おっさんへの面会者
グレーの宦官の服は洛だった。
部屋の中でも、手にはーっと息を吹きかけて擦り合わせている。夜は肌寒い。暗い中にぼおっと白く浮かび上がる肌は、彼が労働階級でないことを如実に表す。
「突然来て、悪い。香。どうしても、ここにいる御仁と話したくてさ」
洛は、一応、現段階のここでの宿泊者である香に断った。
香は、じとっとした目を洛に向ける。不満がある。今更どうしようもないのだが。すでに小さいおっさんがやってきたときから、墨竹とチンギスと香の幸せなもふもふタイムはなくなってしまった。だからといって、洛まで邪魔しに来るとはなにごとか。
──皇子なら皇子らしく宮中に引っ込んでろ。
本人に確認はしていない。しかし、洛は皇子だろう。なぜ宦官に扮しているかは不明だが、高価な腰佩に、皇子と親王しか許されない四爪龍。宦官の「殿下」という呟き。
香が宮廷に来た2日目、洛は人をかき分けて逃げてきた。皇帝の側近達である宦官のトップ層を、かき分けて進む身分の者。
落とされていた湿った手巾には濃い薬の匂いが染みていた。それは、薬を手巾で拭ったということ。皇帝のこぼした薬、あるいは口元かもしれない。それを拭えるのは、よほど近しい人間。
香は不機嫌を隠せなかった。
「どーぞ。」
とぶっきらぼうに答える。
幸い洛は、小さなことを気に留めないタイプらしく、香の言葉を単なる許可としか受け取らない。即、小さいおっさんの方へ歩いて行った。
「お茶淹れるよ」
と香が立ちあがろうとすると、墨竹が優しく制した。
「座ってれば。オレがする」
言いながら、どさどさと食べ物を出す。
「わぁ、いっぱい!」
「仕事お疲れ」
──なんと尊いお言葉。泣きぼくろ様のイケボに癒される〜。
「ありがとう」
「金出したのは洛だから」
どう見ても、数人で3日分以上の量。饅頭や野菜、粟、米、肉の塩漬け、串焼きなど。香は、離れた場所に行った洛にお礼を言った。
「洛、ありがとう」
小さいおっさんと喋ろうとしていた洛は、振り向いて人差し指を口の前に「しーっ」と立てる。
洛がおっさんに用があるなら、香は墨竹と2人で過ごすことになる。
──ぅふ。
しかし、洛は、おっさんを香がいる傍まで連れてきた。気を利かせるつもりはないらしい。もっとも、洛は、香が墨竹を気に入っていると知らないから、当然といえば当然。
──くっ。
テーブルは、10人以上がゆったりと囲めるほどのサイズ。いつもは出入り口に近い端っこが定位置だった。
今回、香は、テーブルの真ん中に食べ物を並べた。料理が必要な食材は別の場所へ追いやった。
洛と小さいおっさんは、戦について話し始める。その内容は、昨日、香と白露が聞いたもの。
昨日いなかった墨竹も、淹れたてのお茶を配りながら、深刻な話に耳を傾ける。香は、墨竹が焼いた香ばしい肉を頬張り、テーブルの上に並ぶ食べ物に手を伸ばす。
一通り話が終わった。小さな質問が何度もやりとりされ、洛は真剣な顔で頷くことしきり。
お茶を一口飲んだあと、洛は大きくため息をつく。
「朝廷では戦をするかしないかって言葉だけだ。でも、実際に戦う兵士達は生死を賭ける。それは、明の兵士であっても日本の兵士であっても一緒なんだな」
香はもぐもぐと肉を噛み締めながら、なに当たり前のことしみじみ語ってるんだろ、と思った。
洛は感極まった様子で、小さいおっさんの両肩の擦り切れた服の上に手を置く。
「聞かせてくれてありがとう」
香は疑問を禁じ得なかった。師匠の金言『何も訊くな。何も気づくな』は頭の片隅にあったものの、洛のフレンドリーさに思わず尋ねる。
「どーして、隣の国の戦に明が出しゃばったの? 自分の国じゃないのに、いっぱい兵士を送って、国のお金をいっぱい使って。うちらの血税をよその国に使うってどーよ」
すると、洛は説明した。
「日本は最初から明を狙ってたんだよ。隣の国に『明攻めるから、通らせろ』っつった。そしたら、お隣さんはいい国で『何言っとるか! 通すわけにいかん』って。明が兵を送るのは当然じゃん。隣の国が頑張って止めてくれたから、明の国は戦場になってない」
洛の言葉に、墨竹は大きく頷いている。香も納得した。
「そーだったんだ」
市井の噂には、そんな経緯は入っていなかった。
「皇帝陛下は、官僚達と激しく対立してる。でもって、官僚は民衆側。だからどーしても、皇帝陛下にとって不利な形で広まっちゃうんだよね。マジでどーにかしたいけどさ」
洛は飄々としていた。
「いっそのこと、全てを白日のもとに晒すことができればと思う」
と、墨竹は険しい顔をする。
「それはできない。皇帝陛下には皇帝陛下のお考えがあってのこと。でもさ、オレは、もうちょっと官僚とうまくやればって、ちょっと思ってる」
万暦帝が官僚とバッチバチになったのは、色々なことが折り重なっているのだと洛。
「突然来て、めんどくさい話して悪かった。食事にしよう」
洛の言葉で、ようやく香以外も食事を始める。が、不自然に墨竹が洛の食事を邪魔する。洛が肉に手を伸ばすと、さっと肉を掠め取って食べ、饅頭を掴めば奪い取る。とうとう洛は業を煮やした。
「今日はいい。絶対に毒なんて入ってない。ここは後宮じゃない。景陽宮でもない」
驚いたのは、おっさんだった。
「毒?!」
洛は気まずそうに口をへの字にした。
「食事中にすまない。オレ、訳あって、命を狙われがちで」
──「がち」って何。
香は巷で流行っていた童歌を思い出す。
〜〜長は冷宮に入れられて
鬼門に幽閉 日のめ見ず
後宮の牢"けいようきゅう" 後宮の牢"けいようきゅう"〜〜
「え、え、え。洛、景陽宮に住んでんの?」
「……まあ」
ということは。
「長。長男?」
「いや、宦官」
この後に及んで、洛はごまかそうとする。香は墨竹を見た。ら、あからさまに視線を逸らされた。
──じゃ、洛が万暦帝に虐げられてる皇子じゃん。
「酷いよね。嫌いな女が産んだ子供だからって、皇太子にしないとか」
洛を皇子だと確信している香は、考えなしに口に出してしまった。それは、ただ寄り添おうとしただけの言葉。少し考えれば、簡単に言ってはいけないと分かる。後悔しても遅かった。
「オレのことはいい。父と母を悪く言うな」
洛は、反射的に言葉を発した。
「「「……」」」
すでに小さいおっさんは空気を読んで傍観者を決め込んでいる。墨竹は立場上、発言を控えている模様。香は、ことがことだけに突っ込みようがなかった。
──思いっきり、自分が1番上の皇子だって認めてるじゃん。
「事情があるんだって」
と洛が言葉を落とす。そして、自分が皇帝の長男であることを告白したのだった。
洛の本当の名は、朱 常洛。




