生き恥晒すより切腹
鉱税は、歴史において「万暦帝が私腹を肥やすために作った悪しき税制」として知られている。確かに万暦帝は内庫を潤した。戦費を出さなかった、とも語られている。
しかし、実際には戦費やそれに準ずる費用を出した記録がある。一方で、後年、官僚達からの「金を出せ」という要求を断った記録もある。
「新しい税で、少しずつ内庫が回復しつつある。去年、皇帝陛下は、内庫から犒軍(兵士を労うための金品)を出された。それは戦費って言われなくてさ。だけど、官僚らは戦費を出せって言う。不正と汚職で国庫からいっぱい自分らの懐に入れてるのに」
役人や官僚の不正、汚職は常識。税の30%はこれで消えているらしい。
──あっは。皇帝が儲けてるもん。そっちからお金出させて、自分らのポケットに入れなきゃね。
官僚が攻撃するのはごもっとも、と香は思った。
官僚達が不正や汚職をやめて、正しく税と国庫を動かせば、かなりの戦費が調達できるのだろう。しかし、彼らの庶民からかけ離れた豪勢で優雅な生活は不正や汚職で成り立っている。あまりに当然のこととして世の中に組み込まれていて、誰も糾弾しない。
──私には、カンケーない。血税なんだけどさ。
一介の彫刻家、職人である香には、全く別世界の話だった。
すーぴー すーぴー すーぴー
沈黙の中にチンギスの寝息が聞こえる。
「寝ちゃったね」
香は、墨竹の足にお尻をくっつけて丸くなって寝ているチンギスに目を細めた。
墨竹は、慈愛に満ちた眼差しで足元のチンギスの耳をそっと触る。
「子供には難しい話だったかな」
墨竹の言葉に、香は心の中で「夫婦の会話みたい」と密かに悶えていた。
「墨竹がお仕えしてる君主は、明のことを考えておられるんだね。そのために、自分が幽霊のように生きようって決断なさるほど」
「素晴らしい方なんだ。どんなに攻撃されようと、自分が盾となって洛を守って政治をなさる。必要なときに皇帝の権限を使う。明を守り、正そうと日々励んでおられる」
どうやら墨竹は、万暦帝に心酔しているようだった。政治のことなど、スキャンダルな話しかしたことがない香は、眠くなってきた。大口を開けるのが恥ずかしいので、あくびを噛み殺す。すると、ますます目がトロンとしてしまう。
「風邪ひくよ」
不意に、優しいイケボが降ってきた。香はうたた寝していたらしい。立っている墨竹の後ろにはベッドがあり、布団が敷かれている。
どきっ
香は優しさに感激した。
──ひょっとして、このまま寝てたら、抱き上げてつれてってくれるの? きゃーーー、お姫様抱っこ♡
どきどきどきどきどき
一旦顔を上げた香は、下心満載でもう一度テーブルに、こてんと突っ伏した。
パコーン
墨竹はお盆で香の頭を叩いて、一言。
「布団で」
そして暗闇へ、音もなく消えた。
──くっ。ダメか。
「チンギスー」
香はチンギスを呼んでみた。チンギスは暖かい。白露が泊まるときは、チンギスを2人の間にして暖を取る。
しかし。チンギスは香の方へ来てくれなかった。
◇
翌日は白露の日。
おっさんはどんどん小綺麗になっていく。洛が泊まった翌日、白露が綺麗な服を用意した。洛は、おっさんの小汚さを国のスタンダードだと思ったのだ。
『庶民は、着る物にも困るような生活してんの?』
宮廷の奥の奥、後宮育ちの洛は世間知らず。説明を聞き、洛は『これでよしなに』と銀の塊を白露に渡したという。
今のおっさんは、明の男と同じような髪型にしている。
「お似合いです」
と香がほめれば、おっさんは照れて視線を逸らす。
「白露殿には感謝しております」
おっさんを助けたのも、ここへ運んだのも、傷の手当てをしたのも白露。
「感謝なら、お金出した洛に。落とし物皇子は、話できたことと大事なもん拾ってくれたことに感謝してっから、いーんじゃない?」
「とんでもありません」
「今のうちにゆっくりしときなよ。この建物が、いつまであるのかも分かんないしさ」
白露の言葉に、おっさんは顔を曇らせた。
「もう、傷はかなりよくなりました。着るものまでいただいて、そろそろ私は、どこかへ行こうと思います」
行く当てなどあるはずがない。
「どこかって、どこへ行くんですか? 身分証がなければ家を借りることもできません。まともな仕事に就くことも」
香は心配した。
「今までだってなんとかなったのです。これからもなんとかなります。どこにあるのか分からなかった明に来ることができた。その都まで見た。そんな日本人、ちょっといない。十分です」
おっさんの言葉の端々に死の覚悟が見える。「冥土の土産」など言っていたのだ。
彼女の脳裏に、日本の武士の恐るべき文化が浮かぶ。切腹である。明ではありえない、己の腹を自らの手で掻っ捌く死に方。
視界に、おっさんが常に傍に置く刀が入る。
「白露、洛だったら、この方をなんとかできるんじゃない?」
「いえ。これ以上お世話になるわけにはいきません」
おっさんは断った。
白露は「うーん」と黒目だけを天井に向ける。
「落とし物皇子は、力無いからなー。でも、ま。ダメ元で相談してみっか。なんか考えてくれるかも」
おっさんも頷いた。
「洛殿は、様々なことが見えておいでだ。日本に関して、明側はかなり情報を掴んでいて、そこから洛殿なりの推測をされていました。若いのに大局を見ているのだなと思っていたら、皇子。さすが大国の皇子ともなると違うのだなと感心しました」
「きっと奥さんや子供に会えるよ」
と白露はおっさんに言う。
「独身です」
「「……」」
「まだ31です。日本は20代の真ん中辺りで所帯を持つ。私はこっちに来てしまったので」
おっさんは年齢不詳。小さいから若く見えるだけでアラフォーだろう、と香は思っていた。ーーら、本当にそこそこ若かった。実は内心驚いていた。
「「……」」
「さすがにこちらで嫁などという状況ではなかったのです。それだけでなく、こちらの女性は皆大きくて」
香と白露は、女性にしてはかなり長身。しかし、2人のことではなく、明の一般的な女性のことだった。男も女も、日本人の方が5cmほど小柄とのこと。香は「小さいおっさん」と思っていたが、日本にいれば「中肉中背のおっさん」なのだった。
「じゃあ、日本に帰りたいですよね」
恋愛脳の香は、しみじみと言葉を紡ぐ。おっさんは明にいたら、ほぼ恋愛対象でない女性としか出会えないのである。
おっさんは首を横に振る。
「帰れません」
それについては以前聞かされた。白露が再確認する。
「戦死したことになってるから?」
香は別案を出した。
「明で捕虜になってたことにして、日本に帰ってはどうですか?」
再びおっさんは、首を横に振った。
「日本には『生き恥を晒す』という言葉があります。捕虜になった者は、生きて帰れば恥だと考える者もいる。武士なら切腹すべきと」
日本人の口から出た「切腹」という響きは生々しかった。




