幽霊のように生きる
空気の色が変わったのを察し、おっさんは「おやすみなさい」と宿舎の反対側の端の暗がりに消えた。
おっさんは空気を読む。墨竹も白露もまったく気づいていないだろう、香の墨竹ラブに気づいている様子。白露がいるときは、適当な夜更けまで一緒にいるが、墨竹が来たときは、さりげなく2人きりにしてくれる。年の功というものかもしれない、と香は思う。
香と墨竹の2人になった。
「くーん」
チンギスは墨竹にぴったりくっついているけれど。
「もうさ、洛が皇太子になれない訳アリだって知ってんだもんな。香は」
と墨竹は神妙な顔をする。
「うん。それが?」
大きなテーブルの角に2人。頼りない油灯の小さな火が隙間風で揺れる。
「皇帝陛下はとても苦しんでいらっしゃる」
ぽつりぽつりと墨竹は話し始めた。
万暦帝が即位したのは、わずか10歳だった。
小さなころから皇帝になるためのスーパー教育漬け。そして、即位しても日々勉強。周りから常に「皇帝であること」を望まれ、気の休まる時などなかった。10歳の子供にはあまりにも重い。成長して自ら政務に携わるようになっても、益々の重責。
万暦帝は、皇帝が人間らしく生きられないことを身を持って知っていた。
そして、あるころから後宮が不穏になった。
「権力を愛する妃が現れてさ」
と墨竹。
現在の皇貴妃である。
彼女は寵姫に昇りつめ、寵姫であり続ける努力を怠らない。野心に溢れ、息子が皇帝になることを望んだ。万暦帝は、その自分にはない執着と強さに惹かれた。
万暦帝は考える。血筋が大事というならば、皇帝は兄弟のうち誰がやってもいい。後継者争いの歴史は血塗られている。殺し合った末、血を受け継いだうちの勝ち残った者が皇帝になる。ならば、殺し合いが起こる前に皇帝が後継を指名すればいい。
後宮の平和と皇貴妃の野心のため、生まれたばかりの皇貴妃の息子を、皇帝の後継である皇太子にすると宣言した。
しかし、これが通らなかった。歴史でいう国本之争である。
皇帝が皇帝の権限を使えない理不尽。
え、皇帝ってラスボスじゃないの??? ということが起こっている。
後宮内では、子が流れ、死ぬ。それは、昔からよくあることだった。が、多い。多過ぎる。
「それで、洛が言ってたように、洛の母子を冷遇したの?」
ようやく香に万暦帝の考えの端が見えてきた。
「そーなんだ。でも、皇帝陛下は洛に国政に携わって欲しいと考えていらっしゃる。皇帝という位が別の者に渡るとしても」
「え? 何言ってんのか分かんないんだけど」
「皇帝=国を治める」訳ではない。
「垂簾聴政だってあったし、最強官僚がめっちゃいい世をつくってたこともあるしさ、遊んでただけの皇帝もいるじゃん」
「だね」
皇帝の中には、伝説的にヤバい人がちらほらいる。
「だから、皇帝って肩書きは望む人に譲ればいい、と皇帝陛下は考えていらっしゃる。それよりも、洛が政治をすることが大事って」
「……」
「洛が政治をするにはどーすればいーかってこと」
──いえいえ、ぜんぜん分かんないっすけど。
「野心家の寵姫、皇貴妃を廃妃にすればいーじゃん。そしたら後宮が平和」
話から推測すると、皇貴妃は殺人鬼ということになる。
「証拠がない。別の人かもしんない。第2、第3の野心家が出てくるだけ。だから、皇帝陛下は、自分の裁量で、洛を政治に携わらせてる」
「洛の影武者ってこと?」
──それが「幽霊のように生きる」。
「そゆこと。皇帝陛下はわけあって政治家とは距離を置いていらっしゃる。しかし洛が聡明だから、ここぞというときには、皇帝の権限で洛と共に考えて動かれる」
──ちょっと待って。
「洛がそーめー?」
「うん」
──見えないんだけど。
「1番落としちゃいけないものを落とすのに?」
「あの、落とし物皇子」
墨竹は、困った顔で「ちっ」と小さく舌打ち。
「落とし物皇子って呼んでんの?」
「オレと白露だけ」
「あっは」
「あれだけはどーにもならん」
「そーめー?」
「めっちゃ」
「あの、暗いと怖くて墨竹に手ぇ繋いでもらう情けないヤツが?」
「おい、ヤツは不敬だろ」
「墨竹だって、落とし物皇子って呼んでっじゃん」
どっちが不敬だ、と香は墨竹を見る。
──麗し。
どんな表情も完璧である。暗がりで泣きぼくろが益々セクシー。
「皇帝陛下が頼りにされているほど」
「うっそだー」
香はきゃはははと笑った。
「山のようにある上訴を分類、選別して、皇帝陛下に様々なことを提案してる」
「マジで?」
「オレらと同い歳なのに、すごいと思う」
「……」
墨竹は、4年ほど前の話をする。墨竹がまだ護衛として見習いだったころ、皇帝のところにぶかぶかの服を着た宦官が遊びに来ていた。
万暦帝は、官僚達の不正に困り果てていた。
『民の僕となって尽くすべき者達が、特権階級の岩盤となって税を逃れ、不正を働き、民から搾取している。明の病巣になっているのだ。ホバイの乱、日本との戦でどれだけの支出があったことか。それは必要なもの。しかし、戦費が行き渡る途中で、官僚や役人達が中抜きをしている』
それを聞いた洛が進言した。
『父上、それは正すべきことです。官僚が民を治める行政をとり行っています。民は官僚の言うことを聞くしかありません。では官僚は誰の言うことを聞くのか。皇帝陛下ではありませんか』
「って話を、オレは物陰から聞いた」
「へー。墨竹って物陰にいるの?」
「そんときは、暖閣の箱の上」
「そんなところに」
香は驚く。
そのとき、更に洛は具体的な提案をした。
『父上が最も信頼できる人間を方々へ派遣し、官僚を通さず、別に動いて実態を調べるべきです。今、戦費で財政は悪化の一途を辿っています。閉山されていた鉱山を民営化し、再び稼働させるのはどうでしょうか。そして皇帝陛下直属の者達に税を徴収させると同時にその地域を調査させるのです』
当時、聞いていた墨竹には、話の内容が分からなかった。すると、墨竹を指導していた者が簡単に教えてくれた。
『国が使うお金は、官僚達がとりしきる国庫と皇帝陛下の私有財産──財布みたいなもん──内庫に分かれている』
『国庫と内庫』
『戦争で、内庫からもお金を出して、両方とも大打撃を受けている』
『……』
『殿下が提案なさったのは、新しい税を徴収して内庫に入れるってことだ』
『新しい税を内庫に』
『それを徴収するために、官僚を通さずに皇帝陛下直属の者達を派遣して、そいつらに各地の偵察をさせるって方法だ』
鉱山はあったが国営だった。そして、費用や治安問題の理由で、多くが閉山されていた。これらの経営を民間に任せて、鉱税を徴収する。徴収する者は皇帝直属。税は国庫ではなく、内庫に入る。
香はあり得なさに確認した。
「え、ちょっと待って。4年前なんて13歳。ガキんちょじゃん」
数え年なので、12歳ということになる。
「そ」
「ヤッバ」
この案は、官僚の反対にあったが施行された。現在、順調に税が徴収されている。




