低セキュリティ宿舎
そのうち、仲間の1人が泣き始めた。
『なんも悪いことしとらん人らのとこ行って、いきなり殺して田畑焼くんか。オレら、何しとるんや。主君のために戦って、敵討って、褒美もらう。それが侍やぁ思っとった。立派な侍とは、こんなことするんか。オレは立派な侍になりたかった。でも、こんなんやったら、ならんでええ』
「『オレは鬼や』と泣いた」
香は、その話を聞きながら、泣いたのは、このおっさんかもしれない、と思った。
戦った後、日本へ帰れるのかどうかも怪しかった。帰ったところで、報奨などないだろうと言われていた。何人殺したかの申告は、戦の激しさと共に行われなくなった。日本での戦ならば、敵の首級を持って帰れば、それが誰なのか調べて褒美を決める。しかし、首を取っても、朝鮮の兵なのか、明の兵なのか、誰なのか分からない。
「皆、ただ日本に帰りたいだけだった。報酬よりも、生きて帰って家族に会いたい。それだけで戦い続けた」
脱走兵である男は、その望みすら絶たれている。それほどの地獄だったのだろう、と香は、独白する自分達と見分けがつかない顔立ちを見つめた。
日本が戦をしかけた理由は複数あると言われている。明を征服すること、世界へ日本が強いと示して侵害されないようにすこと、日本の中に分け与える領地がもうないこと、天下統一後の社会を安定させること。
「長い間、日本では武人達がトップ争いをしていた。それが終わって武人が余る。放っておくと力を持って、トップ争いがまた起こる。だから外へ向けた、とも聞いた」
それを聞き、香は疑問が生じた。
「武人達の力は削がれるかもしれません。同時に国もお金がなくなって、力がなくなってしまうのではありませんか?」
日本と戦ったことは、明の財政を圧迫している。
「そこは、地方の有力者が兵も兵糧も出す」
日本と明は違った。日本は、天下統一をした秀吉が命を出す。地方の有力者に兵を出させ、兵糧も用意させる。秀吉一人が全部払うわけではない。国の中枢、秀吉の懐は大きな打撃を受けない。
「明は強かった。とてつもなく大きな国だと聞いていた。どうせ脱走兵でどこに捕まっても極刑だ。それなら、死ぬ前に明を見てみたいと思った」
日本軍に捕まったら職務放棄で極刑。朝鮮軍、明軍に捕まったら捕虜となるのだろうが、このおっさんは、殺されると信じていた。
白露に腿の傷の手当を受けながら、男はたどたどしい言葉で語った。ときどき朝鮮の言葉も混じる。それでも、ほぼ明の言葉が通じた。長い逃亡生活。生きるために、異国の言葉を覚えたのだろう。
「北京は素晴らしい。こんなにも煌びやかな街を見られただけで、もう冥土の土産になると思った」
──冥土の土産。詩人。
香は、彼の言葉にセンスを感じていた。実は、単に日本語の言い回しだったのだが。
話を聞いているうちに、香のお粥はすっかり冷めてしまっていた。気づけば、おっさんのお粥も、米が水分を吸ってしまっている。しかし、白露だけは、鍋からおかわりをしている。
「白露、私もおかわり、残しておいてね」
香は慌ててお願いした。
「了解。じゃ、4杯でやめとく」
「え、まさか、それ」
「4杯目」
──いつの間に。
おっさんもおかわりをしたいのではないか、と香が顔を見る。と、
「いえ。私はお腹いっぱいです」
遠慮した。兵糧のない戦と長い逃亡生活で、胃が小さくなっているのかもしれない。
そして香は気づく。
「どーしよー。ご飯」
煮炊きする竈門は宿舎の外にある。逃亡兵は姿を見られては困る。竈門は煙が出るので、使うとバレてしまう。香がいる朝と晩しか使えない。買い食いには限界がある。北京の中心地は物価高。香はすでに自炊モード。
「お構いなく。雨風が凌げるだけで十分です」
当然、おっさんは遠慮する。
一番食べるだろう白露は「なんとかなるって」と楽観的だった。
少し離れた敷地に同じように大きな宿舎が3つある。乾清宮は完成したものの、坤寧宮、交泰殿、周囲の門や回廊などはまだ工事が続いている。今回、香が女ということもあり、特別に離れた宿舎に案内されたようだった。外にある厨房もそれらとは別なので、顔を合わせることはない。が、離れていても人の気配はバレるかもしれない。
役所がそばにあるから安全だと宦官が言っていた。つまり、脱走兵が見つかってしまう可能性も高いということになる。
ここは内城。まず、北京の街へ入る外城の門を通り、さらに内城への門の検問を通り抜けなければならない。
「どーやって入ったんですか? 偽物の身分証明を持ってるんですか?」
門には役人が立っている。小汚な過ぎる服装は、呼び止められて身分証明を求められること必須。浮浪者や流民は入れない。
「1つ目の門は、大勢の人が通るとき一緒に通った」
外城の門は、多くの人々や荷物が出入りする。紛れることは可能。内城の門は、白露が運んだのだった。
「私がカゴに入れて運んだの」
「じゃ、通れるね」
白露は、恐らくは皇帝の護衛をしている。つまり、最強の身分証明を持っている。
──おっさん、小さくてよかった。
「手当するために連れてきたの。ここなら、見つかりにくいから」
それには、香は甚だ疑問だった。
「見つかりにくいっけ? 役所近いんでしょ?」
すると、白露はすぐさま返す。
「坊だから大丈夫」
坊とは、北京の行政を担当する順天府の下にある、決まった区画の行政の実務、治安維持を行う役所である。但し、日の出から未の刻の終わり(15:00くらい)まで。つまり、夜間は脱走兵のおっさんも安心して行動できる。街をパトロールする警備の者達に見つからなければの話だが。
香は驚いた。宦官は「役所が近いから安全」と、この宿舎に案内してくれた。役所が近くても安全ではないと分かった。セキュリティがばがば。一応、香はうら若き乙女だというのに。
──あっぶな。おっさんいたら安心かも。
白露と墨竹は、宮廷に住んでいる。宿舎を訪れているのは気まぐれ。来ない日もあるかもしれない。しかし、おっさんはどこにも行けない。しかも、大勢の悪漢から女性を守った正義感溢れる武人。
──ちっさいけど。
香が灯芯の火を消すと、だだっ広い宿舎に暗闇が訪れる。
しばらくすると、目が慣れてくる。少し離れた場所に白露。おっさんは、宿舎の反対側の端に眠る。
宮廷の近くは平穏ではないのだと、香は感じでいた。大火、護衛、毒見、脱走兵、(狼?)。
◇
次の日、宿舎へ帰ると、掃除がしてあった。小さいおっさんがしてくれた模様。
「ありがとうございます」
「とんでもない」
「綺麗になったのは嬉しいです。だけど、あまり動かないでください。傷がまた開いてしまいます」
そんな会話の後、屋根だけがある竈がある方へ行く。井戸もある。薪は香が来た時にはすでにたくさんあった。
そこで湯を沸かしていると、墨竹の長身のシルエットともう1つ、グレーの宦官の服に黒い帽子が近づいてきた。
お読みくださり、ありがとうございます。
秀吉の朝鮮出兵の理由については、様々な説があるようです。脱走兵の目から見た世界ということで、さらっと通り過ぎてください。m(_ _)m




