トップシークレット
箇条書きになっている。各地の鉱山からどれほどの税を徴収したかの数字。地方へ赴任した税監からの、塩商と役人の癒着と不正の極秘報告。南西の播州で起こっている反乱の詳細。朝鮮半島における、日本軍との戦いの様子。
おっさんは明の言葉は覚えたけれど、文字は読めない。 香は、書かれている中から、明と日本の戦いの状況についてのみ、知らせた。
「日本軍が撤退しそうだって書いてあります。ある将軍のところに日本側から『引き上げるときに攻撃しないでくれ』って賄賂を贈ってきているみたいです」
「そうですか」
帰国を諦めているからか、おっさんは驚かなかった。
「そう言ってくる拠点もあれば、猛烈に攻撃をしかけてくる拠点もあって、統制が取れていないのだとか。日本側に何かがあったのだろうと書いてあります。戦は日本のトップにいる男の独断的なもの。トップの力が弱まったのか、トップが亡き者になったのか、と」
「あの戦は早く終わった方がいい」
おっさんは、朝日が入ってくる扉を見て言った。
香は尋ねる。
「本当に日本に帰らなくていいんですか? 撤退する前なら、船に乗れますよ?」
おっさんは首を横に振る。
「私は戦の最中に逃亡しました。戦死したことになっているはずです。このままであれば、家族に迷惑はかからない。生きていたことが分かれば、船に乗るどころか、その場で殺される。家族は汚名に塗れます」
香は、それ以上、何も言えなかった。「いつか日本に帰れたらいいですね」と言おうとして、やめた。
それにしても、である。この紙を落としたのは、間違いなく洛。墨竹が「比較的、最も落としちゃいけない物を落とされる」と言っていた。香は、その紙を大切に懐に入れ、少々びくびくしながら仕事に向かった。
──洛って、皇帝に会ってるみたいだったよね。政治の話をしてるってこと? 皇子だから、一緒に国のこと考えてるのかな。まさかね。あの暗闇が怖くて手繋ぎ就寝の洛が。
童歌が頭の中で流れる。
〜〜長は冷宮に入れられて
鬼門に幽閉 日のめ見ず
後宮の牢景陽宮 後宮の牢景陽宮〜〜
〜〜幼の御殿はきらびやか
宝を抱いて 陽を浴びる
長幼逆さで世は乱れ 長幼逆さで城は燃ゆ〜〜
真実を知らない人々から生まれた残酷な童歌だった。
◇
昼間。香は、仕事の見学に来た洛に、大切な紙を渡した。
「あったぁぁぁ。やっべー。めっちゃ焦ってた」
その軽すぎる反応に香はどん引く。
「見つけたのは、あの日本の人。言葉は分かっても文字は読めないから、大丈夫」
──日本軍が引き上げそうってこと喋っちゃったのは、黙っとこ。
「そっか。塩商についての税監の件は漏れると人が殺されるような案件だし、日本軍が引き上げるかもしれないことに関しても、明確なことが分かっていないから、混乱を招く。拾ってくれたのが、あの御仁と香でよかった」
この日の洛は、すぐに退散した。落とし物があったのかを香に確認しに来ただけかもしれない。後ろ姿を見送りながら、香は、皇太子としての役割を少しはしていそうな洛に安心したのだった。
香は牡丹の下絵を掻き上げ、背景から彫り進めていく。
万暦帝は見かけた。けれど、彫ることに夢中になっていて、観察しなかった。興味を失ったというのもある。
ニートで引きこもりで我儘で、破格の暗君というイメージが崩れた。実は仕事をしているなら、普通の皇帝である。面白くもなんともない。
はちゃめちゃな酒池肉林生活や残虐の限りを尽くす様を垣間見てしまった方が、国にとっては困ったことだが、庶民にとっては話のネタになる。もっとも、その場合、たとえ一介の彫刻家であっても、外部の人間は生きて宮廷から出ることなどできないだろうが。
この日、仕事を終えて皇城の門を出ると、兄弟子がいた。
「よ、香。お疲れ」
「あ、兄さん」
兄弟子は、残念なお知らせを持ってきた。
「師匠がさ、腱鞘炎になっちまった。とても仕事できる状態じゃねーんだわ」
「ええっ」
「どーだ。香の牡丹の方は。1人でできるか?」
「今、1人でやってます」
「だよな。1人でやるしかねーよな。でもって、オレらも忙しくてさ」
「はあ」
「1人でやってくれ」
「そんな」
「オレなんて、これから出発して明日から泊まりの仕事だよ」
この兄弟子は、幾何学模様の透かし彫りを得意とする、ひっぱりだこの売れっ子彫刻家。
「がんばってください」
「つーことで。香も頑張れ。これ、おかみさんから預かってきた」
「ありがとうございます」
「体に気ぃつけて」
「兄さんも。いってらっしゃい」
「おう」
母代わりのおかみさんからの差し入れは、綿入りの羽織だった。これからどんどん寒くなる。とてもありがたかった。
◇
数日後、万暦帝の座った椅子が4人の宦官に担がれて天橋を上っていた。一段一段。天橋の幅は、まるでそのために設えたようにぴったりだった。万暦帝は横向きに座り、椅子には持ち手がついている。そして、万が一落ちたときのためなのか、布団のようなものを持って、下の段から何人もが追従する。
天橋を上り切ると、椅子に座ったままの万暦帝が香のところへやってきた。香は手を止め、ノミと木槌を床に置き、平伏した。
「楽にしなさい。其方の牡丹は見事だ。常洛に聞いた。其方は*『牡丹亭』のファンなのか?」
常洛が洛のことだと、すぐに分かった。
「はい」
香は前傾姿勢を保ちながらも頭を上げた。しかし、床に揃えて置いた手はそのまま、視線も床に置いたままだった。
万暦帝は、穏やかに話す。
「朕もファンなのだ。夢で出会うところから運命的で、身分も時間も生死も超越した魂の恋に深く感動した。其方は、どの部分が気に入っている?」
──ラノベちっくな恋愛モノの感想を聞くって。なんか、女友達みたい。
「男の人が、女の人の絵に呼びかける場面が好きです」
「おお。分かるぞ。最後の盛り上がりに向かうところだ。うんうん。そこも名場面だ。『牡丹亭』の芝居を観たいものだ」
「御意」
「ははは。南部の方では大人気だそうだ。すぐに北京でも上演されるだろう。観に行きなさい」
「はい」
「朕は、自分の運命は、幽霊のように生きることかもしれないと思っているのだ。そんなとき、『牡丹亭』を読んだ。朕の明へ捧げる魂も成就するやもしれぬと希望を持った」
──????? イミフ。どーやって答えればいいの?
香が答えに窮している間に、万暦帝は「ははは」と笑いながら行ってしまった。
──幽霊のように生きるのが運命って、政務をサボってること? 引きこもってること?
──明へ捧げる魂が成就って。明のことを考えてるってことだよね?
◇
宿舎に墨竹がいたので質問してみた。
「幽霊のように生きるって?」
万暦帝の言葉を報告すると、墨竹は泣きそうな顔をする。
「皇帝陛下……」
素敵な人が目の前で辛そうにしている。その姿は、見ている香の胸を締め付けた。
*「牡丹亭」は舞台用の脚本です。この脚本は、万暦26年の秋の段階では書き上がったばかりで、まだ世間に広く知れ渡っていません。庶民が手に取るのはもう少し先と考えられます。この小説はフィクションなので、発表された時期を早くしました。




