サバイバル皇子宦官
万暦帝が洛を皇太子と認めないのは、万暦帝が洛とその母を深く愛していることにあった。
宮廷という閉ざされた世界では、昔から流産、夭折、そして原因不明の早世が異常なほど多い。
洛が生まれたころ、後宮に美しい女性が入内した。美しいだけではなく、華やかで野心のある女性だった。あっという間に寵姫となった。ところが、悪い噂がまことしやかに囁かれる。
身籠ると、薬がプレゼントされ、飲めば流産する。何者かに転ばされたり腹を攻撃されたりする。子が生まれても目を離すと亡くなる。乳母が殺される。それらは、見事に寵姫以外の妃の身に起こった。ことに、洛の母親と洛は、何度か命を落としかけた。
『子供の命が大切です。我が子を皇帝にしたいなど、そのような大それたことは望んでおりません。どうか、お捨て置きください』
洛の母親は涙ながらに万暦帝に訴えた。
そうして、万暦帝は洛とその母親を守るために、2人を冷遇したのだった。
流産や子の夭折、早世が多い原因は定かではない。寵姫が怪しいというのは噂に過ぎない。しかし、万暦帝が洛とその母親を冷遇し、朝廷に寵姫の息子を皇太子にすると宣言してから、洛の母親への攻撃はぴたりと止んだ。洛に関しては、未だ命を狙われている。
「だから、オレと母は、他の妃らとの交流を断ったんだよ。オレは、今んとこ、顔バレしてない。で、宦官として父に会ってるんだ」
洛が宦官に扮しているのは、父親に会うためだった。
「だから、女の人達が来たとき、逃げてたんだね」
香は、仕事2日目、洛が香のところで空気椅子をしたことを思い出す。
「そ」
冷遇されていること、周りとの交流を断っていることは、功を奏している。
皇帝、皇后、皇太子は、輿に乗り、何人もの宦官や侍女を伴って宮廷内を移動するもの。目立つ。しかし、冷遇され、皇太子と認められていないので、洛は徒歩。目立たない。宦官の服装であれば特に。誰にもその立場だと気づかれない。
そして、皇太子であれば幼少のころから皇太子としてのスーパー教育を受ける。が、13歳になってやっとその教育を受けることになった。これは、父である万暦帝自身が、かつて自分が幼少期に受けた厳しすぎる教育に強い憤り感じていたことにも理由がある。夜明けしばらくしてから、1に勉学、2に勉学、授業が終わっても夜は自習の強制。
皇太子であれば、幼少のころから輿に乗り、早朝から勉学に向かうのである。内廷と外朝との境にある正規の門、乾清門を通って、外朝にある文華殿まで。
しかし、冷遇されている洛は、宦官や侍女達が使っている裏ルートで内廷にある後宮から外朝の文華殿へ徒歩通学。
権勢を振るっている寵姫は、後宮の西六宮の1つに住んでいる。一方、洛母子は東六宮の端。文華殿は宮廷の南東にあるので、洛は宮廷のメインストリートを通ることなく、南へ行けば文華殿に到着できる。寵姫から洛の通学は目撃されない。
香は、そこまでしなければならないことに、顔を曇らせる。
洛は、後宮の異常さを訴えた。
「皇帝の子は、これまで16人も生まれてる。でも、今も生きてるのは6人だけ。生まれることなく、流れてしまった子もたくさん。母は3回の流産。他にも20人くらいの妃たちや、それ以外の宮女や侍女の中にも流産した者たちが多くいる」
──ヤダヤダヤダ、何それ、怖い怖い怖い怖い。変。何人の女に手ぇ出してるわけ。きもっ。
洛が訴えていることとは別の部分に怖さを感じる香だった。
「おかしいだろ?」
と洛が香に同意を求めたとき、香は思い切り頷いた。
「うん」
愛のない子作りはおかしい。愛があったと言うなら、もっと信じられない。というのが香だった。
そんな胸中など、誰も知らない。
墨竹はおっさんに尋ねた。
「日本では、無事に育つのはどれくらいですか?」
おっさんは「半分もいない」と答えた。このころの明も庶民の間では、半分くらいか、それ以下といったところ。
巷で流行る童歌では、景陽宮は冷宮だと歌われている。香は聞いてみた。
「景陽宮って冷宮なの?」
歌では鬼門らしい。
「ん? 冷宮?」
イメージでは、後宮の、鬼門である北東の角にあり、日当たりが悪くて壁にカビが生え、庭は雑草でぼうぼう。門には外から鍵がかけられて、食事だけが小さな窓から入れられる。ぼろぼろの服で、仕える侍女もいない。
「えーっと。後宮の北東にある?」
「北東? 確かにメインの12の宮の中では北東だけど、景陽宮より北にも東にも北東にも建物はたくさんあるよ」
「幽閉されてるの?」
「幽閉? それはない。オレ、出歩いてるじゃん」
「そっか」
先の説明で聞いた。宦官に扮しているとはいえ、西にある寵姫の宮から見えないので、自由に出歩いている様子。しかも、普通ならば皇子や皇女は宮廷の外へ出られない。洛は宮廷の外の皇城の外にあるこの宿舎まで来ている。
市井の噂などあてにならないと、香は分かった。もとより、宮廷内の内情など、外の者は誰も知らないのだ。
「官僚たちが、オレのことを皇太子にしろって言っててさ。皇帝陛下にとっては、国のトップであるはずの皇帝の意見が通らないってゆー、重大問題。絶対的な権限がどこにあるのかっていう」
後宮内の不確かな内情を晒すわけにいかず、皇帝は洛を皇太子と認めない。官僚達はそのことを激しく攻撃している。これに皇帝が反発するのは、「皇帝の権威」という別の問題を孕んでいた。
「そっか。そーゆーことだったんだ」
香は納得した。しかし、だからといって、皇帝が朝議に出ないで引きこもっていいことにはならないと思った。引きこもりつつ、実は仕事をしていたとしても、誰も分かってくれない。そこは万暦帝が悪いのではないか、と香は考える。
洛の住む後宮まで、宿舎からは宮廷と皇城、2つの門を通らなければならない。いや宮廷内にも数々の門がある。門は、夜になれば閉ざされる。夜間に通行するには、それなりの理由と手続きが必要になる。
「オレ、ここに泊まる」
洛は宣言した。
「はい。」
相手は皇子。それも将来の皇帝第一候補。庶民の香が断れるはずもない。
「これが、布団?」
洛は布団の薄さに驚き、
「枕は?」
枕がないことに困り、
「え、まった。ちょっと、真っ暗。墨竹、手ぇ繋いで」
香が油灯を消すと怖がった。
──なんですって。泣きぼくろ様と手繋ぎ就寝。許さん!
──だったら寝るな。1日くらい寝なくても死なないし。
香は、さすがに思ったことを口に出さなかった。
朝、墨竹と洛はいなかった。
おっさんはいた。
べろべろべろべろ
昨晩いなかったチンギスが、残っていた豚肉の骨を一心不乱に舐めていた。
「おはよ、チンギス。昨夜来なかったね」
「くーん」
すると、小さなおっさんが、折り畳んだ紙を香に差し出す。
「落とし物です」
「ありがとうございます」
なんだろうと思いながら広げて驚いた。
「っ!」
それはトップシークレット。




