小さいおっさんの話
「あ、ねえねえ、寝ちゃったのは、いーの? 皇帝のお気に入りってこと? 恋人的な人?」
「チンギス、このバカを噛め!」
香の質問に、墨竹は憤慨する。
「なに。ちょっと訊いただけじゃん」
「どーゆー思考回路なんだよ」
「BL皇帝は今までもいたじゃん。ほら、お気に入りの宦官が自分の袖の上で寝ちゃったから、袖を切り落とした人とかさ」
「そんなんばっか、知ってんのな。ちゃうわ」
そして、香は妙な匂いだったことを思い出す。
「変な匂いだったんだよね。薬?」
「忘れろ」
「あ、当たりだ」
墨竹は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「眠くなる薬なんだ?」
「知らんし」
「怪我、酷いの? ほら、私、手すりの傷消してるじゃん。なんかあったの?」
「もう喋んなよ」
墨竹にぎろりと睨まれ、香は、洛についても話題にしようとしていたが、慌てて口を閉ざした。のも束の間。香はすぐに話し出す。
「仕事してた」
「ん?」
「万暦帝」
「敬語使えって」
「なんか、いっぱい紙を読んでいらっしゃった」
「勤勉なお方なんだ」
墨竹は、世間とは真逆のことを言ったのだった。
夜。油灯の灯りの傍。もふもふと泣きぼくろ様との優しい時が流れる。香の左の鼻の穴に塵紙がなければ、完璧である。
だだっ広い宿舎であっても寂しくない。昨晩は、白露と食べ物の話をたくさんした。香の仕事が終わったら、美味しいお店に行く約束までした。ところで。
「そーいえば、墨竹と白露って、ここの鍵、持ってんの?」
香はチンギスにも尋ねたい。鍵をかけて出かけたのに、帰ると墨竹とチンギスがいた。
「ここは、セキュリティがばがばだから、簡単に入れる」
そう言うと、墨竹は音もなく飛び上がり、天井の梁にぶら下がった。その先は、灯りが届かず見えなかった。そして。
トントン
屋外から、出入り口の扉を軽くノックする音。
「オレ。墨竹。入れて」
香は驚きながら鍵を開け、墨竹を招き入れる。
「すごーい」
思わず、ぱちぱちと手を叩いて賞賛。
「こいつの出入り口は、こっち」
言いながら、墨竹は香を手招きする。香が油灯の小皿を持ってついて行くと、建物の壁の板を打ちつけてある部分が剥がれ、板がかぱかぱと開いたり閉じたりするようになっていた。
「あははは。チンギス、ここから入ってるんだね」
役所が傍にあるから安全と聞いていたが、狼は入れるわ、人も出入り自由だわ、全く安心できない。
──大丈夫! 白露と墨竹はとっても強いはずだから。
乙女として、墨竹には、大丈夫でないことをうっすら望んでいた。
◇
翌日は雨。
香は傘の用意をしていなかったので、城門まで走った。幸い、そのときは小雨。迎えてくれたいつもの宦官は、帰るときに傘をくれた。ありがたかった。
宿舎には、白露とチンギスと、見知らぬ小さいおっさんがいた。
「おかえりー。香、この人、しばらくここで暮らすから」
それはそれは薄汚い男だった。座った状態だったが、背は女である白露や香よりも低く見える。痩せ、乞食のように擦り切れた服には血がついていた。そして、ボロい身なりに不釣り合いなぴかぴかの刀を脇に置いている。
「怪我してらっしゃるの?」
ベッド部分の段に腰掛けて寛いでいるところから、傷の処置は終わっているのだろう。
「すまん。行くところがない」
とおっさん。
香は、正直に言えば、小汚いおっさんが嫌だった。ノミやダニを持っていそうに見える。どこの誰とも分からない。何よりも、白露と楽しく喋ったり、墨竹とどきどきのシチュエーションを楽しんだり、できなくなってしまう。が、怪我人。しかも、白露に言われては仕方がない。
白露は説明した。
「この人、女の人が絡まれてたの助けたんだよ。めっちゃガラ悪いヤツら大勢で、他のみんなは見て見ぬふりしてたのにさ。で、やられそうになってたから連れてきた」
「かたじけない」
そう聞くと、香の警戒心は解けてきた。
「かたじけない? 軍人ですか?」
香が何気なく尋ねると、おっさんはびくっと肩を揺らした。
「え、ああ、まあ、そんな、感じ、です」
歯切れが悪い。そして、男はとても喋るのが下手。イントーネーションが不自然なのだった。
白露は興奮気味に話す。
「めっちゃ強いんだよ、この人。刀で斬るの、速い速い。見えないくらい。敵、10人以上だったんだよ」
「すごーい」
2人で小さいおっさんを見ると、彼は少々恥ずかしそうに視線を逸らした。
「いえ。その帯刀していた男達が10人以上で女性に乱暴狼藉を働こうとしていたので。これは武人の風上にも置けぬと思いまして」
その言葉を、香は不思議な喩えだと感じた。
──風上に置けぬ。へー。このおっさん、詩人。
白露はおっさんの刀を見せて貰い、「ヤバイ」を繰り返している。
「ヤバッ。日本刀じゃん。かっけー。高いんだよね」
身なりに不釣り合いな手入れの行き届いた高価な日本刀は、おっさんが武人=軍人であることを示している。
そうこうしているうちに、野菜入りのお粥ができあがり、3つの器が並んだ。だんだん寒くなる季節、しかも外は冷たい雨。熱いお粥は身体中が温まる。香も白露も、テーブルに器を置き、匙でお粥を掬う。おっさんは、背筋を伸ばしたまま器を持ち上げて口元に近づけ、匙を使っていた。
香は、以前どこかで耳にした話を思い出した。海を渡った向こうの国では、食事のときに器を持ち上げて食べるのがマナーなのだと。
「ひょっとして、日本人ですか?」
おっさんは器を置いて椅子から転げ落ちるように後ずさり、地面に平伏した。
「どうか、どうか、命ばかりはお助けを」
慌てて白露が彼を立たせる。
「ダメだって。そんなことしたら脚の傷が開く」
案の定、包帯に血がだくだくと滲み、手当をし直す羽目になった。白露は、血に染まった布をはずし、傷口に丁寧に薬を塗っていく。
おっさんは、5年前、日本史でいう「文禄の役」のとき、隣の国、朝鮮に来た日本兵だった。その戦いは一旦小康状態となったが、現在は2度目の「慶長の役」の最中である。市井で噂の「万暦帝が隣の国の戦に兵士をざくざく送っている」泥沼の戦である。
「地獄だった。だから逃げた」
男の声が蝋燭の灯りの中でぽつりと落ちた。
長い船旅の果てに朝鮮に到着し、そこで戦えと言われた。
日本の国内であれば、領土を巡って争う大義名分は分かった。しかし、見知らぬ土地。朝鮮を通って、明をやっつけるのだと聞いた。見知らぬ場所でとにかく攻撃し、田畑を焼いた。後方支援の食糧はなかなか届かず、飢え、「明ってどこだよ」と思いながら戦った。
今まで参加した、どの戦とも違った。それは海を渡ったという地理的なことだけではない。飢えの厳しさ、目的の不透明さ、希望のなさ。「あの城を落としたら勝ち」というものではなかった。延々と先があり、明の兵士と刃を交えていたらしいが、肝心の「明」という巨大な敵がどこから来ているのか分からなかった。




