仕事してんじゃん?
「じゃな」
洛は、天橋を1階へ下りていった。
──なんか、洛って、暇そう。
香が見張りの宦官を窺うと、視線を逸らされた。何事もなかったフリをしなければならないのだろう。香もそうした。
この日は、前日と同じ暖閣の前に数人が佇んでいた。
4日目。香は、両側から人に支えられて歩く万暦帝を見た。
2階の手すりから、ベッドがある奥側の暖閣以外の階下を見渡せる。仕切りに阻まれて、或いは遠過ぎて見えない場所はあるのだが。
1階にいる万暦帝は椅子に座ると、目の前の机の上に山のように積み上げられていた書類を1つずつ手に取っていた。
長く観察することは憚られる。香は、2秒ほど立ち上がり、万暦帝を視界に入れ、座る。これをしばしば行った。
顔は見えない。
──丸い。白い。いいモンいっぱい食べてそう。
万暦帝はぽっちゃりしていた。
ひたすら蛇腹折りの書類を手に取り、読んでいる。筆を持っている姿のときもあった。時折、話し声が聞こえる。離れていても同じ一つの空間。地方の地名や人の名。旱魃の被害、収穫高、役人の不正の話の断片である。
香は首を傾げた。万暦帝といえば、ニートで有名。
──あれ? 仕事してんじゃん???
どう見ても、仕事をしている様子。読んでいるだけなら仕事と言わないのだろうか。しかし、世間の噂では、政務にノータッチなのだ。
万暦帝は市井でバカにされている。ニートで引きこもり。原因は、寵姫の子を次の皇帝である皇太子にしたいと言い出し、我儘が通らなかったから。拗ねた。しかも、寵姫の子が生まれたころに言い出したらしい。皇太子候補である長男がすでにいる状態で、赤ん坊を推すという愚かさ。
他の皆と同様、香も、万暦帝はアホだと思った。
かと思えば、自分のお墓を造ることに莫大な費用をつぎこんだらしい。それは10年も前の話。近々では、隣の国のピンチのために、自国の兵をざくざく送っているという。遠くて長期。戦費は巨額。いつもは何も仕事しないくせに、変なことだけ首を突っ込んでいらんことをするという印象は、香だけでなく世全体のもの。
万暦帝は、香が乾清宮に出入りするようになって4日目、初めて姿を現した。恐らく3日間は床に伏していた。現在、人に支えられないと歩けないという状況らしい。たまたま今、怪我をしている可能性がある。
香は、まだ手すりに残っている刃物の痕を見た。
庶民には皇帝の話など届かない。全て噂が頼り。
「すみません。*浄房へ行きたいのですが」
雅な場所であっても、生理現象はどうしようもない。香が告げると、見張りの宦官は、無言で彼女を浄房へ案内する。すでに4日目、場所は分かっている。しかし、外部の者が勝手に歩くことは許されない。
浄房から戻るとき、あの妙な匂いが香の鼻を掠めた。香を見張っている宦官は立ち止まり、少し左によって道を開ける。後ろから金糸模様の宦官が何か布で覆った盆を持ち、静々と通り過ぎていった。金糸模様の宦官、そして洛が落としていった手巾に染みていたものと同じ匂い。
──薬?
香は気になった。仕事中、しばしば立ち上がり、2階の手すりから万暦帝を見た。やや離れている、斜め後ろから。
薬らしきものを飲んだのは金糸模様の服を着た宦官だった。
──は?
しかし、しばらく作業をした後、ふとそちらに目をやると、同じ盆から茶器を取り、万暦帝が何かを飲んだ。
──変なの。主君よりも先に宦官が飲むなんて。怒られないの?
特別に大切にされている宦官なのかもしれないと、香は思い直した。そしてなんと、その宦官は椅子に座って船を漕いでいるではないか。寵姫が産んだ息子を皇太子にしたがったり、特定の宦官を好き勝手させたり、万暦帝はエコ贔屓が甚だしい、と香は呆れた。
◇
宿舎に帰ると、墨竹とチンギスがいた。香は早速、どーなってんだと物申した。
「いくらなんでも、宦官が先に飲むなんて。でもって、その人、寝ちゃったんだよ?!」
墨竹は、まぶたを重くし、目を細めた。
「毒見」
と一言。
「毒見?」
「皇帝陛下が口になさる物は、全て毒見がされるの」
「へー。だから先に飲んだんだ」
「そ」
「だいぶ間があったよ」
「どこまで見てんだよ」
「たまたま視界に入ったの」
「もしも毒が使われた場合、即効性があるものとは限らないから、安全が確認できるまで、しばらく様子を見るんだよ」
「だからなんだ。ふーん」
納得した香を見た墨竹は、ベッドの台の上でチンギスを抱っこしてモフり始める。
「皇帝って、ちょっと喉が渇いたからって、水もお茶もすぐ飲めないんだね。かわいそ」
香の言葉に「分かったか」とでも言うように、墨竹は口を一文字に結んだまま、肩をすくめた。
皇帝には、毒見が必要。
皇帝は体を支えられて歩いていた。恐らくは寝込んでいた。
墨竹は誰かを斬った。
白露と墨竹は交代で護衛をしている様子。ならば、それは夜中も含めた1日交代、24時間体制。
乾清宮は2年前火事に遭った。三大殿は6月、全焼。
香は、皇帝の周りの物々しさを頭の中で列挙し、ぞっとした。香が知るだけでこれだけある。乾清殿の手すりに傷がついた類のことは、他にもあったかもしれない。燃え広がりはしなかった消し止められた不審火もあったのかもしれない。そう考えると、もはや万暦帝に命があることが奇跡にすら思えてくる。
──だったらベッドが27もある理由は1つ。暗殺防止。
辿り着いた答えを、香は墨竹に確認しなかった。それしか考えられなかったから。
オフの墨竹は、柔らかな笑顔でチンギスの耳を耳の穴の中に入れて遊び、チンギスは迷惑そうにぷるぷると首を振る。浅葱色の服に油灯の小さな炎でできるシワの陰影。顔だけでなく、姿勢、佇まい、服のシワまでgood。香は、左目の泣きぼくろに、いつかそっと触れてみたいと思った。
──いーなーチンギス。
今度は全身をわしゃわしゃと撫で回され、チンギスは、気持ちよさそうにぐーぐーと喉を鳴らし、墨竹の首に自分の首を擦り付ける。そしてそのまま墨竹を押し倒し、仰向けになった彼の胸に、ぎゅうぎゅうと体を擦り付ける。
「あはははは。参った。参ったって、チンギス」
戯れながら、墨竹はチンギスをホールド。チンギスはそこから抜け出そうとじたばた暴れる。羨ましすぎると思いながら、香は、自分がチンギスのようにされたら、と想像してしまった。
──きゃー、きゃー、きゃー♡ そんな、あの手で全身を?!
想像しただけで、心臓が止まりそうになるのだった。
「香、鼻血出てる」
「えっ」
左の鼻の穴が生暖かい。
「鼻くそ、ほじりすぎだろ」
「違うし!」
抗議する間もなく、香は、素敵な泣きぼくろ様のご尊顔のどアップを見ることになった。鼻の穴に塵紙を詰められたのである。心配してもらえたことは嬉しかった。が、乙女の鼻の穴に塵紙を突っ込むとは。
──墨竹ってぜっっっっっっったいにカノジョいない。
*浄房……トイレ的な場所のこと




