認額:十五銀貨。
差額――マイナス三銀貨。
「…………」
アストリッドの背筋に、スーッと冷たい汗が流れた。
珠を払い、最初から暗算し直す。
十二、加算三、魔石三。やはり十八。
だが、手元の支出伝票の決裁枠は、どう逆立ちしても十五銀貨。
三銀貨、足りない。
「……あの、ビョルンさん」
「ああん? なんだ嬢ちゃん、早く銀貨袋を出しな。十八銀貨だろ?」
ビョルンが太い腕を組み、ニッと笑った。
アストリッドは静かに算盤を置き、深く息を吸い込んでから、窓口の奥まで響き渡る明瞭な声で告げた。
「その討伐報酬、計算が合いません」
「……はあ?」
ビョルンの眉がつり上がり、執務室の奥でスヴェン主任の手からマグカップが滑り落ちそうになった。
「お、おいアストリッド君!? 何を言っているんだい!?」
「主任、こちらの随意契約書ですが、支出限度額が十五銀貨になっています。ですが正規の計算規定に従うと、支払額は十八銀貨になります。三銀貨、どうしても帳尻が合いません!」
「な、なんだとぉっ!?」
カウンターにビョルンの巨大な拳が叩きつけられ、書類の山が跳ね上がった。
「おい役所娘! 俺が命がけでゴブリン退治してきた報酬を、三銀貨もピンハネする気か!?」
「ピンハネではありません! 公金支出の数字が合わないと申し上げているのです!」
定時退社を賭けたアストリッドの戦いが、ここに幕を開けた。
(後編に続く)




