第七話 その魔物はどこの管轄ですか?(後編)
「あ、按分比率……!?」
スヴェン主任とガートルード隊長が、揃って目を白黒させた。
アストリッドは手元の公文書綴り――『王国地方自治令および公共施設境界紛争処理要綱』の第十四条を素早く開き、松明の火にかざした。
「条文を読み上げます。『行政管轄の境界線上において発生した災害防除役務について、被害発生源および防除対象が双方の管轄区域に跨がる場合、関係部署はその危険度および実被害比率に応じて、公金支出を適切に分割按分しなければならない』」
「分割按分だと……!?」
ガートルード隊長が眉をひそめた。
「そんな面倒な手続き、この寒空の現場で瞬時に計算できるわけがなかろう!」
「できます。私が計算します」
アストリッドは木製算盤を構え、流れるような手つきで珠を弾いた。
パチ、パチパチパチ……!
乾いた小気味よい音が、夜の城門前に響き渡る。
「大猪の全長は約三メートル。頭部から胴体前半(約一・八メートル)が城壁の内側、胴体後半から後肢(約一・二メートル)が外側に位置しています。単純な体積比率は【六対四】。しかし、城壁の損壊リスクという『防衛被害想定』を考慮した場合、危険の主因である頭部・牙の存在する都市内区域の重要度は【六〇%】。一方、外部からの魔獣侵入経路を塞ぐ『環境管理責任』は【四〇%】となります」
「む……」
「したがって、本件の緊急討伐報酬総額【銀貨三十枚】の内訳は、以下の通り厳密に按分されます」
アストリッドの指先が、算盤の枠をトンと叩いた。
「都市防衛および基礎石防護の緊急役務として、都市警備隊の治安予算から【六割――銀貨十八枚】。都市外周魔獣の駆除管理役務として、魔獣害対策課の害獣駆除枠から【四割――銀貨十二枚】。……これであれば、どちらの部署も単独予算を破綻させることなく、財務規則に完全に準拠した合法的な共同支出が可能です!」
「な……!?」
「銀貨十八枚……!」
ガートルード隊長が絶句し、スヴェン主任がハッと顔を上げた。
「じ、十二銀貨……! 三十銀貨全額を被るより、半分以下で済むのか……!?」
「ですがアストリッド君、警備隊が十八銀貨の支出決裁を現場で承認してくれるかい……?」
「承認していただきます」
アストリッドは冷徹な眼差しで、隊長を真っ直ぐに見据えた。
「ガートルード隊長。もしこの按分提案を拒否され、議論が長引いて南門の閂が破壊された場合。市街地への魔獣乱入による民間被害の賠償責任、および城壁基礎石の修繕費用【概算金貨十五枚(銀貨千五百枚)】は、すべて現場指揮官である貴方様の『初動遅延による重過失』として警備隊単独の請求となりますが、よろしいですね?」
「ひ……っ! き、金貨十五枚の修繕費だと……!?」
隊長の額から、大粒の汗がドッと噴き出した。
「さあ、ご決断を! 銀貨十八枚の緊急按分出捐か、金貨十五枚の過失賠償か! どちらが貴方様の部隊にとって合理的な支出か、数字を見れば一目瞭然です!」
「ぐ……ぬぬぬぬ……っ! わ、分かった! 警備隊の防衛予備費から十八銀貨、即時支出を承認する!」
「主任! 魔獣対策課側も、十二銀貨の専決承認を!」
「し、承認する! 承認するよぉぉ!」
二人の管理職の悲鳴のような承認の声が重なった。
「双方の合意を確認いたしました!」
アストリッドは懐から即時発行用の複写契約書を取り出し、二人の署名と決裁印を電光石火の早業で取り付けた。
「受託番号〇三九五、『境界区域緊急共同防除契約』締結完了! 受注者は登録冒険者ビョルン殿! 総額三十銀貨――公金支払いを保証いたします! ……ビョルンさん、やってください!」
「っしゃあぁぁぁぁっ! 話がついたなら容赦はしねえぜ!」
待ちわびていたビョルンが咆哮を上げた。
長槍部隊が一斉に散開し、大剣を両手で構えた巨漢が、大地を蹴って跳躍する。
「ブゴォォォッ!?」
大猪が突進しようと頭を下げた、まさにその刹那――。
ドォォォォン!!
夜気を引き裂く轟音とともに、ビョルンの渾身の大剣が、大猪の眉間目掛けて振り下ろされた。
分厚い頭蓋骨を一撃で粉砕された巨獣は、一声の悲鳴を上げる間もなく、ドスンと城門前の敷石の上に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「……討伐、完了だ!」
大剣を肩に担ぎ、ビョルンが豪快に笑った。
周囲の警備兵たちから、ワッと歓声が沸き起こる。
「ふう……っ」
アストリッドは長く、白い息を夜空に吐き出した。
手提げ金庫から銀貨を取り出し、警備隊の出納掛が持参した銀貨と合わせ、きっかり三十銀貨をビョルンへと手渡す。
「受領書にサインをどうぞ。……お疲れ様でした、ビョルンさん」
「おう、助かったぜ嬢ちゃん! 役所の揉め事を現場でスパッと割り切っちまうなんざ、大した度胸だ!」
ビョルンは満足そうに銀貨袋を受け取り、大剣の手入れを始めた。
現場の検証を終えたガートルード隊長が、兜を脱いでアストリッドの元へ歩み寄ってきた。
「……見事な手腕だったな、書記官殿。無駄な予算を食われずに済んだことには礼を言う」
「公務員として、規則と数字に従ったまでです」
「ふっ、堅物だが頼もしいことだ」
隊長は苦笑しながら、周囲の警備兵たちに大猪の解体と搬送を指示した。
そして、ふと声を潜め、アストリッドにだけ聞こえるような低いトーンで呟いた。
「……しかし、こんな市街地の目と鼻の先まで大型の魔獣が迷い込んでくるとはな。本来なら外周の開拓林で、冒険者たちが事前に間引いているはずなのだが」
「何か、気になることでも?」
「ああ。最近、森のパトロールがおざなりになっている。……それというのも、街の裏通りで『登録鑑札を持たない怪しいゴロツキども』が徒党を組み、夜な夜な小競り合いを起こしていてな。治安警備隊の人手が、そいつらの取り締まりに取られて森まで手が回らんのだ」
「……登録鑑札を持たない、ゴロツキ……」
アストリッドの胸の奥で、カチリと何かの歯車が噛み合う音がした。
ビョルンが話していた「潜り冒険者」。
昨日発見した「魔力照合パターンの合わない委任状」。
そして、街を牛耳る商工連合の影。
「そいつらの後ろには、かなり羽振りのいい大商人がバックについているという噂もある。……お前たちの窓口にも、近いうちに変なのが紛れ込んでくるかもしれん。気をつけろよ」
隊長はそう言い残すと、部隊を率いて城内へと引き揚げていった。
「…………」
夜風が冷たく吹き抜ける。
城門の向こう側で、遠く街の灯りが揺れていた。
「アストリッドちゃん、帰るわよ〜」
横から、ヘルガがのんびりとした声をかけてきた。
その後ろでは、スヴェン主任が「十二銀貨で済んだ……胃が破裂せずに済んだ……」と城壁に寄りかかってへたり込んでいる。
「……はい、帰りましょう」
アストリッドは算盤を鞄にしまい、空を見上げた。
時計塔の鐘が、重々しく午後七時を打った。
「……午後七時」
定時から、きっかり二時間超過。
アストリッドの腹の虫が、情けない音を立てて小さく鳴った。
今夜こそ、肉屋で買った特製ハーブソーセージをパキッと焼き、とろとろの溶かしチーズを絡めて、微発泡の林檎酒と一緒に味わう予定だったのに。
今から冷え切った部屋に帰ってフライパンを温め、チーズを溶かす気力など、微塵も残っていなかった。
「……主任」
「ひ、ひいっ!? な、なんだいアストリッド君!?」
「本日の緊急出動手当および時間外勤務手当の申請書、明日の朝一番で決裁印をいただきますからね」
「も、もちろん喜んで押すよぉぉ……!」
寒風吹きすさぶスコグハイムの夜道。
帰り道にある屋台の硬いライ麦パンを齧りながら、新米公務員アストリッドの戦いは、明日もまた続いていくのだった。
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